1.
赤い舌先が覗く。薄っすらと、吐息がグラスを曇らせる。
飲むわけではなく、舐めるような、噛むような、吸うような唇の動き。カクテル・キスという単語があった、それを思い出させる、確かに扇情的なキスにも見える仕草だ。グラスのふちに押し付けていた唇を、ふっと離して、水兎が口を開く。
「ねーシンさん」
「ん?」
「ドレッドって、肩凝らねーの?」
ホットカクテルだったはずの液体は、もうずいぶん冷めているだろう。ちびちびとグラスの中身を減らしているかと思えば、そんなことを考えていたのか。思いがけない問いかけに面食らいながらも、無意識に手を肩に置いている。
「凝らねえな、別に」
「ふうん」
水兎は軽く唇を突き出して、頬にかかる髪を摘み上げた。くるりと人差し指に絡め取られたキャラメルブラウンの髪が、柔らかくしなる。
「重たくないの?」
「重たくはない。他に色々めんどくさいことは多いけどな」
ストレートに伸ばそうが、絡めて房にしようが、重量自体は大して変わらない。客観的に見て重量感があることはわかるが、この髪型の真骨頂は、管理維持の面倒さにあると思う。ラスタの自然主義には程遠い、ファッションとしてのドレッドだからこそ手入れが必要。根元の補修を繰り返して既に一年ほど維持しているのだから、我ながら物好きだ。
「めんどくさいのって、やっぱシャンプーとか?」
カウンターに少し身を乗り出して、下からこちらを見上げてくる表情は、好奇心に満ちてる。慎は肩口に垂れた一房を背中に払い、笑った。
「お前はやめとけ。似合わねえよ」
「やんねーよ、言われなくても」
すぐ、むっとしたように頬を膨らませる。この甘えた態度と表情がどこまで計算か、大抵の場合おそらく計算なのだろうが、案外こういう時はわからなかったりもする。ただ、生まれ持った端整な容姿の勝利と言うべきか、どちらにせよ外見の魅力にプラスする作用しかないのだから恐ろしい。
平日の居酒屋に開店早々やって来て、カウンター席の真ん中に陣取っている。もうすぐ後期のテストが終わるのだそう、ついこの間夏休みだったような気がするのに、もう春休が始まるのか。自分の学生時代を思い出せば、確かに、時間に関してだけは自由だった。
ふて腐れたように毛先を弄っていた水兎が、今度は少し慎重な上目遣いで、慎を見上げる。ん?と目線だけで聞き返すと、ふいっと反らしてしまった。
「…ノブヒロさんってさ。ずっとあんなかんじ?」
どちらかというと、こちらが本題、か。
「長さは大して変わんねえな。色も、あいつもうほとんど入らないし…前はツイストかけたりしてたけど」
「ふうん」
その気のなさそうな相槌も、微妙にトーンを変える。
毛先に巻きつけていた指をほどき、頬を払い、鼻先をかすめて唇を撫でる。人差し指で下唇を執拗に往復させながら、慎を窺っているのが可笑しかった。
「ミト」
「…何」
「エロいよ」
「は?」
「唇。誘ってんの?」
勢い良く、まつ毛が上下する。水兎は驚いたように目瞬き、唇から手を離した。
「なんだ、無意識?教えとくけど、その方が罪は重いからな」
「つーか。誘ってない」
予想通りの短気な反駁がやはり可笑しく、慎は肩を震わせて失笑を堪えた。
「あ、そ。残念」
「…ねー、どっから冗談?」
「全部本気」
それが一番困るって?むすっと唇を尖らせて、俯いた水兎が、コン、カウンターをつま先で蹴る。
「シンさんってさ、キス上手い?」
「何、急に」
「…俺、キス下手くそだから、する価値ねーよ」
「お前が自分で決めることじゃないな。俺にとって価値があるかは、俺が決める。試してみる?」
誘惑に弱い瞳が、揺れる。ウサギは果たして好色か、答えはたぶん、イエス。一瞬遅れて、我に返ったように警戒心をむき出しにしたかと思えば、また力なく俯いて、水兎は無言で首を振るだけだった。
左手首に巻いたリストバンドを弄るのも、唇をそうするように、何かを持て余しているシグナルかもしれない。成人式に合わせて帰省した郷里で深く傷つけたのだと、本人からではないが、当事者と言える男から聞いている。事故ではなく故意による切り傷は、まだリストバンドを外せるほどには癒えていないのだろう。
「で。ノブヒロの何を訊きたいの」
つい、水を向けてしまえば、キッと睨みつけられる。
「訊きたいことなんかねーよ…あんな節操なしに」
声は尻すぼみに小さくなり、最後、独り言のようになる。弱々しくとも信広を責めるのが、いかにも水兎だ。
「あいつに会ったら伝えといてやるよ。節操なし、だけでいいの?」
「バカ、無神経、浮気男。あんたなんてだいっきらい」
けしかければ、悪言は続けざまに出てくる。
口の悪い彼にしてみたら、それも序の口。思わず目を見開いてしまったのは、そして思わず笑ってしまったのは、別のことに気付いたからだ。
「――お前も大変だね」
大きく揺れた頭は、否定の意味だったのか、肯定の意味だったのか。左目に浮かべた一滴の涙を、水兎は袖口で乱暴に拭った。