Novel >  恋するランドリー >  恋するランドリー1

1.
 ゴールデンウィークを目前にして、バイト先が潰れた。予兆はあったのだと思う。週五のシフトが一日ずつ減り、とうとうなくなるまで、ぼんやりしていたのは自分だ。掛け持ちの家庭教師のバイトは変わらずなのが不幸中の幸いだったが、元々、その二つを掛け持ちしてもなお困窮している程度のいわゆる苦学生である自分の生活は、だから控えめに言って逼迫していた。新学期のバカみたいに高い授業料、預金通帳の三桁の残高、財布の中身は最後の一万円札が一枚きり。家でふて寝をするくらいしか、生き延びる方法もないというものだった。
 そんな憂鬱に追い打ちをかけるように、洗濯機が壊れた。
 卒業した先輩に譲り受けた洗濯機だけでなく、部屋の家電はほとんどもらい物だ。たとえ壊れたのが冷蔵庫でも電子レンジでもドライヤーであっても、とにかく自分にはすぐにそれを買い直す金なんてのはない。
「まじかよ……」
 エラー音を放ったきりうんともすんとも言わなくなった洗濯機の中に、呆然とした呟きが吸い込まれて消えた。

 よく晴れたのどかな午前中、家々の軒先には洗濯物がぶら下がっている。絶好の洗濯日和に、ぎりぎりまで溜め込んだ洗濯物を詰め込んだバッグを両肩に担いで、通りかかることはあっても用のなかったそのコインランドリーに足を踏み入れた。昨年だったろうか改装工事をしてから、外装も中身もずいぶん小ぎれいになっていた。
 無人の店内で、ずらりと並んだ機械を前にしばらく迷う。たぶんこれでいいだろうと水色の蓋を開けて洗濯物を放り込み、表示に従って料金を投入しようとした時、はたと気づく。財布には今、最後の一万円札が一枚きりのほかは、数枚小銭があるのみだ。洗濯は一回五百円、投入口に入れられる紙幣は千円札だけ、見回しても両替機はない。もう一度小銭入れに指を突っ込んでみたところで、小銭が増えているわけもなかった。
 はあ、と、失望のため息が漏れた時だ。
「大丈夫?」
 不意に背後から声がかかり、びくりと肩が跳ねる。機械の前でまごついていたせいで、他の客が入ってきたのに気づかなかったらしい。振り向くと、色の濃いサングラスに相貌の遮られた、得体の知れない雰囲気の男が立っていた。
「あ、はい」
 映《はゆる》は反射的に、へらりと笑い返した。
「両替できないの、知らなくて」
「ああ」
 男はちらりと唇の端で笑うと、自らの財布から千円札を抜き出して投入口に滑り込ませる。釣り銭の落ちる音、続いて、彼の指で押されたスタートボタンの音。動き出したのは、映の衣類を入れた洗濯機だ。いつまでも戸惑っているわけにいかなかった。
「や、あの、すいません、俺……今、万札しかなくて」
「いいよ、奢り」
「そういうわけには」
「お近づきのしるし」
 ジャー、と、小気味良い音を伴ってガラスの向こうで水が噴出する。
 正直、渡りに船だった。どこの誰だか知らないが。この男の気まぐれのおかげで一食分の食費が確保できたのだから。
「あの」
「うん」
「ありがとう、ございます」
「いーえ」
 もう一度、今度はにやりと唇の端で笑い、男もまた洗濯機の蓋を開けた。ガコ。

 二台の洗濯機の稼働する音が、店内に響いている。
 アパートと家を往復するのも面倒だからベンチで時間を潰すことにしたのだが、すぐ隣にさっきの男が当然のように腰掛けるから、急に居心地が悪くなる。今の映にとっては恩人に等しいものの、とにかく、その風体が怪しい。色の濃いサングラス、ボタンを二つ外したワイシャツの首元にネクタイはなく、しっかりプレスされているように見えるスラックスに、つま先まで磨き上げられた革靴。額に垂れた一房の前髪をうっとうしそうにかき上げた左手首には、自分でも知っているロレックスの腕時計がはめられている。それに、さっきからほんのり漂ってくる、煙草の混じったおそらく上等の香水のにおい。堅気のサラリーマンには思えない――映の貧困な想像力では、彼の職業は、職業というかジャンルは、ひとつしかなかった。
 横並びになると、サングラスの隙間から彼の目元が見える。少し目蓋の重い奥二重をなんとなく盗み見ていると、不意に彼の黒目がこちらへ動くから、内心焦りながら格好ばかり開いていた小説のページに目を落とした。
「なあ、初めて見る顔だよな?」
「……初めて来ました。洗濯機がぶっ壊れて」
「はは、お気の毒」
「あの、お兄さんは」
「お。世渡りわかってるね」
「お兄さん……は、よく来るんですか?」
「そりゃもう、常連だよ。きみが初めて来たことがわかるくらいには」
「洗濯機、ないんですか?」
 我ながら面白いせりふとは到底思えなかったが、彼はなぜか、ははっと大きく破顔する。
「別れたオトコが嫌がらせに洗濯機持って出てったことはあるけどな」
「――へえ」
「っていうか、家財道具一式。ついでにキャッシュカードも。追いかけてぶっ殺してやろうとも思ったけど、それやってたら今もずるずる続いてたかもなあ」
「――――へえ」
「信じた?」
「あ。冗談」
「いや、ほんと。ちょうどいいんだよな」
「はあ」
「興味持ってよ。仕事サボるのにさ、洗濯物洗って乾かすくらいの時間がちょうどいいの」
 つまり彼は今、仕事をサボってここにいるというわけだろう。はあ、とやはり間の抜けた相槌を打ったきり、沈黙が流れる。映は読んでもいないページを一枚めくり、しかしすぐに耐えかねて口を開いた。
「あの」
「うん?」
「ありがとうございます、ほんとに」
「何が?」
「料金。正直、今、金欠で……」
「金に困ってんの?」
 何でもないふうに言う横合いの男はといえば、それとは正反対の雰囲気だ。
「バイト先が潰れちゃって。次、探してはいるんですけど、なかなか見つからなくて」
「不景気なのは大人だけじゃないよな。大学生?」
「はい」
「どこ?」
 名前こそよく知れた私立大学の名前を挙げると、
「学部は?」
 さらに細かな情報まで要求されて戸惑う。芽生えては引っ込む警戒心を悟られないように、映は一言だけ応えた。
「法学部です」
「優秀じゃん」
「ほんとに優秀だったら、他行ってますよ」
「あー、まあなぁ」
 彼は愉快そうに肩を揺らし、すっくと立ち上がった。堂々と姿勢の良い後ろ姿が遠ざかり、自動ドアの向こうに消えるのを見送る。妙な男から解放されたと安心したのも束の間、再び自動ドアが開き、彼は缶コーヒーを両手に戻って来た。
「はい」
「や……」
「いいじゃん。お近づきのしるし。甘いコーヒーだめ?」
「好き、ですけど」
「ほら」
 映の手元に冷たい缶コーヒーを押しつけ、男がまたどっかりと横に座る。
「ありがと……ございます」
 口の中で呟いて、プルタブに爪を立てる。冷たいスチール缶に唇を当て、よく冷えた甘ったるいコーヒーを口に含むと、そう言えば今日初めて水以外のものを口にしたと気づく。
 実家はこれ以上頼れない。中退して帰るなんて、もちろん考えられない。自分は絶対に元を取らなければいけない。洗濯機を買い換える金はない。それどころか、居酒屋のバイトを失って賄い食にありつけなくなってからは、三食まともに食べていない。自販機の缶コーヒーが、ひどくうまかった。
(やばい)
 鼻の奥がつうんと痛む。
 たぶん彼が、得体の知れない怪しげな人物だからなのだと思う。少しでも知った相手だったら、こんなところで、こんな、みっともないことにはならない。
 溢れそうになった涙を慌てて拭う。盗み見た彼の横顔は少なくともこちらを見てはおらず、それにほっとして、もう一口含んだ。

 彼の気の向くままに、最近の大学生のキャンパスライフのことや(自分はそれを満喫している人種ではないが)、バイトのことや(今は半分失業中だが)、結局ろくに読めなかった小説のあらすじなんかを喋らされた。それからうっかり出身県を答えてしまい、少しひやりともした。まあ、自分のような令和に珍しい貧乏学生なんか、なんの金づるにもならないだろうけど。いや、逆に、それくらい金に困っていて人間関係の薄い人材のほうが、何かと役に立つかもしれない。
 やがて、洗濯終了のアラートが鳴る。ついに、他の客は現れなかった。
 湿った洗濯物をゴミ出し用のポリ袋に詰め込んで、ずっしりと重いそれを担ぐ。つまらなそうにスマートフォンを弄っていた彼が、胡乱げに顔を上げた。
「帰るの?」
「……終わったんで。帰って干さないと」
「乾燥機かけてけばいいじゃん、奢るよ?」
 二言目にはそれだとおかしくなって、とうとう笑ってしまう。
「今度会ったら、また洗濯奢ってください。俺、しばらく洗濯機買えないんで」
「いいよ、約束な」
 あんまり無邪気な言い方に、また、笑ってしまった。
「送ってこうか?」
「や、近いんで」
 なんて言葉を交わしながら、自動ドアを潜る映のあとをついてくるから。
「あの、歩いて帰ります」
 たまらず振り向いて言うと、彼は肩を竦めて人差し指と中指を唇につける。
「ん。煙草」
 自意識過剰に熱くなった耳をごまかしたくて、映はぺこりと頭を下げた。
「そうだ。名前は?」
 とどめのようにかけられた言葉。逡巡に許された時間はあまりに短く、咄嗟に偽名なんて思いつかなかった映は、馬鹿正直に本名を答えることになる。珍しくない名字でよかった。
「山崎です」
「山崎くん。またな」
 電子煙草のケースからホルダーを取り出しながら、彼は唇で笑った。

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