Novel >  さよならBlue >  嫉妬のあとさき4

4.

 眠っていた自覚のないまま、目覚めてしまった感覚。
 いつ寝てしまったんだろうと戸惑いながらも、睡眠に委ねていたと確かにわかる心身を支配する気だるさに、同じくらい納得している感覚。
 ぽっかり抜け落ちた時間を取り戻すために、ベッドに身体を起こして周囲を見回す。壁側のテレビはただ静かに砂嵐を映し出し、テーブルの上のペットボトルは…そう、飲みかけのまま。
 部屋は、深い青色に満たされている。やがて透明度を増していく予感をさせる、夜明け前の青だ。
 喉が渇いている。昨夜のワインのせいかもしれない。
 碧はベッドを降りて、テーブルのペットボトルを手に取る。冷たくもぬるくもない水を喉に流し込むと、自覚症状よりずっと重度だったらしく、求めるようにごくごくと音が鳴った。
 カーテンの向こうに目を向ける。やはり青い、眠った町が見える。
 テレビの砂嵐を終了させると、ふと、窓際に置いた一鉢の植物が目に入る。膝丈より少し背の高いサボテンは、南向きの窓際が定位置だった。鉢の前でしゃがみ込むと、鼻先から目の高さと同じくらいになる。碧は締めたばかりのキャップを外し、ペットボトルの残りの水を鉢植えに注いだ。最近さぼっててごめん、と、謝罪を込めて、最後の一滴まで落とす。
 彼らの生まれ育った環境を無視せずに育てること、つまりたっぷりの日光と、乾燥地帯の気候に準じた水を与えることが重要なのだと。雨季に相当する春と秋には、じゅうぶんな水を。うろ覚えのハウツーをネット検索で立証して、最終的には、猫と同じで必要なのは愛情と責任だなんて茶化すような精神論で締め括っていたけど。
 ――はっと顔を上げると、こっちが現実。
 夢のような記憶のようなイメージは、既に去っている。手元に目を落とすと、逆さのペットボトルからはもう水は一滴も垂れていない。碧は空の容器を鉢植えの隣に置いて、立ち上がった。
 長く眠れない体質で、早朝に目覚めてしまうことなんてよくあるけど。それだって与えられたきっかけの一つなんだと思う。洗面所で顔を洗い、ジーンズとTシャツに着替える。上から薄手のジャケットを羽織り、寝癖のついた髪は帽子に押し込む。ジーンズの左側の尻ポケットに携帯電話と財布を、右側には空の煙草ケースを。外出のための身支度はそれだけでいい、あとは玄関の鍵を閉めるだけだ。

 ミステリーのワンシーンみたいだ。駅にいる人間全員が、突然消える。必然性に支配されたフィクションの世界であるかのように、始発前の駅は無人だった。無人のコンコースを抜け、ホームに出る。照明だけがこうこうと光る空間に居場所がなく、下りた階段から一番近い位置で立ち止まった。ぽつりぽつりと人がいる程度だったホームも、始発の時刻が近づくにつれて小さな列ができ始める。対岸も同じように、いつの間にか数人ずつ、人が並んでいる。終電のホームに少し雰囲気が似ているかもしれない。人間の表情とか、背景に想像できる事情とか。
 ホームに立っている間に、空気がうっすらと白み始める。
 がらがらの電車に二十分ほど揺られる。目的の駅にはラインの内側にずらりと人が並んでいて、繁華街から朝帰りをする彼らと入れ替わりに、電車を降りた。改札を出て、バス乗り場を右手に進む。歩道橋を上り、左に曲がって、通り沿いをまっすぐ歩く。途中現れた細長い歩道橋をまた上り、湾曲した首都高の一部を遠くに見ながら進む。やがて歩道橋は左へ直角に曲がり、下り階段になるのだが、碧はその突き当たりで足を止め、手すりを掴んだ。
 たぶんここからじゃないかって、思ってたんだ。
 彼の作品集の中に、ペンキの剥げかけた鉄柵を通して、向こうのビル郡を撮った一枚がある。地名と撮影時刻だけを冠した一枚。朽ちた鉄柵と日常的な高度、この歩道橋だと思っていた。近いのは時間だけで、角度も青の透明さも、写真に比べたら全然完璧じゃないけど。
 左の尻ポケットから、携帯電話を取り出す。切れるまで鳴らすつもりで、たっぷりコールする。非常識な時間の非常識な電話を、しかし、向こう側の人物は咎めなかった。
『どうした…?』
 寝ぼけた声が、気遣うように、深刻にひそめられている。
「今すぐ来てください」
『どこへ?』
「あなたの本の中で、一番青い場所」
 一方的にそれだけ告げて、碧は電話を切った。

 

 たった五分の間に何度も時間を確認していることに気づいて、それきり、携帯電話を開くのをやめた。だから、三十分なのか五十分なのか一時間経っているのか、狂った体内時計ではまるきり予想もできなかった。歩道橋を渡る人は、ほとんどいない。通りすがりの彼らにとって、自分はどこかの酔っ払いと同程度の存在でしかないだろう。下り階段の一番てっぺんに座り込んで、鉄柵に寄りかかっている男のことなんて。
 何度目かの、人間の気配を感じる。
 息を切らせて走り寄って来るような芝居じみたことを、彼はしなかった。
 ヘビーユースの擦り切れたスニーカーで、一歩ずつ近づいてくる。つぶれてひしゃげた煙草ケースを放ると、危なげなく片手でキャッチしてみせた永久は、その正体に気づいて左肩だけすくめる。鉄柵にもたれたままの碧を見下ろす位置で止まると、片頬で皮肉っぽく笑った。
「理由ある六日間の音信不通は、理由のない場合に比べてはるかに長いよ」
「…それは、悪いのがあなただから」
「うん」
 語尾を浅い吐息で曖昧にして、永久が頷く。彼が平然としたふりを貫くには、少し、息が上がりすぎていた。碧は立ち上がり、ジーンズの尻を払いながら街並みを振り返る。
「あなたの写真のほうが、もっと、青かった気がする」
「少し暗く、撮るんだ」
 背後からの、迷いのない即答。
 首だけ捻って永久を見ると、彼の指先のジェスチャーが、ここにはないカメラを動かしていた。
「光を逃がして、影を掴まえるんだよ。暗さの中でこそ、その色彩が際立つ。花の赤とか、夜明けの青、とかさ」
 ファンタジーのような表現だなと思った。
 弧を描くように首をめぐらせて、永久が歩き出す。来た道を引き返す彼の足取りを、碧は黙って追いかけた。
 駅は既に、日常の混雑が始まる気配を見せていた。人並みの作った流れに乗って、車両にたどり着く。座席は埋まっていて、ドアの横に並んで立つことになった。連続的に軋むレールの音と、乗客の存在感だけで、車内はざわついた印象になる。
「サボテン…」
 ぽつりと落とした声を、
「ん?」
 永久が拾う。
「水遣り、週に一度でいいんだっけ」
「目安はね」
 途中で交わした会話は、それだけだった。
 乗り換えを経て降りたのは、永久の住む街だ。大きな総合大学を有する住宅街。細い路地を入ったところにある、くすんだグレーの長方形の建物に入る。階段を三階分上がり、最上階のドアに鍵を差し込むと、ガチャンと重たい音がする。
 部屋の中は、薄い水色だった。夜明けのグラデーションの、端っこの色だ。
 ソファーの上のよじれた毛布と、抜け殻になったスウェットが、出発の慌しさを物語っている。そのソファーの端と端に、二人は腰掛けた。
「あなたを好きになって…」
 ローテーブルの灰皿に向かって、碧は呟く。小ぶりの欠けた片口には、ぎっしりと吸殻が押し込まれていた。
「うん」
「あなたと付き合うようになって。なってみて、全然、覚悟ができてなかったんだって思い知らされてる」
「覚悟?」
「あなたがすごく自由で、身勝手な人だって覚悟」
「…うん」
「ああいうことは、やるなら、俺に見えないとこでやってください」
「ひとを浮気者みたいに言う…」
 そうやって、弱ったように笑うけど。
 インスピレーションに従順な男。きれいだと思えばきれいだと言い、その感覚を形にする能力を持ち、表現する手段を知っている。金髪の少年の写った写真が、単なるポートレートではないことはすぐにわかった。そこには、確かな意図があった。朝の青を撮るために彼がそうしたような、確かな意図だ。料理の腕や、海外の古いポップスの知識なんかとは違う。修練では決して身につかない、神様のえこひいきによる才能を、永久は有している。
「俺は、そのくらいのことで怒ったり落ち込んだりするんです…あなたに対して覚悟ができてなかったのが、いけなかったと思う。あなたはすごく自由ですごく身勝手な――芸術家だって、わかってたのに」
 紡ぐ言葉は全部、自分の膝に落ちていく。その俯いた視界を遮るように腿に置かれたのは、
「きみのせいじゃない」
 永久の手だった。上半身をでソファーに寝そべるような姿勢で、碧を見上げてくる。縋るポーズにも似ていた。
「俺が悪い。俺には、きみを必要ないことで怒らせたり落ち込んだりさせる、どっかそういうとこ、きっとあるよ。失敗の経験から学習できない程度にはさ、重症の」
 失恋の理由が大抵そこにあったのだと、言外に自嘲する瞳。いつしか、腿に触れた彼の手に力が入っていると気づき、似ているのでなく、縋るポーズそのものなのだと理解する。
「…何度も失敗してきた?」
「何度か、ね」
 その訂正は重要だ。
「自分とは長い付き合いだから、よくわかってるつもりでいたんだけど…きみが、あんまり俺に近いとこにいる気がしてたから。そのことを忘れてもいいって、思ってたのかもしれない」
 痩せた身体が、擦り寄ってくる。
「自分の目の前で、他のやつのこと思われて、気分良くなるやつなんていねーよ」
「うん」
「ごめん、碧」
「うん」
 腰に回された腕をさすりながら、混色の頭に、自分の頭を乗せる。
「俺だって…ほんとはもっと、近くにいてあげたいけど」
「ん?」
 自覚はないのだろう、彼が、写真の中の少年を一途に賞賛した行為自体を、決して撤回も否定もしていないってことを。
「無理なんです。俺はそういうの、持ってないから。あなたみたいにはなれないよ」
 彼の中の、堅く守られた矜持に気づくくらいには近くても、それを理解できるほど同じ位置にいない。写真の中で「ありのまま」を際立たせた人物を見れば、その距離だって簡単に揺らぐ。
「俺はやっぱり、カメラの中で…誰かを作るだけ」
「…けど俺は、そういうの、持ってないぜ」
 微笑の振動が、こめかみから伝わってきた。頭蓋骨が共鳴する感覚って、どこか神秘を感じさせる。
 知らず知らずのうちに、手足が絡まっている。触れるか触れないかの唇、駆け引きはなくて、ただもどかしさを表現する手段だ。碧の前髪に指を入れながら、永久が囁く。
「仲直りの手段にセックスを選ぶのは、卑怯?」
「そうかもしれないけど…今はたぶん、有効」
 唇が合わさる。こすり合わせて、吸って、舌を繋げる。ねっとりと湧き出す唾液を求めて、口をすぼめる。
「…は」
 どうせソファーから落ちるなら、最初から床で。キスの間、途切れ途切れに話し合って出した結論に従い、ローテーブルを退かして作ったスペースに毛布を広げる。服を脱ぎ、下着の上からお互いに触れると、二匹の生き物は笑ってしまうくらい硬かった。
「…なあ。きみは知らないだろ」
「何…?」
「映画…俺だって面白くないってことをさ」
 伸ばされた永久の手が、下唇をなぞる。唇の間に人差し指を入れようとするから、口を開け、その指を咥えた。
「キスの仕方が、本物と同じだった」
 碧の舌を弄びながら、些細なラブシーンを非難する。
「…そんなこと」
「割り切ってるのは、きみだけってことだよ。俺にとっては誇らしいだけじゃない、現実のきみが一部でも切り売りされてる事実は、非常に不愉快なんだぜ」
 他人事みたいな口ぶりで笑いながら、器用に片眉を上げてみせる。碧は眉尻のピアスにキスをして、薄い頬を撫でた。
「永久」
「ん?」
「優しくしたいから。それ以上、可愛いこと言わないで…?」
「わは」
 眼下で大きく破顔した彼は、その大仰な笑顔を引っ込めると、生真面目なトーンで言う。
「乱暴でもいいよ。痛いくらいが、罰になる」
「…バカ」
 永久の膝を、胸につけるように押す。露になった入り口を自分の指で広げる、ひどく扇情的な仕草で、彼は碧を誘った。

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