Novel >  ベイビー、ベイビー >  夕方のデュエット1

1.

 何度か先送りにしてきたものの、いつかは実行しなければならなかったことだ。実行に当たってはある程度まとまった休暇が必要であり、自分の場合、正月休み、ゴールデンウィーク、お盆休みという、世間で最も一般的な休暇のうちどれかを利用するしかない。取りも直さず、自分も含め世間一般と呼ばれる割合の国民が同じ状況下にあり、それが原因で発生するのがいわゆる帰省ラッシュというやつだ。
 実家に赴くのは、おそらく二年ぶりくらいだろう。
 帰省ラッシュに巻き込まれるのが億劫でつい消極的になっていたが、パスし続けるのにも限界があり、この度上限に達したというわけ。
 お盆休みの初日、帰省ラッシュの始まりとともに、早朝というか未明にマンションを出て実家に向かった。道程の大半をラッシュの方向に逆流する形だったので、比較的車の流れは良かったが、観光地であり避暑地である目的地内で完全に渋滞にはまり、昼近くになって到着する。
 実家とはいえ、摂が大学卒業後に、両親がセカンドライフを送るために構えた家だ。林の中に辛うじて舗装された山道を進む感覚も、ログハウス風の外観にも、隅々までこだわった調度品にも、実のところあまり思い入れがないというのが本音。もちろん、そこが両親の家だという唯一無二の理由から、摂は数えるほどしか訪れたことのない実家を愛している。
 両親、姉夫婦と甥、の五人と一日過ごし、翌日には一足先に戻ることにしていた。一泊二日の強行帰省である。母と姉、それから甥にそれぞれ引き止められ、出発予定時刻が大きくずれ込んだものの、昼頃には実家を後にする。
 さて、大変なのはここからだ。往路は上りであるため多少は楽だったが、復路は下り、そして帰省ラッシュの最終日でもあり、つまりそれらの要因から考えられる最悪の道路状況だった。カーナビの到着予測時間に思わず笑いが込み上げ、画面を閉じたのは言うまでもない。
 それでも、きつい日差しが夕陽に変わる前にはマンションに到着する。優に三十五度はあるだろう気温とそれ以上に不快な湿気に、早速実家の気候が恋しくなったり。トランクから取り出した小さな旅行鞄が妙にずっしりしているのは、手土産のワインのせいだろう。

 

 家じゅうの窓を全開にし、こもった熱と淀んだ空気を追い出す。
 カーテンを少し揺らす程度、わずかにしか流れ込んではこない風が、今は貴重だ。
 窓を開けるのと同時にエアコンを付け、とにかく一秒でも早く冷房効果を得る作戦。フル回転するファンの音を聞きながら、携帯電話を耳に当てる。
 呼び出し音から留守番電話のガイダンスに切り替わるまでしっかり聞いて、メッセージは残さずに切る。
 携帯電話を放り出す間さえ与えず、手の中で着信音が鳴った。
 別室かどこかで着信音に気付いたものの、出る前に留守電になってしまった、ってとこだろう。たぶん。
「Hello」
『Hello』
 たった一言でさえ完璧な、気品あるイギリス英語。
「一階にいた?」
『いえ、鞄の中を探すのに手間取りました。摂は?今どこにいるの?』
「帰って来たとこ」
『ああ。お帰りなさい』
「ただいま」
 柔らかいテノールに心を、柔らかいソファーに体を委ねながら、摂は目を閉じた。
『向こうはどうでした?』
「さすがに涼しかったよ。冬は極寒豪雪らしいけど、やっぱり夏は過ごしやすいね。両親も俺より元気なくらいだったし」
『はは、それは何と言うか、なによりです』
「でしょ。甥っ子も大きくなっててびっくりした。あと、道路!ちょー混んでたよ」
『だろうね。お疲れ様でした』
「うん。もう外出たくない、残りの休暇は家でゴロゴロする」
 呆れ笑いの振動も、心地よい。
『まあ、無事で良かった』
「祈ってくれたおかげかも。ねえ」
『うん?』
「キスしたいなぁ」
 右耳に失笑が弾けた。
『―――そうだね、俺も』
「待ってる」
『ええ』
 ノアの声の後ろで、椅子が動いたりキーが揺れたりしているのには、さっきから気付いている。帰省の日程はあらかじめ伝えてあったのだから、彼が摂の帰宅を待ってくれていたと確信できる。
 ひとまず電話越しにキスを送り合い、通話を終える。
 彼ほど魅力的に電話越しのキスができる人物を他に知らないが、必ずしも良い効果ばかりもたらすわけではないなと思いながら、摂は携帯電話を閉じた。

 

「Seth」
 優しい呼びかけに、ふっと目を開ける。
 濃い影が落ちていてもわかる、西洋的であり東洋的でもあるエキゾチックな顔立ち。
「ノア。早かったね」
 凡庸な彫刻よりよほど芸術的な造りの顔が、ゆっくりと綻んで人間味を帯びていく。
「結構、渋滞してたけど?」
「そう?」
「そう。摂は、窓全開で、エアコン点けて、何やってたの?」
「―――あれ?」
 今の自分は寝ぼけているのだと、遅れて理解する。
 ひととき寛いでいただけのはずだったのだが、完全に眠っていたらしい。
 空気の入れ替えをしながら部屋を冷やしていたつもりが、せっかくの冷気を無為に逃がすだけになっていたよう。いつの間にか部屋中オレンジ色に染まり、煩わしかった蝉の声もずいぶん落ち着いている。
「疲れてたんでしょう。もう少し寝る?」
「ううん、だいじょぶ」
 窓を閉めるノアの背中を見ながら、大きく伸びをする。
 時間が早送りされたわけではなく、居眠りによってショートカットしただけということか。使用機会の少ない発音で珍しく呼ばれたと思ったのも、単なる聞き違いかもしれない。
「摂?」
 忍び笑いが伝わってしまったようだ。
「ん。得したなあと思って」
「どういう意味?」
「すぐ会いたいと思ってたら、ほんとにそうなったからさ。目を瞑って開けたら、ノアがいるんだもん」
「………俺はその間、渋滞にはまったりしてたけどね」
「だから、俺が得してるわけ」
「なるほど」
 納得したかどうかはともかく、頷いたノアはソファーの背面から回り込んで、摂の隣に腰かけた。
「ああ、俺も一つ得したかな」
「お?」
「摂の寝顔を、しばらく見られたので」
「そんなの、もう見飽きたんじゃないの~?」
「まさか。見飽きることなんてないよ」
「わお、よく言う」
「信じてないね?」
「信じてる。ありがと」
 目の前には、決して見飽きることのないハンサムな顔があるわけだが。その中でたった一点、違和感を訴えかけてくるパーツがある。摂はノアの顔に手を伸ばし、こめかみの位置から眼鏡のつるを浮かせた。
「ところで、眼鏡変えたの?」
 コンタクトレンズをしていない時は、眼鏡をかけているノアだ。やや大ぶりの、黒いセルフレームしか見たことがなかったので、対照的にほっそりとしたメタルフレームが新鮮を通り越して不思議に感じる。シンプルなデザインだと、ノーブルな印象が強まる分、一見した親しみやすさがほんの少しだけ減るかもしれない。ただ、そういった視覚的な刺激とは別に、形式的にでも一言相談があってもいいだろうと、言下に伝えたいのはそのことだ。
「変えたというか、戻したというか。古い眼鏡なんですが」
「いつものは?どうしたの?」
 レンズの向こうで、倍率の歪んだ黒い瞳が細まる。
「その話、今すぐ聞きたい?」
 眼鏡を最後まで取り去る前に、頬にキスをされた。
「ふふふふ。後でいい」
 首筋をくすぐる息に身悶えながら、手探りで、テーブルの上に眼鏡を置く。自由になった手でノアの頬、髪を撫で、首を抱きながらソファーにもつれ込む。弄りあいながらの流動的な口付けは、すぐに唇どうしを重ねた愛撫になる。性急な動作に耐えかねたのは、標準サイズと規格外サイズの大人二人を受け止めていたソファーだった。逞しい腕を二回、軽く叩き、中断要請をする。
「―――無理無理、だめ、壊れちゃう」
「うん?」
「俺がじゃなくて、ソファーが、ね?」
「はは、そうだね」
 返事だけは素直だったが、もう数秒摂の唇を吸ってから、ようやくノアは身体を起こした。
「もう………」
 少し調子を狂わされたせいで、息が上がっている。
「ごめん」
「思ってもないこと言う暇あったら、ほら、さっさと服脱いで、さっさとベッドに行く」
「かしこまりました」
 腹を軽く蹴り上げてやっても、微動だにしないのだからこういう時憎たらしい。それに加えて、服従の意を表す最上級の英語の完璧さといったら、あまりに憎らしく、あまりに愛しいではないか。
 時間をかけて楽しむことの多い自分達だが、今、荒々しく繋がる快楽を忌避する理由はどこにもない。

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