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8.

 目覚めには、一杯のコーヒーと一本の煙草が不可欠だ。最初は習慣だったのかもしれないが、今では中毒に近い。もっとも、正確には欠いたことがないだけで、なかったらなかったで案外すんなりと一日が始まるかもしれない。
 シンクの端には既に、飲み口が上になったマグカップが置いてある。日夏はもう起きているらしい。寝る前に律儀に洗って伏せていた、茶色いマグカップだ。決して無理強いしたわけではない、熊の顔がプリントされたファンシーなマグカップは、彼が自主的に使っている。
「もう少ししたら出るぞ」
 隣の部屋へ声をかけると、慌てたように日夏が振り返った。
「ああ、悪い」
「……いえ」
 着替えの最中だったらしく、白い脇腹がさっとTシャツの下に隠れる。どうやら人前で着替えるのが苦手なようだが、それにしても奇妙な罪悪感を抱かせる反応だ。なにも覗き見したつもりはないしする理由もないというのに、ばつの悪さから、思わず背中を向けてしまったではないか。
「上着もちゃんと着ろよ」
「はい」
 今回は笑われても仕方ない。我ながら不必要なことを言ったとは思っている。ようやく冬らしい日が続くようになったのだ、今夜もまた冷えるだろう。

 

「今日あたり、荷物が二、三件届くぞ」
「えと、酒ですか?」
「ああ」
 二つしかないテーブルを丹念に拭いていた日夏が、布巾を折りたたみながら戻ってくる。
「ビールが多いって言ってたけど、他にはどんなのがあるんですか?」
「酒なら何でも――と、これも言ったか」
「あの、どんな料理がいいかなって」
 コンロの上では既に、大根おでんが煮返されている。日夏が最初に作った分は当日でなくなり、今あるのは、日曜に仕込んだものだ。今週の来客を見越して多めに作ってある。他にもいくつか、休みにも関わらず今日のために作っていたものがあったろう。
「そういう細かい配慮はいいぞ」
「……すいません」
 もちろん怒ったわけではない。大雑把なこの店にとってじゅうぶんすぎる配慮だという意味だったのだが、目の前でしゅんとされればやはり、にべもないことを言った気分になる。
「……謝ることじゃない。そうだな、今あるのがキリン、タイの地ビール、台湾ビール、バドワイザー。で、このあたりは日本酒と焼酎。他にもラム酒だスコッチだワインだ、手当たり次第だな。酒には詳しいか?」
「あんまり……」
「俺もだ。呑めりゃ何でもいい。うちの客もそういう連中だ。知らない銘柄も多いと思うが、高価なものはほとんどない。珍しそうなのを適当に置いてるだけなんでね。もっとも、よく売れるのはビール、日本酒、焼酎。普通の居酒屋と同じだろうな」
 棚に揃えた酒瓶をじっと見ていた日夏は、その考え込んだ表情のまま、丈を見上げた。
「あの……俺、酒あんまり呑めなくて」
「具体的には?」
「缶チューハイとかなら、一本くらいはなんとか……普通のビールはコップ一杯でふわふわになるし、日本酒は舐めるくらいで」
「なるほど」
 丈が手を伸ばすと、大げさに首をすくめる。どうせ顔色を窺うなら、正確に読み取ってほしいものだ。優しい顔立ちでない自覚はあるが、今のところ彼に対して怒ったことは一度もないはずである。日夏の小さな頭に手を乗せ、揺らす。
「ぶっ倒れてはじめてわかった、ってんじゃ面倒だからな。そういうことは言ってもらったほうがいい。勧めてくる客も多いからな」
「すいません……」
「……なんだ、変わった髪型してたんだな」
 若者らしく洒落た髪型だとは思っていたが、触ってみるとよくよく変わっている。前髪が長いのに比べて、側頭部は刈上げに近い。そういえば昔ツーブロックという髪型が流行ったが、それに似ているような気もする。そんな死語は、死語という言葉も含めておそらく彼には通じないだろう。
「……だいぶ伸びてきちゃったけど」
 長い前髪を引っ張りながら、日夏は決まり悪そうに笑った。
 入口に人影が差し、ガラリと戸が開く。
「崇だな。もうそんな時間か」
「あ、いらっしゃいませ」
「ん」
 いつものように片手で応える崇に、丈もまた、いつものように声をかける。
「暖簾出しといてくれ」
「ん。表に運送屋の車、停まってたよ」
「そうか」
 勝手口を開けると、段ボールを抱えた顔なじみの運送屋が小走りに来るところだ。
「日夏、崇の相手しといてくれ。どうも、ご苦労さん。それ一つ?」
「あと二つあります。今運びますんで」
「悪いね、いつも重たいもんを」
 送り主の名前を確認しつつ、その場でばりばりとガムテープ外し、段ボールの中身を確認する。
 背後では、崇と日夏がぽつりぽつりと会話している。
「大根、今日もある?」
「あ、はい。よそいますね」
「ん」
 一往復で早速の沈黙。出汁のいいにおいが漂ってくる。
「あの、崇さんって、何のお仕事されてるんですか?」
「丈から聞かなかった?」
「聞いたんですけど、よくわからなくて……すいません」
 もう一往復で、またもや沈黙。伝票にサインを終え、助け舟を出す。
「俺がよくわかってねーからな」
「だろうね」
「作家さんなんですよね」
「まあ、一応、小説書いてる。セカイ系」
「……セカイケ」
「ん。大根は?」
「あ、すいません」
 小鉢片手に不思議そうな顔をしていた日夏に大根を催促し、それきり崇は携帯端末から顔を上げなくなった。
「こういうやつなんだ」

 

 作り置きの酒肴のうち、長ネギのマリネが最初になくなる。
 五センチほどに切った長ネギをフライパンでじっくり焼き、それを油と塩と酢で和えただけのものだ。だけ、とは日夏の弁なので、自分にできるかはやってみないとわからない。スーパーの特売品だったネギが驚くほど甘く変化しており、焼き色もそそる、実に酒呑みの好む味だった。おでんを作る時に出た大根の皮も、浅漬けとして一品になっている。これもじきに底を突くだろう。先ほどなどは、厚揚げを焼いている丈の隣で生姜の利いた餡ができあがっており、東雲史上初、厚揚げに生醤油以外のものがかかることになった。
「丈さん、使っていい日本酒ありますか?」
「使えない日本酒なんて置いてねーぞ」
「……あの、料理に使うようなのって」
「なくなりそうなやつから適当に使ってくれ――これでいいか」
 数センチしか中身の残っていない一升瓶を渡すと、日夏はそれをおもむろにフライパンに注ぎ始めた。フライパンには何種類ものきのこがぶつ切りにされ、ぎっしり詰め込まれている。
「それは?」
「蓋して、酒蒸しにします」
「酒だけでいいのか?」
「少し塩振ってあるけど、酒だけです。味付けは食べる時にする感じで。粗熱取って冷やせば、二、三日もつと思います」
「なるほどな」
 ジュワっと酒の蒸発する音が、蓋の中に消えていった。
「こんばんはー」
 戸が開き、明るい声がする。
 明るいだけでなく、こんな店だと一層よく通る、女の声だ。ヒールの高いブーツで一歩一歩進むたび、長い髪と、コートから覗くスカートの裾が揺れる。
「おう、雪絵(ゆきえ)ちゃん。しばらくぶりだな」
「お久しぶりでーす」
 ぱっと笑って手を振るのは、このところ顔を見せていなかったが、東雲の常連客の一人だ。
「嬉しそうな顔しちゃって。俺にも少しは愛想振りまいてよ」
「貴重な女の子とお前じゃ、比べものにならんだろ。だいたいお前は、ここんとこ毎日じゃねーか」
 後から続くのはエディで、後ろ手に戸を閉めながら、こちらも底抜けに明るく笑う。
「俺って上客でしょ?ほらほら、あれがひなっちゃん」
「わー、やだー、可愛い、白い!背、私と同じくらいじゃない?やだー、可愛い」
「あはは、二回言ったよ」
 雪絵はつかつかとカウンターまで来ると、乗り出さんばかりの勢いで日夏の顔を覗き込んだ。
「はじめまして、雪絵です。スノウにピクチャーで雪絵。エディから聞いたのよ、東雲に可愛い新人さんが入ったって。わー、ほんと白いねー。怪我大丈夫?まだ痛いの?触っていい?」
 質問を浴びせかけながら、既に両手を日夏の肩に置いている。
「雪絵ちゃーん、セクハラセクハラ」
「あ、ごめんなさい」
 日夏は台風のように現れた女に完全に圧倒され、こちらに助けを求めることすらできないでいるらしい。見開いていた目を、ゆっくりと瞬く。
「……もしかして、相方さんって」
「いやいやいや、違う違う、違うよ?」
「ちょっと、否定しすぎじゃない?」
「いやー、ここはきっぱり否定しとかないと。彼女はね、俺の生徒」
「あ、英会話の」
「そうそう。会社も近いって言うから、俺がここ紹介したんだよね」
 このまま放っておけば、弾丸トークが始まること請け合いだ。丈はそれぞれの定位置にお絞りを置き、エディと雪絵の顔を交互に見た。
「まあ、なんだ、とりあえず座ったらどうだ」
「あ、すみませーん」
 美人で明るく、悪びれない性格の、良い女の部類に入る女なのだが。
「とりあえずー、ビール!」
 彼女にとってここは憩いの場であって、社交の場ではないということだ。店主として、喜ばしいことではある。
「じゃ、俺もビール」
「はいよ」
「あ、今日も大根ある?」
「あるよ」
「じゃ、大根も二人分。あれ、崇さん何食べてるんですか?」
「長ネギのマリネ。残念ながら品切れだ」
「ひなっちゃん作?」
「あ、はい」
「また作ってねー。他には?おすすめある?」
「きのこの酒蒸しが、もうできますよ」
「やーん、おいしそう」
「はいよ、ビール」
 グラスを二つ置き、まずは雪絵にビールを注ぐ。
「丈さんのお酌を受けると、月末の残業が報われますう」
「そりゃ光栄。ほら、エディ」
「あざーす」
「日夏くんは?おひとついかが?」
 瓶の口を向けられた日夏が何か言う前に、失笑してしまった。
「ほらな」
 遅れて、日夏も小さく笑う。
「えー?なんです?」
「悪いね、こいつ、呑めないんだよ」
「……もしかして未成年?」
「や、すいません、下戸で」
「ううん、私こそごめんね。でも残念。じゃ、丈さん、おひとつどうぞー」
「どうも」
「よーし、かんぱーい」
「お疲れー」
 グラスを合わせるさまをどこか楽しそうに眺めていた日夏は、はっとしたように大根をよそい始めた。

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