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5.

 アナクロな人間だと思われがちだが、少なくともインターネットに繋がるパソコンは持っている。威張ることではないとはわかっている。生活に必要だから使っている、ただそれだけだ。店で出す国外の酒はすべて個人輸入しており、主にメールのやりとりでおこなっている。世界中と表現するのはあまりに大げさだが、各地に点在している友人達から、代行業者を抜きに酒を仕入れているのだ。手数料が安く済むとか、マニアックな酒が手に入るとかメリットはあるが、なにしろ自分でやるのが面倒、という最大のデメリットも持ち合わせている。
 受信した一件のメールはしかし、酒に関するものではなかった。
 居酒屋が本業であれば、こちらは副業ということになるのだろうか。いわゆる産業翻訳という仕事で、時々、登録したサイトを通じて翻訳の仕事が舞い込むことがある。実務経験という点では、むしろ居酒屋よりも長い。
 依頼内容は、輸入機械の取扱説明書――仏日か。
 あくまで相対的にだが、英語の翻訳者に比べてフランス語やスペイン語の翻訳者は少なく、自分にまで仕事が回ってくることもある。
 貧乏暇なしというやつだ、丈は受諾のメールを書き始めた。
 ぼちぼちと定型文を入力しつつ、ブックマークを開く。
 ブロードバンド配信のニュースを見るのは、テレビのスイッチを入れるのと同じくらい日常的なことだった。有料配信だが、月々十ドルで釣りがくる。ケーブルテレビに加入するのとなんら変わりはない。画面端に映るアル・ジャジーラのロゴマークは、日本のテレビ局のそれよりも見慣れているかもしれない。
 煙草を咥え、火を付けたところでふと思い出す。
 丈はパソコンを離れ、電話機を取り上げた。一件、連絡をすることがあったのだ。短縮ボタンを押し、コール音に耳を傾ける。電話が繋がるということは、電話に出られるということだろう。本当に出たくない時は、電話線ごと引っこ抜いておくやつだ。なかなか出ないのはいつものことなので、その間にやかんを火にかけ、コーヒーの準備をする。
 たっぷり一分以上待つと、ようやく、はい、とくぐもった声がした。
「よう、崇」
「……なに?」
「朝早く悪いな。寝てたか?」
「寝落ちしてた……けど、起こしてもらって助かった」
 気だるいため息を聞くだけで、寝起きの悪い崇がどんな顔をしているかわかる。
「そうか。ちょっと頼みがあるんだが」
「ん」
「着てない服あるだろ?少しでいいから、なんか適当にくれ」
「……Tシャツとかズボンとかってこと?」
「そうだ」
「人前で着られないやつでもいい?」
「よくねーな」
 やかんの笛が鳴り始める。カップに熱湯を注ぐと、コーヒーのにおいが立ち上った。
「わかった……どれくらい?」
「とりあえず、二、三着ずつでいい。ああ、防寒用の上着もあると助かる」
 着の身着のままの日夏には、いずれ必要になるだろう。女物とはいえ、この部屋に一着でも彼に合う服があったことが奇跡だ。早急に用意するほどではないかもしれないが、ないよりはあったほうがいい。体格的に崇が一番日夏に近く、なにより頼みやすいのである。見た目スマートなエディは実際のところ骨格の半分がスウェーデン仕様で長身だし、万一あの男に頼んだら、それこそ何を持ってこられるかわからない。
「……厄介ごとに首突っ込んでんの?」
 寝返りを打ったのだろう、ごそごそと雑音が入る。
 厄介だと思っていたのだが、思ったほど厄介でなさそうだという感触もあり、丈はあくび混じりの指摘にはっきり答えることができなかった。
「お前に迷惑はかけないよ」
「それは……どっちでもいい。丈がいいなら」
「そうか」
「うん……で、店に持っていけばいい?」
「ああ、来られる時でいい」
「今日も顔出すから、たぶん」
「そうか。じゃあ、頼むな」
「ん」
 手短に通話を終え、電話機を置く前に灰皿に手を伸ばす。間一髪、灰が舞わずに済んだ。それから一口、コーヒーを啜る。
「で、なんだっけ……」
 そういえばめっきり、この手の独り言が多くなった。気を付けよう。
 電話機を戻し、再びパソコンに向き直る。メールを読み返し、送信ボタンを押したところで、漠然と感じていた違和感に思い至る。
 買い物に出かけた日夏が戻って来ない。
 かれこれ一時間以上、だ。
 コンビニまでの道のりを、地図で書いてやるべきだったろうか。一度口頭で聞けば迷いようがないのだが、世の中には想像を絶する方向音痴もいる。それとも、戻って来ないのではなく出て行ったのか――だとしたら、崇に電話を掛けなおさないといけない。
 コーヒーをもう一口啜り、煙草をもみ消す。
 アパートの階段を下りるまでなら、保障の範囲内ということにしよう。
 丈はサンダルを引っかけて、部屋を出た。
 朝には朝の、どこか新鮮な寒さがある。トレーナー一枚ではさすがに寒いのだと思い出させるような、だ。
 冷え切った鉄の階段を下りながら、その背中には気付いていた。
 階段の真下に隠れるように、しゃがみ込んでいる人影。貸したダウンはやはり彼には大きすぎて、裾が地面についている。
「何やってんだ」
 日夏が反応するよりも早く、彼の足元から小さな影が飛び出す。まさに野生の速度で走り去っていくのは、野良猫だった。
「……悪い」
「いえ……」
「で、いつからここにいたんだ?」
「あの……」
 おずおずと立ち上がる日夏の鼻の頭は、怪我のせいではなく、寒さで真っ赤になっている。ビニール袋をぶら下げた指先もまた、同じように赤い。当座必要な生活用品だけでも買うように勧めたのだが、そう多くは買っていないようだ。買い物はずいぶん早くに済んでいたのだろう。
「うちは居づらいか?」
「違います、あの、邪魔になるかなって思って」
「俺がそんな、繊細な人間に見えるか?プライバシーも何もないような集団生活が長くてね、お前さん一人がいたところで気にならない。むしろいないほうが気になるだろうな、この場合」
「……すいません」
「わかったならいい。とっとと戻るぞ」
「……はい」
「猫が好きなのか?」
「好き……かな」
「俺はどうも、あの何を考えるのかわからないのが苦手だ」
「そこがいいんですよ」
「……なるほど」

 

「あの、迷惑じゃなければ、厨房手伝わせてもらえませんか?」
 歯ブラシや下着に加えて紅茶のパックを買ってきた彼は、よほどコーヒーが苦手らしい。激甘のミルクティーを飲みながら、しばらく迷っていたようだったが、意を決したように身を乗り出してそう言ったのだった。
「厨房っつっても、大したことしてねーぞ」
「邪魔なら、あの、いいんだけど……」
 途端に、しゅんと身体を縮める。
「そうは言ってない。言葉どおりの意味だよ。うちは酒がメインだから、大した料理は出してなくてね」
「……そうですか」
「まあ、だが」
 さて、ストーリーはいよいよ都合よく進むようだ。
「酒に合ううまい料理を出せば、もっと売れるだろうな」
 日夏が目を見開く。片方は腫れてつぶれているので、見開いたのは片目だけではあったが。
「じゃあ」
「今夜も営業するから、来るか?」
「いいんですか?」
「実際に見たら、撤回したくなるかもしれないぞ」
「そんなこと……俺、どんな店でも働いてきたから」
 少し強く、きっぱりした口調だった。自分の腕に自負を持つ人間の口調だ。
「や、丈さんの店のこと悪く言うつもりは全然……」
「わかってるよ」
 ぬるくなったコーヒーを啜る。本当によく、丈を苦笑させる男だ。
「今まで和食の店で働いてたのか?」
「最初は和食だったけど……和食って仕事少なくて、あと、さっきも言ったけど、どこもあんまり長続きしなくて。イタリアンとかフレンチとか、飲み屋の厨房に入ってたこともあります。チェーン店だったから、マニュアル通りっていうか、ほんと、洗って切って火ぃ通して……っていう感じだったけど」
「色々作れるんなら、なおありがたい。うちは外国の酒も多いから」
「へえ……どんなのですか?」
「多いのはビールだが、酒ならなんでも置くことにしてる。俺が適当に現地のやつから買い付けてるんでな」
「すごい」
「何もすごくはないが――と、まあ、この話は追々でいいか。そのつもりがあるなら、五時過ぎには起きてくれ。それくらいに出るから」
「あ、はい、わかりました」
「それ以外は自由にやってくれ。特に俺には気を遣わなくていい。まあ、気になるなら聞いてくれても構わない」
「わかりました……」
「なんだ?」
「や、あの……」
 熊のマグカップを両手で握ったまま、日夏は感心したように呟いた。
「こんなに都合のいいこともあるんだなぁって」
「まったくだな」

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