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3.

「呑み処東雲」は、小さな店だ。
 カウンターに五席、四人掛けのテーブルが二つ。カウンター席は詰めれば七席までなら増やすことが可能だが、いずれにせよ小さな店に変わりはない。特に狭い方が落ち着くという性分ではないものの、この店に限っていえば、手狭なくらいが分相応だと思っている。理想や美学がまったくないわけではないが、そんな精神論は除いて、経営者として店主として、現状維持が精一杯の能力しか持ち合わせていないというのが何よりの事実なのだ。
 行きがけに買った食材を冷蔵庫に入れ、保存しておいた鍋を取り出す。昨日の残りのイカ大根を煮返すのが、本日最初の仕事である。二袋買った里芋は、蒸かしてから皮を剥き、砂糖醤油で絡めることにする。
 ガラ、と入口が開く。
 来店する時は大抵一番。理由は開店時間など大して気にしていないからで、たとえ準備中であっても躊躇なく戸を開けるのは、この男くらいだ。
「おう、崇(たかし)」
「ん」
 丈の呼びかけに、軽く手を上げて応える。
「ちょうどよかった、暖簾出しといてくれ」
 もっとも、迎える自分もおよそ店主の態度ではない。馴れ合いはお互い様だ。
 勝手知ったる手つきで暖簾を出しに行った崇は、しばらくして戻ると、妙に感心した顔で言う。
「この店の名前ってさ、読みにくいよね」
「しょうがねーだろ、苗字なんだから」
 どれほど付き合いが長くても、このとぼけた感性にはいまだについていけないことがある。生まれてこの方、東雲姓でなかったことなどないというのに。崇は眼鏡の奥の眠そうな目を瞬いて、ゆっくりとカウンターの右端に腰かけた。
 いつもの防水パーカーにいつものジーンズ、いつもの斜め掛けリュックという出で立ち。そのリュックを下ろし、いつもの小さな機械を取り出す。ノートパソコンほど大きくなく、電子辞書ほどは小さくない。液晶画面とキーボードが折りたたまれた、一風変わった機械である。文書入力にだけ特化した、ネットもメールもできない端末なのだという。
「何呑む?」
「……なんか新しいのある?」
「タイから届いたビールがあるな」
「おいしい?」
「まずい」
「じゃ、それ」
 文字を打つことしかできない装置で崇が何をしているかというと、もちろん、文字を打っている。
 詳しいことは知らないし、聞いてもよくわからないというのが本当のところなのだが、彼はいわゆる作家の部類だ。文章だけで生計を立てているのだから、プロといっていいのだろう。週の半分はこの店の片隅で、考え込んだりぼんやりしたりしている――まあ、どんな仕事であれ働いてさえいればそれでいい。
「時々うちでは出してるんだが。お前、呑んだことあったっけ?」
「……どうだったかな、忘れた」
「俺もだ」
 先日届いたばかりの、輸出用ではなく本国で流通しているオリジナルのビールだ。オリジナルゆえに日本人の口に合いにくく、客からも良い評価を得ることが滅多にない。ただ、特に国や銘柄を定めず、国外の酒を雑多に取り扱っているのが呑み処東雲のセールスポイントであり、中でもタイの大衆ビールは評価とは対照的によく売れる。
 小瓶の栓を抜き、グラスと一緒にカウンターに出す。
「はいよ」
「ん」
 もの珍しそうにラベルを見つめていた崇は、やおらグラスにほんのわずかビールを注ぐと、それをちびちびと呑み始めた。

 

 その後テーブル席に一組入り、静かに営業が始まる。
 さらに一時間ほどすると、穏やかな空気をを破るように、勢いよく戸が開けられた。
「うー、さっぶい!」
 開口一番そう言って、
「って、なんか、こんな定番の登場するキャラいそうだよね」
 自分の発言を混ぜ返しながら、後ろ手に戸を閉める。
 まさに定番の客。つかつかとこちらへ歩いてくるのは、金髪碧眼、モデル並みの美貌とスタイルの男だ。着ているジャケットはレプリカではなくおそらく実物の、米軍のフィールド用だろう。ミリタリーアイテムはファンが多く、彼もその一人のようだった。
「あ、崇さん、ばんわー」
「ばんわ」
「そのビールまっずいですよね」
「ん」
 得体の知れない崇とも鮮やかに挨拶をこなし、カウンターのど真ん中を陣取る。
「丈さん、いい加減あそこ直さない?俺さっきもつまづいたんだけど。業者呼ぼうよ」
 戸を開けてから席に着くまで、口を挟む隙さえ与えられない。丈は苦笑しながら、お絞りを出した。
「俺の土地じゃねーから、勝手にできないんだよ。役所には電話してあるんだけどな」
「あー、お役所仕事かー」
 彼が言うのは、入口近くの歩道のことだ。側溝の蓋が一つ割れかけており、自主的に補修してはいるものの、踏みどころが悪いと多少ぐらつく。修理したいのは山々なのだが、なにぶん公共の土地であるため、これ以上は役所の対応を待つしかない。
「何呑むよ」
「熱燗がいいかなあ。こういう日はまず、熱燗をきゅっといきたいよねー」
 見た目まったく日本人ではないのに、時々、言うことがしみじみと日本人なのが面白い。本人曰くギャップ萌えらしいが、ギャップはともかく萌えの意味は理解できない。
「そういやエディ、相方は?」
「後から来るよー。今日はここ集合だから」
 福来(ふくらい)エディは、日本人とスウェーデン人のハーフであり、スウェーデン語はほとんど話せないという、英会話学校の講師であり日本語学校の講師でもある。なんとも多彩なプロフィールの男だった。
「崇さんそれ里芋?」
「ん」
「おいしい?」
「普通」
「ですよねー。丈さんの料理だもんね」
「うるせーな。食うのか食わねーのか、どっちだ」
「食う食う、ちょうだい。あと、ほっけ」
「はいよ」
 熱燗用の湯が適温になった。徳利に日本酒を注ぎ、小鍋に浸す。冷蔵庫からほっけの一夜干しを取り出していると、背後から声がかかる。
「丈さーん、里芋」
「わかってるよ、今出すよ」

 

 エディが熱燗を呑みきる前に、その相方が到着する。
「こんばんは」
「おう、いらっしゃい」
 身長はエディより高く、丈と大して変わらず、入口をくぐるのに少し屈む必要がある。暗い色のコートの下は暗い色のスーツ、ごく普通のサラリーマンといった見た目だ。
「お疲れー、あっちゃん」
「お疲れ。エディ、それ熱燗?」
「うん。まだあったかいよ」
 エディからお猪口を受け取り、一口で呑み干すと、彼もまた熱燗を所望した。
「俺も熱燗お願いします」
「はいよ。今ほっけ焼けたところだから、食っててくれ」
「丈さん、それ俺のほっけなんだけど」
「お前のもんは相方のもんだろ」
「それは否定しないけどー。あ、あっちゃん、里芋食べる?」
「じゃ、いただく」
 朝倉(あさくら)については、職業はおろか下の名前すら知らない。最初の自己紹介で朝倉と名乗ったので、エディの使う愛称もそこからきているのだろうと思っている程度だ。決して無口な男ではないが、連れのエディが輪をかけて饒舌なせいもあり、身の上話はほとんど聞かない。ここは居酒屋であって、自分はカウンセラーでもないのだから、別段不思議なことではないだろう。
「あ、昨日ごめんね」
「ん?なんだっけ」
「メール。昼ごろ気付いてさー」
「遅かったしね。寝てるんだろうなと思ってた」
「いやいや、起きてたんだけど気付かなくって」
「あ、そうなの?」
「昨日、積んでた小説についに手を出したわけなんだけど」
「はいはい」
「読み出したら止まんなくて」
「面白かった、と」
「面白かった、いろんな意味で。お勧めはしないけど。いかにも二番煎じって感じで、どっかで読んだことある感じが俺好み」
「はは、それで寝不足?」
「ごめんごめん」
 あくびを噛み殺したエディに、朝倉が笑いかける。
「絵師目当てで買ってたやつだろ、誰だったっけ」
 聞いたこともない単語は、話の流れからたぶん人名なのだろう。二人の会話につい気を取られてしまったのと、その内容の不可解さから、エディのあくびに感染したのを彼らは見逃さなかった。
「なになに?丈さんも寝不足?」
「なんの小説がお勧めですか?」
「……お前らと一緒にすんな。読まねーよ、そんなもん」
 縁まで熱くなった徳利をつまみ、朝倉の前に出す。
「超能力少女のどこが悪いのさ」
「ああ……超能力少女だったのか……」
「性格は王道のツンデレ」
「それは王道ですな」
「だよねー、だがそこがいい。で、丈さんはなんで寝不足なの?」
「違う。お前らの言ってることが難しかっただけだ」
 日夏のことが頭をよぎらないでもなかったが、原因は寝不足ではない。延々と異次元の話を聞いていれば、誰でもあくびの一つくらい出るだろう。
「うーん、やっぱり萌えポイント高いよ丈さん」
「ほう、丈さんが萌えキャラだと」
「だってあっちゃん、考えてみなよ。背が高くて逞しくて無精ひげで、なぜか繁華街の片隅で居酒屋を経営しているけどそれは仮の姿って感じの、得体の知れないイイ男だよ。で、ちょっと世間ずれしてて時折天然っぽさを垣間見せる。絵的にも設定としてもかなりの高ポイントだよ。俺好み」
 エディは酔っているわけではない。朝倉もだ。彼らは比較的酒に強い。
「おい相方……そろそろ止めてくれ」
「すみません、激しく同意してました。俺も好みです」
「お前らなあ……」
 彼らはいわゆる、オタクという種族なのだった。
「いいから冷める前に呑め。せっかく温めたんだから」
「はい、いただきます」
「じゃ、改めてかんぱーい」
 二人がお猪口を合わせる影で、かすかな気配を感じる。崇が何かを訴えている気配だ。
「なんだ?」
「ビールおかわり」
「同じやつでいいか?」
「違うのがいい」
 タイのビールは、崇の口に合わなかったようだ。
「台湾ビールかバドワイザー、あとはキリン」
「キリン」
「大瓶しかねーぞ」
「残りはそっちの二人にあげて」
「わー、崇さん太っ腹」
「ごちそうさまです」
「いやいや」
 この店は、マイペースな客が多いのだった。

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