Novel >  呑み処東雲 >  呑み処東雲28

28.

 掃除の邪魔になるからと客を帰し、掃除が終われば再開するのも面倒なのでそのまま閉店する。
 このような怠慢な商売が許されるのは、個人経営の気楽なところではあるが、本来あるべき姿ではなく、とりもなおさず呑み処東雲が全く儲からない理由でもある。
 アパートに着いてすぐ風呂を焚き、日夏を追いやる。元々自分からすれば長風呂の日夏だが、今夜はそれが妙に気になり、ドア越しに一度声をかけるなどといういらぬ世話を焼いてしばし自省するはめになった。この先もう、放任主義を自称することはできないかもしれない。
 風呂場のドアが開く音がし、しばらくドライヤーの音が響いていたが、その内にそれも止む。つい先日までなかったドライヤーは、崇からもらい受けたものだ。新しい型に買い替えた際、古いほうを処分せずに放置しておいたらしい。型が古いというだけで、コードを挿せば熱風が出るし、別段故障箇所もない。持つべきものは、身の回りの整理に無頓着な弟だった。おかげで真冬の真夜中に、居候が濡れた頭にタオルを被る必要がなくなった。
「向こうで座ってろ」
 そろりと台所に顔を出した日夏へ、あいにく両手が塞がっているため、顎で居間を示す。
 手にした二つのマグカップのうち、一方へ口を付ける。甘ければいいのだろうと砂糖を大量投入した結果、とにかく甘いということ以外判らず、味見の意味はあまりなかった。
 大人しく炬燵に入って待っていた日夏の前に、熊のマグカップを置く。
「ほら」
「あ……ありがとうございます」
 上目遣いで丈を見て、それから、マグカップの中身に視線を落とす。
 両手でそっと包み、そっと口を付けて、
「――これって」
 日夏は不思議そうに顔を上げた。
「まずいか?」
「ううん、おいしい」
 今度はこくりと喉を鳴らして飲むと、またこちらを見上げるので、堪らず笑ってしまった。
「おまじないってやつだ」
 日夏が以前に言っていた通り、水と牛乳を半々にして温めた鍋で紅茶のパックを煮出し、たっぷりの砂糖を入れた。違うのは、そこにブランデーを垂らしたことくらいだ。
「それ呑んで、ぐっすり寝ちまえ」
 ちなみに自分のカップには、ブランデーしか入れていない。

 

 隣り合って座りながら、ブランデー入りミルクティーとブランデーをお互いちびちび呑んでいる。
 おそらく日夏は、もう聞き飽きた謝罪の言葉をまた口にするべくタイミングを計っているのだろう。丈は構わず、沈黙を破った。
「俺に店を持たせてくれた人ってのはさ」
「あ、うん」
「前にも少し話したか――元々は傭兵時代のスポンサーだったんだが、まあそんなことするくらいだ、金は腐るほど持ってたんだろう。えらい好事家でな」
 政界の首領(ドン)などといったらいかにも胡散臭いが、実際そういう部類の人物だった。
「中でも骨董品に目がなかったらしい。うちの店で使ってる食器は全部その人から譲ってもらったもんでね」
 より正確には、押し付けられたと言っていい。まったく強引な人だった。言いながら日夏を見ると、案の定、肩を縮めて俯いている。
「そんな大事なものを、ほんとにすいません。俺、どうやって弁償したらいいのか……」
 あまりに予想通りの反応に、笑いそうになったではないか。
「お前が割ったわけでもないのに、そんなに弁償したいのか」
「だって」
「もう無関係だと決めたなら、その考え方は捨てろ」
 突き放す言い方だったかもしれない。日夏は反射的に傷ついたような顔をしたが、やがて意味を察したのだろう、潤んだ瞳を隠したいのかしきりに前髪を弄りながら、小さく頷いた。そうそう泣かせて喜ぶ趣味もない、薄い背中をさすり、宥める。今夜の一件で責任を感じるのは仕方ないが、その在り処は自身にないのだと、日夏は自覚する必要がある。
「好事家だったのは確かだが、審美眼に関しては疑わしい。果たしてどの程度の価値があるか、そもそもないのかも含めてわからん」
「でも、思い出の品なのに」
「忘れ形見にしちゃ、数が多すぎるな。一日一枚割っても、しばらくなくならないだろ。だがまあ、なんというか、お前の言う通り思い出すよ」
 出会った時には既にかなりの老齢で、本人曰く隠居の身だったが、あれほど活力のある人物を誰も隠居とは呼ばないだろう。ほんの十数年の関わりしかなかったものの、思えばそれは己の人生の半分近くだった。
「ま、感傷ってやつだ――たまには悪くないな」
 感傷的にはなりたくないと、思い出がよぎるたびに振り払ってきた感覚だったが。久しぶりのブランデーのせいか、こうやって口に出してみると案外軽いもので、そう悪くはない気分だった。
「やっぱり丈さんは、優しいです」
「どこがだよ」
 覚えのない唐突な評価に、失笑させられる。
「慰めてくれてるんでしょ?」
「さあな」
 本心からの答えだ。慰めたいなら、もっとまともな方法もあったろうと思う。
 不意に、左肩に日夏の小さな頭が触れる。少し待てば、少し重みが増す。どうやら「おまじない」が効いてきたらしいが、それすら遠慮がちで、ふっとまた笑ってしまう。預けたいなら預けろ、と腕を回して引き寄せてやると、ようやく安心したようにくったりと力を抜くのだった。
 呑めないと聞いてはいたが、なるほど、本当に弱い。マグカップの底にはまだ三分の一ほどミルクティーが残っているが、頬にはすっかり血色が差している。呼吸も深く、とろんとした目蓋はいつ落ちてもおかしくない様子だ。回した腕を一旦解いて、もたれかかる日夏の頭を太腿のあたりで支えれば、快適性はともかく枕代わりにはなるだろう。
「寝ちまえ」
 左手で華奢な肩をあやしながら、丈は空いた右手でカップを傾け、ブランデーを一口含んだ。
 それから、やや苦心して煙草を手繰り寄せ、咥え、火を付ける。ゆっくり吸い込んで、吐き出し、広がった煙がやがて消えるまでぼんやりと眺める。
 眼下の日夏は、静かな呼吸が伝わってこなければ、出来栄えの良い人形のようだ。陰になってしまえば、もう消えかけの痣も判別できなかった。
「俺……」
 ――まだ眠っていなかったのか。
「いつも誰かを頼って、守られてないと、一人じゃなんにもできなくて……」
 舌足らずな言葉はしかし、独り言でも寝言でもなく、丈へ向けられたものだろう。
「ずっとそう言われてきたのか?」
 小さな頭が、イエスともノーともつかない角度で動く。
「ほんとのことだから……」
 丈はもう一度煙草を吸って、吐いた。
「少しわかるよ」
「うん……」
 ぎゅっと、日夏の身体が縮む。
「違う。言ったやつの気持ちがさ」
 とん、とん、とあやすためにとっていたはずのリズムは、止めてしまってから、身を任せていたのは自分だったのかもしれないと感じる。
「誰かに頼られて、守ってるような気にでもなってないと、自分がどこに立ってるのかさえわからなくなっちまうような、救いがたい男がいるってことだ」
 自分の弱さを言語化すると、まさしく救いがたいの一言に尽きる。
「いや。誰かにじゃなく、お前に、なんだろうな」
 タールとともに自嘲を吸い込んで、天井へ向けて強く吹き出す。
 膝の上の日夏は、胎児のように丸まったまま、やはり舌足らずに呟いた。
「しっかりしなきゃって、思ってるのにな……」
「明日からにしろ」
「うん……」
 擦れた返事は、寝息に変わっていった。

Category :