26.
戦場に寄せ集められた、人種も宗教も思想も違う男達が任務のない夜にやることと言ったら、酒かコーヒー片手に取り留めもなく話をすることくらいだ。「お前、ここの前はどこに?」「何のミッションで?」そんな話題から、故郷のフィアンセの名前がぽろりと出てきたりする。一期一会の相手も多い、よくあるキャンプの風景だ。彼らの多くは詮索こそ嫌うが、案外と誰かに自分のことを話したがり、そんな環境下でのコミュニケーションを長年続けていたせいか、これも単なる性分か、自分は聞き役に回ることが多かった。
さて、ここはランタンの明かりだけが頼りのキャンプなどではなく、築二十数年のおんぼろアパートの一室で、差し出すのは金属製のマグではなくファンシーな熊の顔がプリントされたマグ、中身はコーヒーでもウィスキーでもなくたっぷり砂糖の入ったミルクティーだ。
マグカップを両手で包む日夏は、この昭和に建ったアパートより後に生まれたんだよな、とかどうでもいいことを思いながら、煙草に火を付ける。
泣きはらした目を伏せてしばらく湯気を吹いていたが、やがて一口こくりと飲むと、日夏はぽつり、と言った。
「ゆうとは……その、ちょっと複雑で」
「ゆう、ってのが名前なのか」
先刻もそう呼んでいた。少し気まずそうな顔をした日夏が、男の名前は悠生(ゆうせい)というのだと明かす。
「その……母親と付き合ってる相手の息子があいつで。最初に会ったのは高校生ん時で、俺達が高校卒業したら親同士が結婚するからとか言って、紹介されて」
導入は、よくある複雑な家庭の事情だった。
「じゃあ、義理とはいえ兄弟なのか。あながち嘘でもなかったんじゃねーか」
「ううん。確かに一個上だけど、結局親同士は結婚してないから、兄弟じゃないよ。うちの親も向こうの親も仕事人間で……今はもう事実婚みたいな感じで、籍は入れるんだか入れないんだかって状態で」
「まあ、形は色々だよな」
「うん。親同士はそんな感じなんだけど、それとは別に、俺達は俺達でなんとなく……卒業してから、一緒に暮らすようになって」
マグを包む両手に、力がこもるのがわかった。
「その、ちょっと、複雑で」
「ああ」
短くそれだけ言って促してやると、日夏は堰を切ったように話し出した。
「俺のほうは、育ててくれたおばあちゃんが亡くなって。あっちは元々、親子仲あんまり良くないみたいで。俺達まだ子供だったけど……ううん、子供だったから、お互い一緒にいる相手が必要で。俺は頼りないから守ってもらってばっかだったけど、でも、支え合ってきたっていうか。だけど……あいつが就職したくらいからなのかな、手ぇ、上げられるようになって。何が悪いのかわかんなくて、最初はすごい、びっくりして。でも謝ったからって治まるもんじゃなくて……ゆう、あいつ、看護師だから、ストレス抱える仕事なのはわかってあげてるつもりだったけど。俺が機嫌ばっか気にするのも気に入らないみたいだし、だからって反抗なんかすると、余計火に油で……元々腕力じゃ敵わないし、だから、段々、抵抗するのやめるようになって」
そこで言葉が詰まると、波紋のようにミルクティーの表面が小さく揺れた。
なるほどな、と、やはり波紋のように、いくつもの疑問が解けていく。
「手ぇ上げられるのは、顔だけか?」
顔中血まみれだった日夏を思い出す。
「顔……が多いかな。別に本気で俺をどうこうしようとかは、たぶん思ってないんです」
見せしめのようなやり方だと、あの時も思った。ヤクザ絡みだったら厄介だなと、ちらりと同時に思ったのはそういった類のことだったが、その点で憶測は的外れだったようだ。
ほっそりした指が、やがて消えるだろう、すっかり色の薄らいだ痣をなぞる。もうない傷口が疼いているのだとしても、それは幻覚だと日夏を非難するのは酷だった。
「なんでそんな状況で、いつまでも一緒にいたんだ」
火を付けていたのを忘れていた。煙草を吸い込む。
「俺も成り行き……かな。あとは、情。おんなじですね」
吐いた煙の向こうで、丈の言を真似るように返して、日夏は笑った。
涙こそなかったが、諦念の微笑とでも表現すべきか、明るい表情でないのは確かだ。時折見せていた遠い目の理由が判ったところで、面白くもない。同じなわけあるか、と、煙草を外して言おうとしたのはそんなことだったと思う。しかしそれより先に、日夏がゆっくりと首を振った。
「ううん、おんなじじゃないです。俺、これまでも何度も逃げたんです。でもその度に連れ戻されて。俺が家出すると、しばらくは優しいんですよ。でもその内また殴られるようになって、我慢できなくなって逃げ出して、また連れ戻されてさ。そんなこと何回繰り返したか、わかんないや」
丈が煙草を咥え直すのと、日夏が伏せていた目を上げたのは、ほぼ同時だった。
「あの時……丈さんに助けてもらう前。やっぱり連れ戻される途中だったんです。でも俺、もう終わりにしようと思って。それ言ったらあいつ、キレて。すごい殴られたけど、俺、めちゃくちゃに抵抗して逃げて。逃げる途中でどっかに携帯投げ捨てたんです、いつも親とか共通の友達とかから足がつくから、携帯持ってたら逃げ切れないって思ったのかな」
どこか他人事のように言って首を傾げ、ふと視線を左右に動かす。
「目が覚めたらここで……」
「混乱してたな」
黙って出て行って構わなかった。寝たふりをして見過ごそうと思っていた丈の肩を揺すって起こしたのは、日夏のほうだった。そのくせおずおずするばかりの厄介な拾い物が、律儀に礼を述べた時、むしろささやかな幸運に遭ったような気分にさえなったものだ。
しばし過去を見ていたのかもしれない目が、やがて正面、丈を捉える。確かに目が合ったとわかった。
「俺、丈さんに助けてもらってほんとによかった。俺なんかに、こんな、優しくて」
「そりゃ買いかぶりだ」
いくら事情があろうとも、日夏のこの過大評価には苦笑するしかない。自分は決して善人でも奉仕家でもなく、隣人愛の精神も持ち合わせていない。優しいと感じるならば、そうさせる理由の多くはむしろ日夏にあるのだと、しかしこの謙遜と自虐の得意な彼には思いもよらないのだろう。
「だがまあ、その買いかぶりを少しは実現させてやることもできるかもな。店、しばらく休むか?」
「そんな、これ以上迷惑かけられないですよ」
「建前なら必要ない」
「ほんとです、その」
「うん?」
「……丈さんがいてくれるなら、こんな心強いことない、です」
「本心か?」
「うん」
日夏は小さく頷いて、きゅっと唇を結んだ。
「案外、頑固だよな」
また苦笑させられ、腕を伸ばして日夏の頭を軽く揺する。長い前髪をさらに伸ばすように指先で引っ張りながら、彼はわずかに笑ったようだった。