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24.

「私、やっぱりケーキがいいなあ」
 ぱちん、と小さく両手を合わせて雪絵が言う。
「雪絵ちゃん。さも言えば何でも出てくるように言うがなあ、うちにだってあるもんとないもんがあるぞ、酒ならともかく」
「あはは、違いますよお、クリスマスメニューの話」
 愉快そうに笑いながら、彼女は長い髪を揺らし、ラム酒のロックを傾ける。
「女子の意見としては、スイーツもあったらいいんじゃないかって」
「雪絵ちゃん、甘いもの好きだったのか」
「女の子はみんな好きですよお」
 と言ってまたラム酒をあおるのだから、さて、捉えようのありすぎる発言である。少なくともこの店で彼女に抱くイメージと、彼女がひとまとめに評した女性像とは、甚だかけ離れている。酒呑みは得てして甘党でないというのは、自分の間違った固定観念なのだろうか。
「女子はみんな好きかもしれないけど、雪絵ちゃんに限って言えばケーキよりあたりめじゃないの?」
 胸の内を代弁してくれたエディに共感を示すより早く、
「おい失礼だぞ」
 反発の声が上がる。
 盲目的な擁護者の顔は、ビール二杯目にして既にずいぶん赤い。
 今夜正面のカウンター席には、雪絵を挟んで左右にエディと浩輔という配置で三人が並んでいる。熱燗の残りをちょろちょろとお猪口に注いだエディは、腕を伸ばし、ほとんど減っていない浩輔のグラスにビールを足すという加虐的な行動に出る。雪絵はといえばまた、カラン、と氷を鳴らしてラム酒を呑むのだ。
「だって、この中で一番男らしい呑み方してるの雪絵ちゃんでしょ」
「スマートな呑み方と言え。いくら講師と生徒という立場でも、いくらその立場を越えて親しくしていただいていてもだな、このような綺麗な方に向かってあまりに失礼だろうが」
「ふふ、浩輔さんって紳士ですね」
「い、いや、そんな」
「エディも見習ってよね」
「はいはい」
「誠意がない~、私、傷ついたのに~」
「ごめんね~、でもそう言いながらラム酒ロックをぐいっとやられてもなあ~」
 酔いのせいだけでなくいっそう顔を赤らめる浩輔を尻目に、雪絵とエディがいつもの軽口を叩き合う。浩輔がきょろきょろと泳がせていた目を縋るように向けてくるのだが、あいにくこちらには大根おでんを温め直すという大事な仕事があるのだ。
「雪絵さん、どんなスイーツがお好きなんですか?」
 眼下で小さな頭が動く。
 いつも通り黙々と料理をしていた日夏が、ふと顔を上げたのだ。あからさまに浩輔がむっと口をへの字に曲げたのが見える。本当に不器用な後輩である。
「なんでも好きよ?」
「普段から食べます?」
「仕事帰りにコンビニ寄ると、一つは買っちゃうってくらいかな」
「わかかります。俺もシュークリームとかつい買っちゃいます」
「やだー、可愛い」
 平凡で無難な、いわゆる普通の会話というやつが日夏は得意だ。内気なところはあるが決して無口ではなく、誰とでもそこそこ何でもない事を話せるという意味でのコミュニケーション能力は、この中で彼が最も高いレベルの保持者かもしれない。他の客とも何でもなく話すし、好き嫌いは知らないが、接客向きではあるのだろう。
「でも俺、ケーキってほとんど作ったことなくて……てか下手で」
「そうなの?日夏くんって何でも作れると思ってた」
「そんなことないですよ、全然」
 首を横に振って、きっぱりと言う。
「ケーキはちゃんとしたお店で食べたほうが絶対おいしいですよね」
 出汁の取り方についてもそうだったが、時折見せる、料理人のこの身も蓋もない料理哲学が非常に面白い。
「あー、東雲はちゃんとしてないからね」
「まあな」
「や、そういう意味で言ったわけじゃ」
 慌てて見上げて来る、いつまでも冗談に慣れない日夏の頭を小突く。
「わかってるよ。お前がお手上げなんじゃ、うちでのメニュー化は絶望的だってことだ」
「丈さんは、なんでそんなに自信満々なのさ」
「事実だろうが」
「ですよねー」
 日夏は黙って丈とエディを交互に見て微笑み、前髪を留めたピンを指で外した。
「雪絵さん、お気に入りのお店とかあります?」
「うーん」
「雪絵ちゃん、まだ許されるよ、謝りなよ。そんなにスイーツ興味ないんでしょ?」
「そんなことないですう。あ、ちょっと遠いんだけど、すっごくケーキがおいしいカフェがあるのよ。私のお気に入りは、和栗のモンブランなんだけど。古民家を改装したお店で、狭いんだけどレトロで素敵なの。あーん、話してたら食べたくなってきた。もうずいぶん行ってないなあ。電車もバスも通ってない郊外だから、車でしか行けないのが難点なのよね」
「残念です。俺、車持ってないや」
 手早く前髪にピンを挿し直しながら、日夏がまた微笑む。
「浩輔さんは、車持ってます?」
「持って……ない」
 唸るような返事である。一年のほとんどを海外で過ごす浩輔だ。国内には最低限の荷物しかなく、持っているだけで税金の掛かる車のような物は論外だ。自分が現役の時もそうだった。
「免許は持ってんじゃねーか」
「そりゃ、持ってますよ」
「じゃあ、日本でも乗れんだろ」
「まあ、しばらく向こうでしか乗ってないですけどね」
「あ、もしかして、国際免許ってやつですか?」
「あーうん、一応な」
 投げやりに頷いた浩輔の隣で、わ、と小さな感嘆の声が上がる。雪絵だ。
「すごーい、私、そんなの持ってる人、初めて見た!」
 特別な事情などなくとも、例えば海外旅行先で運転がしたいなどという理由で取得できる免許だ。あらかじめ国内運転免許さえ持っていれば、誰にでも手に入れられる簡単な免許ではあるのだが、珍しがられることは確かに多い。
 拍手までされて、浩輔の赤面は最高潮だ。
「いやいや全然!丈さんだって持ってますし!」
 こちらを差して巻き込もうとする人差し指を、掴んで、折る。
「馬鹿、俺はとっくに失効してる。浩輔お前、しばらくはこっちにいるんだろ?レンタカーでも肩慣らしに乗っといたらどうだ?」
 この後輩は、なぜ丈に睨まれているのかわからないらしい。いい加減に察しろと腹が立つにつれ、さらに眉間のしわが深くなるというものだろう。
「せっかくなら、誰かに助手席に座ってもらったらいいよね~」
 へらり、とエディが水を向け、
「そのお店って、どの辺なんですか?」
 菜箸を操りながら日夏も加勢する。
「んー、待ってね、検索する」
 漫画であれば、浩輔の頭上に、「ハッ」という擬音と共にエクスクラメーションマークが現れただろう。
 ガタン、と派手に椅子が鳴る。
「雪絵さん!」
 怒鳴るというか、叫ぶに近い。
「あっ、はい」
 その剣幕に驚かないわけがない、雪絵は携帯電話を護符のように顔の近くで握り締め、身を竦める。
 直立不動の体勢で、浩輔は宣誓のごとく一気にまくしたてた。
「あの!車、俺が出しますんで!全身全霊で安全にお連れしますので!今度その店にご一緒させていただけないでしょうか!」
 メイクで彩られた目が、大きく見開かれて数秒。ややあって、一度、二度、ゆっくりと瞬きをし始める。
 浩輔が生唾を飲み込む音が、ごくり、と店内に響く。
 雪絵はもう何度か瞬きをすると、強張っていた口元を少しほころばせた。
「はい」
 声にならない声を発しガッツポーズを取る浩輔を、半ば、いや九割あきれた気分で眺める。
 斜め前方では日夏が、完成した小鉢をにやつくエディに差し出している。煮含めた揚げ出し豆腐に、大根おろしとさっと茹でたえのきを和えて作った濃いめの餡をかけた一品だ。用意されてたのは二皿で、もう一皿は、端のカウンターでそっと親指を立てている崇の注文だった。

 

 エディを送り出して暖簾を外せば、本日は閉店となる。
 別段いつも以上に散らかっているわけではないが、嵐が去ったような気分でいるからか、片付けがいつも以上に面倒に感じる。空瓶を入れたケースを勝手口の外に運ぶ日夏の後を追ったのは、彼もまた精神的に疲労したのかもしれない、珍しく回収し忘れた一本の空瓶を渡すためだった。
「日夏、こいつも頼む」
「あ、すいません」
 適当な隙間に瓶を入れ、勝手口を開けてやる。
 自分であれば、片腕でケースを抱えながら同時進行でドアを開けるのも容易だが、お世辞にも腕力があるとは言えない日夏では、一度ケースを置いてからドアを開け、またケースを担がなくてはならないのだ。もっとも、自分のこの行動は一見親切であるが、初めから非力な料理人に力仕事を任せずに己で行えば、狭い勝手口付近で男二人が押し合うことにはならなかった。
 開けた勝手口から、冷気が流れ込んでくる。
 店内が奇妙な熱気に包まれていたせいか、今夜の寒さはいつもより身に堪えるような気がする。ガチャン、と大儀そうな動作でケースを置くと、日夏はひょろりとした背筋を伸ばした。
「寒いですね」
「ああ」
 煙草を咥え、火を付けると、微風にのってほんのりと煙が流れる。うっすら灰色がかった空気の向こうで、日夏がちらりと微笑む。
「浩輔さん、頑張りましたね」
 その言い様に、思わず吹き出す。
「それ、本人に言ってやれ」
 草食説が有力な日夏だが、案外、慣れているのかもしれない。もっとも、浩輔の体たらくに比べれば、誰もが手練れになれるだろうが。
「まったく、お前みたいに若いやつにまで気ぃ遣わせて、しょうもねーなあいつは」
「そんなこと言って、丈さんだって」
「ありゃ、見てらんねーだろ」
「はい」
 日夏はまた、ちらりと微笑む。
 いつもと変わらない、少しはにかんだような笑みだ。
 休日が明けると、日夏には先日のような動揺はもうなかった。少なくとも表面的には、落ち着いている。いつも通り、厨房では黙々と穏やかにそして的確に働き、家でも本を読んだりテレビを見たり、合間に細々と家事までこなしてくれる。丈が雇用主として家主として提示した条件が、日夏の助けになったのなら、ならなかったよりはましだと思う。ただ、玄関のチェーンが外されることはなく、文字通り目に見えて外出しなくなったため、ついでに煙草を頼むチャンスがなかなか来なくなったことは、丈にとって決して喜ばしいことではなかった。
 ――逃げているのか、隠れているのか。まあ、最初から訳ありなのはじゅうぶん承知の上だ。
「そーいや、お前の免許証の写真って、いくつん時のだ?」
「え?」
 日夏が面食らうのも仕方ないだろう。ふと思いついたことが、口から出ただけなのだ。おっさんとはそういう生き物である。
「前に見せてもらったろ」
「あ、えっと」
 指折り数えていたのは、一瞬だった。
「更新したの、去年かその前だから……二十一か二かな」
「若ぇよなあ、今さらだが。平成生まれだもんな」
 単なる事実だ、何とも答えようがないのもまた、仕方のないことだろう。
「髪、染めてたんだな」
「うん」
 今より髪の色が明るく、スタイリングも決まっていた。黒づくめの美青年が見せた写真然り――
「写真写りが良いやつってのはいるよな。実物と遜色なく、ずいぶんきれいに映ってた」
「……俺?」
「他に誰がいるんだよ。前は派手だったんだな」
「髪くらい、誰でも染めるよ」
「ジェネレーションギャップってやつだな。おじさんがガキの頃は、髪染めてるやつっていや不良だった」
「ジェネレーションギャップってやつですね。不良とか、死語ですよ」
「……そりゃ、悪かったな」
 揶揄ったつもりが、はからずしも揶揄われるかっこうになり、煙と一緒に敗北感を吐き出す。ふー。
 煙の向こうの日夏が、顔を上げ、空を仰いだ。
「もうすぐクリスマスですね」
「そうだな」
「今日、星きれいですね」
「ああ、北極星がやたらはっきり見えるな」
 つられて仰いだ冬の夜空は、確かにいつもよりよく冴え渡っていた。晴天の上抜群に気温も低く、空気が澄んでいるからだろう。
「これ吸い終わったら戻るから、お前は先に入ってろ」
「はい」
 日夏の薄い肩を叩き、丈は深く煙草を吸い込んだ。

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