Novel >  呑み処東雲 >  呑み処東雲2-8

8.

 悲劇の主人公ぶるのは嫌だ。悪いのは自分なのに、この世界で一番傷ついて、一番悲しいのは自分だとでも思っているんだろうか。声を上げて泣くのは、あんまりあてつけがましいから。息を殺して、じっと過ぎ去るのを待つ。けれど堪えれば堪えるほど内側でぐるぐる渦巻いて、氾濫しそうになるのを堪えればまた渦巻いて、どれくらいそうしていたのだろう。最後にせり上がった嗚咽をどうにか飲み込んで、顔を上げる。酸欠で頭がずきずきと痛み、分厚いジャケットの袖はぐっしょり重く湿っていた。
 足元のボストンバッグを見下ろしながら、決心なんてできてないけど、ちょうどよかったとも思っている。今日は晴れているし、まだまだ電車は動いているし、必要な物はだいたいこの中に入っているし。読み返している途中の「空のコズミックイマジン」が心残りだけど、落ち着いたら買おう。
 さっき別れたばかりのエディに、朝倉に、崇に、雪絵に、浩輔に、またいつもみたいに挨拶もせず姿をくらますのだ。恩知らずで薄情な最低の人間。忘れていたけど、元々そういう人間だった。
 そんな自分にもせめてできることがあるから、バッグのファスナーを開ける。すっかり読書机代わりに使っていた台所の小さなテーブルの、小説の横にそれを置く。しんと静まり返った台所の冷たい空気を吸い込んで、居間の戸を振り返って、嵌め込みのガラスから影が見えるのを期待しているのか恐れているのか、もしかしたらずいぶん長い間見つめていたのかもしれないが、最後に振り切るように頭を下げて、背を向けた。
 ガラリと戸が開いたのはその時で、そのまま本当に振り切って飛び出せなかったのは、だからやっぱり抱いていたのは期待だったのだと思う。
「おい」
 低く、突きつけるトーン。
「いつまでそこで、そうしてる」
 聞き慣れない頃は、いつも怒っているんじゃないかとびくついていた。
「日夏」
 伸ばされた手から身をよじって逃れ、日夏は小説の横に置いた通帳と印鑑を拾い上げた。
「これ」
 絞り出した声が震えて掠れる。
「あの、少しですけど、役に立ててください」
「どういうつもりだ」
「ほんとに少ないけど」
 中身を見たらきっと笑ってしまうだろう。それでも、引っ越しの頭金くらいにはなるはずだ。こんな形になるとは思わなかったが、最初から丈に渡すつもりでいた。
「……今までありがと、ございました」
「こんなもん、いつ、欲しいって言った」
 丈はやはり低く言って、日夏の手から通帳をむしり取り、ぴしゃりと乱暴にテーブルに置く。まるで自分が叩きつけられたように感じて身体が竦み、何度聞いても血の気の引くような無感動な声音に、自分は最初から最後まできっと間違い続けたのだと、枯れ果てたはずの涙がまなじりに滲んだ。
「……ごめんなさい」
「どういうつもりだと聞いてる」
「……出ていきます」
「それで?どこに行くんだ」
「どこにも……行くとこなんて」
「お前はいつもそうだな。じゃあ、なんで出て行くんだよ」
「……丈さんに、嫌われたから」
 言葉にしてしまったせいで、残った一本の糸が切れたのだと思う。去ったはずの波が津波になって押し寄せ、急激な満ち潮で水浸しになった視界で泳ぐ丈を見上げる。大きな影になった彼の放つ、鋭い眼の光が射抜くようだった。
 開いた口からとうとう嗚咽が溢れ、みっともなく声が裏返った。
「でも……俺……丈さんに嫌われても、諦められない」
「どうだか」
 軽く鼻で笑う気配。
「俺を捨てようとしてるだろ、今」
 皮肉っぽい物言いに、日夏は必死に頭を振る。
「違います」
「諦められないなら、もっとほかに、やりようがあるはずだ」
 次の瞬間、真っ暗で何も見えなくなる。背中が軋んで、息もできないくらい苦しい。
「こういうふうにするんだよ」
 抱きしめられているのだ。
 力強い腕、息遣いに上下する逞しい胸、熱いくらいに感じる体温と、染みついた煙草のにおい。
「行くな」
 短く言って、丈はさらに腕に力を込めた。
「本当に出て行きたいなら、引き留めない――なんてのは、他人だったらの話だ。恋人が出て行こうっていうのに、引き留めないでいられるかよ」
 大きな手が日夏の頭を包み、胸に引き寄せる。
「さっきは悪かった。頭に血が上った。お前に腹が立ったし、俺にも腹が立った」
「……ごめんなさい」
「お前になにかあったら、どうするつもりだったんだ」
「…………ごめんなさい」
「謝らせたいわけじゃないし、泣かせたいわけでもない」
「でも」
「ここにいろ、ずっと」
 洗いざらしのスウェット生地に顔を押し付ける。少しざらついていて柔らかい感触に、日夏は大きくしゃくり上げ、鼻を啜った。
「……丈さんに、好きな女の人ができるまでで、いい」
「イエスかノーで答えろ」
「だって」
「俺がいつ、どこぞの女の尻を追いかけるふりなんて見せたんだよ。俺はそんなに信用できないか?」
「そんなこと」
「じゃあ、なんで」
「……だって…………丈さんが、俺なんかのこと」
「どうしてそうなっちまうんだよ」
 とん、とん、あやすリズムで背中を叩いて、髪を撫でてくれる。
「だって。なんにも役に立てなくて、空回って、怒らせて……好きになってもらえる理由、どこにもない」
「あるよ。お前のおかげで、店も、俺の暮らしも、まともになった」
 丈は不思議そうに苦笑するけど。こんな自分を苦笑ひとつで許そうとする彼の存在こそ、ひどく不思議で奇跡的だと思う。
「でも」
「お前の”だって”と”でも”は聞き飽きた」
「……ごめんなさい」
「それもなしだ……まあ、その性格もたまんねーと思うよ。それくらいには、お前に骨抜きだ」
 息が耳元をくすぐる。
「頼む。行くな」
 強い強い、骨が軋むような抱擁に、たまらず目を瞑る。
 丈が真剣に引き留めてくれている。望まなかったなんて言えないけど、都合よく叶うわけもなかったはずなのに。好きだって、恋人だって言ってくれたのも、聞き違いじゃない。それなのにやはり、まだ信じられない気持ちでいる。これが本当の本当に現実で、本当の本当に今、自分はここにいるのだろうか。目が覚めたら、あの寒いゴミ捨て場に転がっていて、冬の星座が憐みを込めて自分を見下ろすばかりなんじゃないか。
「返事は」
 目を開けて、丈を見上げる。
 精悍な頬へ手を伸ばし、ぴったりと手のひらを当てる。
 頬骨の一番高いところへ沿わせて、男らしい眉尻までのラインを確かめる――本物の、現実の感触。
 じっと見つめる日夏から、丈は一ミリも目を逸らさないでいてくれた。瞬いた拍子に睫毛に絡みついた涙を、乾いた指の腹で拭ってくれる。
「…………すき」
 うわ言が、緩んだ唇の隙間から漏れる。
 軽く見開かれた丈の目元に、じんわりと笑い皺が浮かぶ。
「俺もだよ」
 屈み込む丈の首を抱いて背伸びをすれば、鼻先が交差し、唇が触れ合った。
 表面を軽く擦り合わせ、唇の内側をくっつける。温かく、柔らかく、湿った粘膜からじわりと唾液が溢れ、ふっと香ったコーヒーと煙草に胸が高鳴る。音を立てて何度も日夏の上唇を啄む丈の下唇を、夢中で追いかけて吸う。
「……ふ」
 ちゅっと音を立てて滑り、下唇へぬるりとした感触が這い、ここが弱いことなどすっかり知られている内側を、弾力のある舌先がなぞる。
「ん……っ」
 頭がぼうっとして、膝がわななき、脚から力が抜ける。
 鼻声を上げて縋りつく日夏を支え、丈はさらに深く舌を挿し込んだ。
 こじ開けられるままに開いた口の中を、ざらりと舌が撫でる。それから日夏の舌をぢゅっと吸って痺れさせ、解放し、すぐまたぢゅっと吸う。
 耐えられずぶらりと垂れた日夏の腕を肩へ導いて、ほとんど抱きかかえてくれる丈の力強さに安心しきってぐったりと力を抜く。合わさった唇の隙間から苦しい息を漏らしながら、スウェット越しの逞しい筋肉がうごめくのを感じる
 腰骨あたりに触れている張り出した感触が、丈の興奮を教えてくれる。
 きつくなった前に、大きな手のひらがゆっくりと這う。そこに触れられるのはもう怖くはなくて、むしろ優しい手つきがひどくもどかしく、日夏は腰をくねらせて自分から興奮を擦り付けた。応えるように丈の腰も振れる。紛れもなくそれは、求愛の仕草だった。
 糸を引いて、乱暴にキスが途切れる。
 日夏の顎を掴み、焦点の合わない目をぐっと覗き込んで強引に捕らえると、丈は唸るように低く言った。
「……抱くぞ」

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