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7.

 芹菜のことを、よく考える。凍える冬の朝のような瞳の、素っ気ない人。丈と暮らしていたしていた人。丈の元を去った人。彼女の懐かしそうな目に、胸がしくりと痛んだ。別れの挨拶なんて、置き忘れた本なんて、口実だったんじゃないかって勘繰った。
 本心とか真実なんて自分には知ることができない。だけどほんの少しの共感もあって、それはたぶん、置いてきてしまった大事な物といか、ちゃんと返しておかなければいけなかったものが、自分にもあるからだと思う。

 

「なーんか、いけないことしてるみたい」
 にっこりとエディが笑う。午前中の電車はもう通勤ラッシュを過ぎていたが、あいにく二人並んで座るスペースはなく、強引に日夏を座らせた彼は、長身を少し屈めるようにして吊革の上のポールに手首を引っかけている。
「あの、すいません、せっかくのお休みに」
「せっかくの休みにひなっちゃんとデートなんて、嬉しいよ」
「そんなの」
「丈さんに知られたら、殺されるかもだけど」
 いつもの調子で冗談を言って、ふっと気遣わしげに金色の眉を下げる。
「丈さんには、内緒なんだよね?」
「……はい、あの」
「そっか」
 エディは唇だけで笑って、窓の外へ目をやる。借り物のボストンバッグを両腕で抱いて、日夏は距離が縮むごとに強くなるとわかる緊張を、唾と一緒に飲み込んだ。
 旅行サイズの鞄を貸してほしい。
 丈には頼めないことだった。崇では丈に近すぎるから、相談できるのはエディと朝倉だけだった。帰りがけの二人を店の外で呼び止めて、聞かれてもいない言い訳を並べながら頭を下げた。二人は怪訝そうな顔をしていたが、最後には快く了承してくれた。
 優しくされると甘えてしまう自分が嫌だ、とか、口ばかりだ。ついて行こうか?と言われて断ったのは一度目だけで、二度目には頷いてしまった。きっと、エディの親切心を利用しているのだと思う。

 

 二駅先の、もうずっと帰っていなかった気のする街。ほんの二、三ヶ月では、駅の改札も、ロータリーも、交差点の向こうのコンビニもファストフード店も、何も変わらない。
「あ、あのバスです」
 停まっていたバスに、慌てて乗り込む。行き先表示に「大学病院前」と出た満員近いバスの後部座席に、今度は並んで座ることができた。発車までまだ時間があったらしく、しばらくして車体がエンジンに振動する。暖房のファンをうならせ、エアーを噴射して、バスが動き出した。
「ひなっちゃん、大丈夫?」
「はい」
 そう交わしたきり、何も話せなかった。
 市役所前で数人、病院前で半分ほど降車し、がらがらになったバスに揺られてさらに三つほどバス停を見送ると、目的地に着く。
 ツツジの植え込みが続く歩道を進み、塗り直してからずいぶん経った歩道橋を渡り、さらに歩く。一時停止の標識のある路地を斜めに入ると、やがて白い壁の賃貸アパートが見えてくる。牢獄のように思うことさえあったこのアパートを、こんなふうに懐かしいと感じるのだと、自分でも戸惑っている。
「ここです」
 塀の前に立って、後ろを振り返る。
「あの、ここで待っててもらってもいいですか?」
 エディはやはり眉を下げて、アパートを指さした。
「俺も行こうか?一人じゃさ、ほら、彼」
「へいきです、今、誰もいないと思うから」
 一階の端のベランダには、空のピンチハンガーがぶら下がっていて、青いカーテンは開いている。夜勤明けならまだこの時間カーテンを閉めて寝ているし、休みなら、今日のように良い天気の日は洗濯物を干してあるだろう。
「すぐ戻ります」
 ここでぐずぐずしてしまうのが怖い。日夏は大股に、敷地へ足を踏み入れた。
 一番奥のドアの前に立ち、空の表札を見る。ジャケットのポケットから財布を出し、開く。ずっと使っているキーリングの付いた財布には今、二種類のアパートの鍵を付けてあり、そのうちの一つを摘まもうとしてカード入れに刺した白い紙が目に入る。丈と、エディと朝倉と、四人で行った初詣でもらった、大吉のおみくじ。日夏の引いた小吉を、エディと朝倉がこっそり大吉と交換してくれたのだ。
 息を吸って、止めて、鍵穴に鍵を挿し込む。
 ガチャン、静かなアパートじゅうに音が響いたような気がして身体が竦み、ゆっくりとドアを開ける。薄暗い玄関には、サンダルが一足揃えてあるだけだ。その横にスニーカーを脱いで、足音を立てないように上がる。
 甘く焦げた煙草のにおいが、今にも漂ってくる気がする。
 リビングにも、開けっ放しの戸の奥の部屋にも誰もいないことを確認し、日夏はへたり込みたい気持ちを堪えて、ボストンバッグを床に置いた。
 剥き出しのゴミ袋の中に投げ込まれた弁当のトレー、テーブルの上の飲みかけのペットボトルと吸い殻の詰まった灰皿、布団に放り出されたスウェットに、その脇の参考書。ずいぶん雑然としているけど、自分なんていなくたって、彼はきちんと暮らせる。
 なんだか空き巣に入ったような気分だ。
 衣装ケースからお気に入りの服だけを手早く詰めて、クローゼットの中からコートを一着外す。次に、チェストの引き出しを開けて、通帳と印鑑を探す。調理師免許は実家に置いてあるんだっけ?説明書やパンフレットをめくっていくと、薄い賞状が出てくる。ボストンバッグの一番下にそれを敷きなおして、台所に入る。
 祖母の使っていた無銘の包丁のことが、ずっと心残りだった。
 ケースなんてないから、タオルをぐるぐるに巻いて、やはりバッグの奥にしまう。それから、食器棚のマグカップと、少し考えて茶碗も取り出して、これも洋服でくるんでバッグに入れた。
 これが本当に最後なんだ。
 高校を卒業してからずっと、この部屋で、悠生と暮らしていた。
 お互いに、お互いしかいなかった。でも守ってもらわなければ何もできなくて、頼ってばかりだった。悠生のことが好きだった。けど、いつの間にか色褪せてしまって、無理やりカラーに塗り直したいびつなそれを、大事にしていた。殴られるのは嫌だったし怖かったし痛かった。何度も逃げ出して、何度も連れ戻された。そのあと決まって、あの布団で抱かれた。虚しかった。
 ゴミ捨て場で霞んだ夜空を見上げながら、ああこのまま死んでしまいたいなんて考えていた。丈はそんな自分を助けて、傍に置いてくれた。本人は否定するけれど、とても優しい人だと思う。好きになるのなんて、わけなかった。彼の役に立ちたい。空回ってばかりだったけど、今回は少しくらいうまくできるといいなと思う。
 ずっしりと重いバッグを持ち上げて、スニーカーに足を突っ込む。
 外からドアの鍵を閉めて、それを郵便受けから中へ落とす。カラン。
 さよなら、と胸の中で呟いて、日夏はタイルの床を思いきり蹴った。

 

 植え込みのへりに腰かけていたエディが、ぱっと立ち上がる。
「よかったー。あと一分遅かったら、様子見に行こうと思ってたよ。なんともない?誰もいなかった?」
「はい」
 悠生に会った時のことを思い出すのだろう。心配そうに日夏の背後を見て、それから、手元のバッグを見る。
「鞄、いっぱいになったね。やっぱりキャリーのほうがよかったんじゃない?重たいでしょ」
「平気です。あの、ほんとに……付き合わせちゃってすみませんでした」
「ひなっちゃん、こういう時はね」
 ちらりと肩を竦めて、エディが笑う。
「ごめんじゃなくて、ありがとう、かな」
 目の奥がきゅっと熱くなるのをごまかしながら、日夏は大きく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「なーんて、野次馬根性でついてきただけだけど。ねえ、ひなっちゃん」
「はい」
「帰りにどっかでお茶してこ。あったかいもの飲みたいなあ」

 

 久しぶりに入ったコーヒーショップで飲んだ、バニラシロップとホイップクリームを追加したカフェラテは温かくて甘くて、とてもおいしかった。
 落ち合ったのと同じように、駅でエディと別れ、ずっしり重くなったバッグを提げていつもの裏路地を歩く。やがて見えてくる古ぼけたアパートの、塗装の剥げた鉄階段を上り、二階の角部屋の前で聞き耳を立てる。起こさないよう静かにドアを開けると、しかし、コンロの上ではやかんが湯気を上げ、それをぼんやり眺めるような顔つきで丈が煙草を吹かしていた。ちらりと目だけで日夏を見て、横顔で笑う。
「お帰り」
「ただいま……ずっと起きてたんですか?」
「終わらなくてな」
 急に舞い込んだ翻訳の仕事で、丈は昨日から寝ていない。出かける前に休むように念を押して、丈も頷いてくれたから、てっきり寝ていると思っていた。
「難しい仕事なんですか?」
「いや、まあ、そうだな……量が多いのが一番厄介だな。お前は?旅行にでも行ってたのか?」
 思いも寄らずすぐに顔を合わせたことで、あっさりボストンバッグが見つかってしまい、どきまぎと言葉を探す。
「えと、あの」
「いいよ、詮索したいわけじゃない」
 揶揄うようにふっと丈が笑うのと、やかんが笛を吹き始めたのはほとんど同時だった。コンロの火を止めた彼が、インスタントコーヒーの蓋を開けながら言う。
「お前も飲むか?」
「俺はいいです」
「そうか」
 ふわりと嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが漂い、日夏はそれを吸い込んで、小さく吐いた。
「……あの、丈さん」
「ん?」
「俺、さっきまで、前のアパートに行ってて」
 コト、カップが流し台に戻される音がする。鋭い眼差しが向けられているような気がして、顔を上げられなかった。
「その、色々、取りに戻りたくて」
「一人でか?」
「……ううん、エディさんについてきてもらって」
「あの男は?」
「仕事でいなかったです」
「いたらどうするつもりだったんだ?」
 いくつか断定的な質問を続けたあと、丈は一旦口を閉ざし、ため息をついた。
「なんで俺に言わなかった」
 さっきまで機嫌よく語りかけてくれていた声が、今は冷たくなっているのがわかる。足元がぐにゃりと崩れていく気がして、ジャケットの裾を握りしめて耐える。
「迷惑、かけたくなくて」
「迷惑なんて一度でも言ったか?」
「……ううん」
 言い訳を待っていてくれたのかもしれない。けれど、その沈黙がただ重くのしかかるばかりで、ああ間違えたのだという失意で声が出せなかった――自分でけりをつけたかった。そうするのが一番いいと思っていたし、成し遂げたとは言えなかったがそれでもどこかに誇らしい気持ちすらあったのに。
「残念だよ」
 低く、静かに、ひときわ無感動な響きに、慌てて顔を上げる。丈はこちらを見ていなかった。ふー、吐いた煙が換気扇に吸い込まれていく。
「ごめんなさい……」
 やっと絞り出した声は、あんまりひしゃげていて、途中で消えてしまったかもしれない。
「寒いだろ。早く中に入れ」
 居間の戸が閉まる音を聞きながら、日夏は袖口で目元をきつく押さえた。

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