Novel >  呑み処東雲 >  呑み処東雲2-6

6.

 小説なんてほとんど読まずに大人になってしまったけど、もしかしたら読書は嫌いじゃなかったのかもしれないなんて思う。昨日からまた、「空のコズミックイマジン」を読み返している。
 世界を生かす男の子と、それを守護する女の子の話だ。一人のヒロインの身体に、二人のヒロインの人格が宿るという設定には最初混乱したが、ラノベではそう奇抜な部類でもないらしい。引っ込み思案で優等生の昼人格ソワレと、勝ち気でおてんばな夜人格マチネ。自分のお気に入りはソワレだ。チェロはきっと、マチネを選ぶんだろうと思う。口は悪いけど、マチネはチェロへの気持ちを決して隠さない。いつもまっすぐで、体当たりで、とても可愛い。ソワレもマチネを応援している。
 こんなに好きなのに、諦めきれるの?小説の中に思わず問いかけてしまう。
 でも彼女はきっと、できるんだ。とても強い女の子だから。ソワレが想いを閉じ込めて、塔のてっぺんからブーケを投げるシーンがある。自分はそのシーンを読むたびに、泣いてしまう。今もまた、ぬるい感触が頬に垂れ、慌てて拭う。ふー、と息を整え、もう一度目を擦って、日夏は文庫本をそっと閉じた。
 部屋の中はしんと静まり返っている。煙草を切らしたと言って出て行った丈は、そろそろ帰ってくるだろうか。外に耳を澄ましてみると、階段の下あたり、集合ポストがカタンと鳴ったような気がする。しかし、しばらく待ってもそれ以上の物音はなく、きっと単なる気のせいか、郵便でも届いたのだろうと頭ではわかっていても、こんなことくらいで胸が騒いでしまう。心細い気持ちが半分、恋しい気持ちが半分。まるで留守番のできない子供みたいだとわかっているけれど、だってやっぱり、たぶん、そろそろ帰ってくると思うから、じっとしていられない。
 玄関の大きなサンダルに足を突っ込んで、ドアを開ける。
 北側の廊下はまだ日陰で、寒さに思わず首を竦める。手すりの向こうへ首を伸ばして見ても逞しい長身の影はなく、一段ずつゆっくりと階段を下りる。タン、カタン、ゴム底がもたついたリズムで鉄板を鳴らす。ぶかぶかのサンダルは、気をつけないとすぐ脱げてしまいそうになるのだ。
 階段を下りきった先に知った顔を見つけて、思わず頬が緩む。
 陽だまりに寝そべっているのは、このあたりに長く住んでいるのだろう、大きなキジトラだ。よく人に馴れていて、隣にしゃがみ込む日夏には目もくれない。縞模様の背中に手のひらを乗せて、毛並に沿って軽く撫でる。温かくふわふわとした手触りをし楽しみ、機嫌を伺うように頭を撫でてみると、ご満悦の顔をしてくれた。
「ここ、あったかいね」
 尻尾がゆっくり左右に振れる。そうだね、と答えたのか、もっと撫でろとのご所望なのか。
 祖母と暮らしていた頃を思い出す。古い一軒家の庭にはあちこちから野良猫が食事にやって来て、学校から帰るとひとしきり庭先で猫を撫でるのが日課だった。餌付けをしていた祖母が亡くなって、あの家を引き払ってから、猫たちは新しい食事場所を見つけられただろうか。このキジトラと同じくきれいな毛並をした猫が多かったから、他にも帰る家があったのだと思っても、少し心残りだった。
「日夏」
 柔らかな感触が総毛立ったと思った瞬間、音もなくするりと走り出す。
 こんな場面、何回目だろう。日夏は口元を隠しながら、影を辿って長い脚の先を見上げた。
「悪い」
 猫の逃げ去った先をちらりと見やって、丈が口の端で苦笑する。どうやら猫に嫌われる性質らしく、彼は時々こんなふうに、日夏と猫の戯れを台無しにするのだ。
「笑うなよ、悪かった」
「お帰りなさい」
「ああ。寒いだろ、そんなかっこで」
「うん、でも、ここあったかいですよ」
「お前、目が赤いか?」
「……ううん」
「そうか」
 右手に提げたビニール袋を左手に持ち替えて、丈が空になった手を差し出す。意味がわからなかったわけではない。恥ずかしがったら揶揄われるだろうなとわかっていても少し恥ずかしくて、そろそろと指先に触れると、すぐに力強く手を握って引き上げてくれる。勢いでつんのめった日夏をびくともせずに受け止めて、そのまま、当たり前のように階段を上ろうとするから。
「あの、丈さん」
「うん?」
「えっと、ポスト。まだ見てない」
 あっさりと解けた手が、でも、急に寂しい。集合ポストからはみ出したチラシと、ふたを開けて中から電気料金の通知とダイレクトメールを取り出すと、日夏は前を歩く丈の手を盗み取るように握った。
 背中が笑っている。丈は日夏の指を手繰るように手のひらに収めると、やはり力強く握り、そのまま二階の角部屋までの短い階段を上った。

 

 開店からしばらくは客足がなく、カウンターの一番端から小説家のタイピングの音と、コンロの上の鍋で大根を煮る音だけが静かに響いていた。
「こんばんはー。寒かったぁ」
 やがてガラリと戸を開けて入って来たのは雪絵で、コツコツと小走りにヒールを鳴らしながら、冷たい外気から逃げ込むように正面のカウンターに座る。
「いらっしゃい。何呑む?」
 雪絵は長い髪ごと巻き付けていたマフラーを外し、ほっとため息を吐くと、丈を見上げて笑った。
「あったまるのがいいな。熱燗って気分じゃないから、焼酎のお湯割り!」
「そりゃいい」
 丈の顔も綻ぶ。酒豪の彼女は、常連客どうしで盛り上がり酔い潰れるような時も、一人だけしゃきっとしている。下戸の自分はただ感心するばかりだ。丈がグラスにポットの湯を注ぐ間に、雪絵におしぼりを差し出す。雪絵は目を細め、唇の両端をきゅっと上げて笑うと、温かいおしぼりを握りながらまたゆっくりとため息を吐いた。
「今日もお疲れさまでした」
「ありがと。日夏くんに労われると、すごく回復する気がするわ」
 美人で、明るくて、お酒に強い。素敵な女性だと思うのと同時に、比べたって仕方ないのに、少しだけ羨ましい。
「お腹もすいちゃった」
「大根ならすぐ出せますよ」
「実は昼もコンビニおでんだったんだけど。おでんの大根っていつ食べてもおいしいわよね」
 安く手に入るし、簡単に大量に作れるし、それによって提供価格も安く人気なので、大根おでんはすっかり定番の品だ。
「あ。今日は味噌田楽にしようかなって思って、薄味に煮てあるんですけど」
 そんな中での今夜の試みを、彼女はやはり明るい笑顔で迎えてくれた。
「もちろん、いただきます」
 焼酎のお湯割りに合うのは、なんといっても芋らしい。癖のあるにおいが湯気に乗って漂い、それだけでくらくらしてしまいそうだ。グラスに口をつけて幸福そうな表情を浮かべる雪絵に、味噌田楽の皿を出す。薄味に煮た大根に、小鍋で練った甘辛い味噌をたっぷりのせて、飾りと香りづけにゆずの皮をすりおろしたものだ。
「おいしい」
「お口に合ってよかったです」
「もう、謙虚なんだから。おいしいわよ、すっごく」
 食べてくれた人のおいしそうな顔を見るのが、ほんとうに嬉しい。
 他にも、残っていたきのこの酒蒸しとベーコンスライスでオムレツを、冷凍メカジキの切り身はバターソテーにして醤油を垂らして出すと、彼女はどちらも喜んでくれた。
 雪絵に付き合って小さなグラスでお湯割りを傾けていた丈が、ふと、そう言えば、と口を開く。
「浩輔はどうしてる?年明けからこっち、顔を見てなかった」
 晴れて雪絵と恋人どうしになった浩輔は、丈の過去の姿を知る人物だ。戦争のある国にいて、戦争に関わっていた時のことを、丈は時々、思い出話というほどの脈略もなく、ぽろりと話してくれることがある。いつでもどこか懐かしそうで、何かを諦めたような表情でもあり、そういう時、日夏はいつも戸惑って下手くそな返事しかできない。
 誰がどう見ても雪絵にベタ惚れの浩輔と、まんざらでもない雪絵。お似合いの二人だが、近況を訊ねられただけのはずの雪絵の答えは、妙に歯切れの悪いものだった。
「どうしてるか、の質問には答えられますけど。私もしばらく顔見てないんですよねえ」
「喧嘩でもしたのか?」
「あはは、違いますよう」
 明るく笑い、片頬に手を当てながら軽く首を傾げる。
「去年、帰国した日に、空港で老夫婦の荷物を運んであげたそうなんですね」
「へえ」
「なんでも、そのご夫婦が農場を経営しているとかで。その時に熱心に口説かれたそうなんですよ」
「ああ」
「困ったら連絡ください、なんて番号教えちゃうところ、彼の良い所だとは思うんです。それでね、そのあと、大晦日だったか元旦だったか、旦那さんのほうがぎっくり腰になったって電話があったんですって」
「なるほど」
 唐突な雪絵の話と、それにあっさり頷く丈に戸惑って、隣を見上げる。すると、丈と雪絵が顔を合わせて苦笑し合い、つまり、と丈が肩を竦めた。
「あいつは年明けからこっち、その農場とやらで働いてるってことだ」
「え、そうなんですか?」
 呆れたような苦笑と、首肯。驚いているのは自分だけのようだ。
「そうなの。海外どころか陸続きの場所にいるんだから、まだマシって思わなきゃですよね。毎晩電話くれるし。私の一日なんて昨日となんにも変り映えしないのに、黙って聞いてくれるし」
「なんだ。惚気か」
「いいじゃないですか、付き合いたてですもん」
「そうかい。ごちそうさん」
 浩輔の人柄そのもののような突拍子もない話が、いつの間にか惚気話にすり替わってたらしい。丈はやはり芝居がかって肩を竦めるだけだが、自分は今たぶん、羨ましいと思っている。そのくせ頭の片隅では、丈には外国人じみた仕草がまるで映画のように似合うのだな、なんてことも思っていて、でもどちらも誰にも言えなくて、胸の中でせめぎ合った気持ちはぐるぐると混じって灰色になってしまう。
 世界がこんなに羨ましいことやもどかしいことだらけだったなんて、知らなかった。
 ポケットの煙草を取り出そうとする丈の前掛けの裾を、堪らずに握る。気づかなかったのかもしれないし、放っておいてくれているのかもしれないと思いながら洗いざらしの生地をたぐると、想像よりずっと近くで声がする。
「どうした?」
 はっと顔を上げると、目の前に丈の顔がある。彼は濃い眉を軽くひそめ、日夏を覗き込んだ。
「寒いのか?」
「ううん、あの、どうして?」
「いや。そんな顔してるように見えたんだよ」
「そうかな」
「風邪うつしたか?」
「へいきです」
 丈は唇で笑ったかもしれない。逸らせなくなる前にその目線から逃げて、前髪を引っ張って隠れる。思い出したように心臓の音が早くなり始めた。
「すいません、ぼうっとしちゃって」
「いいのよー。そんな姿も可愛いから」
 快調にグラスの中身を減らす雪絵は、店員の態度を咎めたりはしない。
「あ、そうだ。丈さん、浩輔さんってチョコレート嫌いだったりします?」
「なんだ、急に」
「だって。バレンタインじゃないですか、来月」
 話題転換としては急だし、日夏も気が早いとは思うが、デパートの商戦はもう始まっているとテレビで見たばかりだ。一瞬たじろいだようだったが、丈が思案のあと口にした答えは素っ気ないものだった。
「何でも食うだろ、あいつも」
「そういうことじゃないんですって」
 きちんと化粧を施した横顔が、拗ねたように丈を睨む。
「何年も自分用に買ってばっかりだったけど……今年は特別なんです」
「そうか」
「はい。頑張らないと」
 彼女自身の美しさを差し引いても、恋愛中の女性はきれいだと思う。胸の前で小さく握ったこぶしを解くと、雪絵がにこりとこちらを見る。 
「日夏くんは?もらう予定とか、あげる予定とか」
 どきどきと、ちくちくの、間の感覚。日夏は曖昧に笑って、意味もなく鍋の蓋を開けた。

 

 早朝のニュース番組が、ヘッドラインを次々と映している。煙草の灰がかった煙とコーヒーの湯気が霧のように立ち込めた居間で、丈は溜まった書類を開けているようだった。クレジット会社の封筒や光熱費の通知、買い付けの時の英語の明細なんかもある。ちらりと目を上げた丈は片頬で笑うと、咥え煙草を灰皿に押しつけた。
「髪、ちゃんと乾かしたか?」
「はい」
「ならいい」
 最初、この部屋にドライヤーがなかったことなど忘れてしまったかのような言い草に、おかしくなる。
「なんだ?」
「ううん。丈さん、それ」
 風呂上がりの身体は炬燵に潜り込ませるにはまだ温まりすぎていて、日夏はそのまま丈の横に座り込んだ。丈の手にあるのは、昨日ポストに入っていた不動産屋のチラシだ。「入居者募集」と大きなロゴが踊り、近隣の賃貸マンションが写真付きでずらりと特集されている。新築、Pあり、ウォークインクローゼット、システムキッチン――縁のない単語がずらりと並ぶ。
「うちに配るのにぴったりなチラシだよな」
 長い指がチラシを弾く。
「ここはボロいなんてもんじゃないからな。いつまで居られるかわからん」
 この前もそんなことを言っていた。ただの冗談ではなく、もしかしたらあの時もいくらか本気だったのだろうか。
「引っ越すんですか?」
「いつかはな」
 返事はしかし欠伸混じりで、丈は大儀そうに首を鳴らすと、ごろりと寝転がってしまった。
「まあ、元手も要ることだ」
 猫に例えたらきっと嫌な顔をされるけど、気を許した態度を見せてもらえるのは嬉しい。穏やかに目蓋を落とした表情に、思わず手が伸びる。
「……また風邪引いちゃいますよ」
「一度でたくさんだよ」
 かざした手はすぐに掴まれて、手のひらの中央にかさついた唇が触れる。丈がそのままもう一度、今度は大きな欠伸をするから、手のひらから伝染したそれが日夏の口からも、ふあ、と出た。

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