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11.

 客のほとんどが勤め人であるこの店は、土曜日の客足はあまり良くなく、深夜ともなればずいぶんがらんとする。そのまったりとした空気が実は結構好きだが、そんなことを言ったら店主を苦笑させてしまうだろう。珍しく閉店ぎりぎりまでいた崇が帰り――正確には丈が崇を帰らせたところで営業は終了となり、送り出したはずなのになぜか取り残されたような気分にもなるほんの少しの寂しさを感じながら暖簾を取り込んで戻る。
 レジ締めをする店主の横で、残りの食器を洗う。時々は役割が逆になることもある。日夏が他の店でもレジ締めをやっていたと知って以来、丈は日夏の仕事を躊躇いなく一つ増やした。まだ、免許証の情報と調理師であること以外、素性を打ち明けられずにいた頃だ。学生バイトにレジ締めを任せるような店だっていくらでもあるし、丈にしてみれば面倒な仕事が減って楽になるくらいの考えだったのだとは思う。それでも、大事な仕事を任せてもらえたこと、売り上げを持ち逃げするような人間ではないと思ってもらえたこと、そういう信用が嬉しかった。店主がよくどんぶり勘定と言うように、清算レシートとレジ金が合わなくても、よほどの額でなければ過不足金で済ませてしまえるとはいえ。
 換気扇が止まり、水道の音も止むと、静かな店内はさらにしんと静まり返る。複数の靴音と笑いさざめき合う声が近づき、やがて遠のく。救急車のサイレンがどこか遠くのほうで反響し、そのうちに聞こえなくなる。ふっと焦げたにおいが鼻をつくのに振り向くと、丈が咥え煙草で帳簿をつけ始めていた。
 床掃除も終わったし、邪魔しないようにお茶でも淹れようかなんて思っていた時だ。
 カタカタ、入口の戸が揺れた気がした。じっとそちらへ目を凝らすと、しばらくして、ドンドン、はめ込みのガラスを震わせるようにノックされる。
「丈さん」
「ったく。もう閉店だよ」
 億劫そうに呟いて立ち上がった丈が、内鍵を上げ、戸を開く。
「申し訳ないけど今日は……どうしたんだ、一人か?」
 低くあしらうトーンが、どこか驚いたものに変わる。
「あの、ごめんなさい、こんな時間に」
 入口に立っていたのは雪絵だった。
「とりあえず入ってくれ」
「……はい」
 か細く答えた雪絵の声に、いつもの快活な印象はまるでない。丈が驚いた理由はすぐにわかった。飾り気のないスニーカーにジーンズの足元、フード付きのダウン、長い髪を無造作に後ろでまとめ、化粧気のない顔は蒼白。そしてその目は、泣き腫らしたように赤かった。
「何があったんだ」
 背中を支えるように椅子へ座らせた丈の断定的な問いかけに、彼女は力なく俯いている。ちらりと寄越された丈の目配せに戸惑いながらも頷き返し、日夏は雪絵の横にしゃがみ込んだ。
「雪絵さん。ちょうどお茶淹れようと思ってたところなんで、まず、それ飲んであったまりましょう」
「……日夏くん、私」
 硬く握りしめた手に、ぽたり、涙が落ちる。
「私、どうしよう……」
 目と声を潤ませそう言うと、彼女はしゃくり上げるように泣き出した。
「……雪絵さん」
 呼びかけたきり、しかし、相応しい言葉を探しあぐねてただ雪絵を見上げるしかできない。短い激情が去ると、彼女は涙声で切れ切れに話し始めた。
「私ね、朝からずっと、マフィンを焼いてたの」
「もしかして」
「うん、バレンタインの。本も買って、トースターでできるレシピを色々検索して、どうせ一度じゃ成功しないと思って、まずは練習からって……でも、何回やっても上手にできなくて……材料も足りなくなっちゃって……」
 あと数日でバレンタインデーだ。今年は特別なのだと言った、彼女の決意の表情を思い出す。そのプレッシャーもあったのかもしれない。失敗続きでどんどん追い込まれてしまう気持ちは嫌というほどわかる。もし自分だったらという勝手なシンパシーで、胸がぎゅっと痛んだ。
「大丈夫ですよ。落ち着いて、ちゃんと手順踏めばできます。明日になったらもう一度」
 言いかけた日夏を、首を振って雪絵が遮る。
「……もう時間がないの」
 語尾がまた涙で揺れたようだった。
「明日、彼と会う約束をしてて、私が向こうへ行くんだけど……」
「明日の何時頃ですか?」
「昼前には着きたいから、八時台か、遅くても九時台の新幹線には乗らないと……だからもう……」
「じゃあ、まだ時間ありますよ。一緒に作りましょう、今から」
「でも」
「だって。そのために来てくれたんですよね。俺のこと、頼ってくれたんでしょ?」
「……うん。日夏くんしかいなくて……ごめんなさい」
「謝らないでください。あの、変かもしれないけど……嬉しいです」
 静かに瞬いた目から流れた一筋が、雪絵の最後の涙だった。何本もの跡が残る頬を手で擦って、唇の両端をきゅっと引き上げる。
「ありがとう」
 そうだ。こんな時はごめんじゃなくてありがとうだって、エディも言っていた。あの時の彼の言葉に、自分はとても救われたのだ。日夏は努めて明るく笑い、立ち上がった。
「二十四時間営業のスーパー、ありますよね」
「ええ」
「まだ電車も動いてますし」
 店の壁掛け時計はもうすぐ零時になるが、早じまいのおかげでまだぎりぎり電車が動いている時間だ。
「丈さん、あの」
 言いかけた雪絵を、丈は鷹揚な手振りで遮った。
「かまわねーよ。ここなら好きに使ってくれ」
「……ありがとうございます」
 それでも深々と頭を下げた彼女のダウンの肩を軽く叩いて、にやりと笑う。
「俺が役に立つのはこれだけだからな」
「やだ、そんなこと」
「なに、事実だ。日夏、あとのことは店ごと任せていいか?」
「はい」
「なんかあったら呼べよ。まあ、役には立たんが」

 

 深夜のスーパーでの買い出しは、雪絵にとってはもちろん自分にとっても真剣なものだったが、ほんの少し心浮き立つものでもあった。そこにはもうずいぶん遠くなってしまった気のする、学生時代を懐かしむような気持ちも混じっている。羨ましいことだらけで、いつでもきらきら輝いていた世界の中でも、バレンタインは憧れだった。どの配役にも当てはまらない寂しさはあったけれど、皆のそわそわした雰囲気を感じるのは自分にとっても特別だった。いつか好きな人にチョコレートを、なんて心の中で呟いて、心の中で冗談だよと笑って、最後はやっぱり寂しくて。義理でもらったチョコレートはどれもやけに甘く感じたっけ。
 材料を買い込み、終電に駆け込んで店に戻ると、一足先に帰宅したはずの丈がまだいて、厨房からは醤油の焦げた香りと出汁のよい香りが漂っていた。驚く二人へ彼が出したのは、さっき洗って拭いたはずの、この店の食器の中でも日夏が気に入ってよく使っている小鉢だ。
「雪絵ちゃん、飯食ってないだろ」
「……あ、はい、そういえば……忘れてました」
 ぱちぱちと大きく目を瞬いた雪絵が、どこか呆然と呟く。
「何事もエネルギーが必要だからな。二人とも、これ流し込んでからにしろ」
 炊飯器に残った米は、あとで食べやすいように握っておくことが多い。そうするとこんなふうに、油をひいたフライパンでこんがり焼いた上からだし汁をかけた馳走になることもあるのだ。
「いただきます」
 感じ入ったように手を合わせた雪絵の横で、日夏も小さく手を合わせる。ちらりと盗み見上げると、思いがけず丈と目が合って、彼の目の下にうっすら笑い皺が刻まれた。
 梅干を半分ずつのせて、出汁の中で崩しながら食べるお茶漬けはとてもおいしかった。
 さて、とダウンを着込んで裏口から出て行く丈を追いかける。
「そんな恰好で出て来なくていい」
 苦笑しながら押し戻されそうになるが、背中でドアを閉めて、手を引く。
「あの、丈さん」
「うん?」
「ありがとうございます」
「なにがだ」
 くくく、喉の奥で愉快そうに笑い、丈は日夏の頬を撫でた。
「がんばれよ」
 雪絵に勝手に共感して、勝手に張り切っているけれど。製菓はほとんど習っていないから、本当は全然自信がない。なんだかそれを見透かされているようで、でも、丈の前ではごまかしや強がりなんて意味がないことがひどく心強い。
「うん」
 丈の手に手を重ねて、頬をすりつける。慈しむようにもう一度日夏の頬を、そして髪を撫でると、ゆっくりと踵を返す。大きな後姿が路地の向こうへ消えて見えなくなるまで待って中へ戻り、日夏はカウンターの向こうの雪絵を手招いた。
「始めましょう」
「うん――私、中に入るの初めて。飲食店で働いたことないから」
 興味深そうに見回す彼女の顔色はずいぶんよくなっていて、口調も明るさを取り戻し始めているように感じる。腹が減っては戦はできぬ、丈が言下に言ったとおりだ。
「どんなバイトしてたんですか?」
「一番長かったのはコールセンターかな」
「大変そうですね」
「うーん。ま、時給良かったしね」
 悪戯っぽく肩を竦めて言うのに思わず笑うと、彼女も笑った。
 まずはバターを小さく切って、レンジにかける。
「室温に戻すっていうのもよくわからなくて……冬だから全然柔らかくならないし、結局電子レンジにかけちゃったんだけど」
「溶けて分離しちゃうと、失敗しやすくなるって書いてありますね」
 二人でレシピを睨みながら作るのは、もちろんマフィンだ。
 溶かしバターにならないよう、低いワット数で数秒ずつ注意しながらバターを戻し、あとは泡だて器で地道に練ることにする。「塩梅」でなんとかなる料理と違って、製菓は正確に計量するのが大事だということだけは知っているので、はかりの数字もぴったり合わせて。レシピ通り、柔らかくしたバターに砂糖を入れてしっかり混ぜ、溶き卵を入れてまた混ぜ、牛乳を少しずつ入れながらさらに混ぜる。忘れずに買ったバニラエッセンスも少々。泡だて器を動かす雪絵の表情は真剣そのものだった。小麦粉とベーキングパウダーと塩を、粉ふるいの代わりに一番目の細かいザルで二度ふるってボウルに入れる。
「ベーキングパウダーは、混ぜるとどんどん膨らまなくなっちゃうそうなんです」
「もしかして……ざっくり混ぜるとか、切るように混ぜるとか書いてあるのって、そういう理由?」
「だと思います」
「そんなこと、どこにも書いてなかったわ」
「俺も、学校で習わなかったら知りませんでしたよ」
「一人でやりきるなんて意地張らずに、最初から頼ってればこんなことにならなかったのにな」
「でも。一人で完成させたかったんですよね」
「馬鹿みたいでしょ?」
「ううん……すごく、わかります」
 マフィン生地はプレーンとココアの二種類。プレーンにはドライフルーツ、ココアにはナッツを入れる。
 オーブンの予熱のタイミングが少し遅かったようで、型に流し込んでもまだ設定温度まで温まりきらず、なんとなく二人で空のオーブンの窓を眺めていると、雪絵がぽつりと呟いた。
「……日夏くんも、好きな人いる?」
「……はい」
「そっか」
 きれいに手入れされた指を胸元で組んで、雪絵は静かに話しだした。
「私ね、自分じゃそれなりに努力してるっていうか……あ、お料理はだめだけど。美容とか、服とか、化粧とか、英会話とか、一応自分磨きしてるつもりだったの。別に恋愛だけのためってわけじゃないけど、でも、何もしてないあの子は彼氏ができて幸せそうなのに私ときたら……なんて気持ちが全然ないわけじゃなかったのね。そんな自分が嫌だった。焦って合コンとか参加しても、ピンと来る相手には出会えないし、失敗ばっかりで。だから、浩輔さんに会えて、ほんとによかった。好きになってよかったって思うの」
 まっすぐな言葉が、まっすぐに響く。素顔の彼女は、とても美しいと思った。
「聞いてもいい?どんな人?」
「…………優しい人です。すごく」
 彼はすぐに否定するけど。優しくて、強くて、筋が通っていて、きっとたくさんの辛いことや苦しいことを知っているのに、おくびにも出さずいつだって――優しい。たった一言声に出しただけで胸がいっぱいになり、黙りこくってしまった日夏を、彼女はそれ以上追及しなかった。
「素敵ね」
「はい」
「やだ、なんか、恋バナなんて何年振りだろう。すっごい恥ずかしいね」
「ですね」
 そうして顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。
 180度のオーブンで生地を焼くうちに、バターとバニラの香りが店じゅうに充満する。呑み処東雲だけでなく、深夜のゴールデン街に甘い芳香が漂うことになっただろう。
 揚げ物用の網の上でマフィンを冷ましながら、デコレーションのためのバタークリームを作る。青と赤の着色料でクリームに色を付け、他にもアラザン、マーブルチョコ、色とりどりのカラースプレー、金平糖など買い込み過ぎた材料で飾り付けていく。
「できた」
 最後のトッピングを終えた雪絵が、嬉しそうに顔を上げる。
「うまくできましたね」
 一つ一つデコレーションの違うマフィンは、どれも可愛らしかった。
「うん。喜んでくれるといいんだけど」
「絶対喜んでくれますよ」
 大切な人の手作りマフィンを、浩輔が喜ばないわけがないと思う。まさか、閉店後の厨房を貸し切って作ったとは思いもよらないだろうけど。
「お礼、ちゃんとするからね。実はもう買ってあるの、日夏くんには高級チョコレート」
「そんな、いいのに」
「なーんて。毎年この時期に、デパート巡るのが単に楽しみなだけ」
 カシャ、ひとしきり完成作品を記念撮影していた携帯電話のレンズが、こちらの手元に向けられる。
「丈さんに?」
「はい」
「かわいい」
 雪絵は笑わなかったが、丈には苦笑いされるかもしれない。焼き型の片隅を二つ借りて、プレーン生地にレモン汁を混ぜて焼いてみた。青の食紅を溶かした水色のクリームに銀色のアラザンを散らして、金平糖を少しだけ飾ってある。帰ったらおやつに二人で食べようと思う。甘いものが苦手な丈は、一口で音を上げてしまうかもしれないけど。

 

 片付けを終え、熱々のほうじ茶で成功を祝う。
 時計の針が朝と夜の間を指す時間、外はまだ真っ暗で、痛いくらいに冷え込んでいる。始発までずいぶんあるし、タクシーは捕まらない。三十分も歩けば帰れると笑う彼女を送ると申し出たのだが、きっぱりと断られてしまった。
「平気よ」
「でも、まだ暗いですし」
「大丈夫。実は、呑んだ帰りに酔い覚ましに歩くことも結構あるのよね」
「危ないですよ」
「うん、浩輔さんにも怒られたわ」
「なら、俺、浩輔さんにも申し訳ないです」
「大丈夫よお――ほんとにありがとう。日夏くんがいなかったら、私消えてなくなってたかも」
「そんなこと」
「ありがとう」
 ぎゅっと握られた手を、同じようにぎゅっと握り返す。
「……気を付けてくださいね」
「うん」
「帰ったら、少し寝てください」
「そうね。お肌もボロボロだし……今さらだけど、日夏くんと丈さんにすっぴん見せちゃったのかあ。ずっときれいにしてたのにな」
「今もきれいです」
「もう、あんまりフォローになってないー」
 雪絵はぱっと手を放し、弾けるように笑いだした。

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