2.
はっとして目を開ける。霞んだ天井には、六つのランプの古めかしい照明が下がっている。じっとり汗ばんだ身体はだるく、それを受け止めている柔らかい弾力は寝具とは少し違う。
「あ、よかった、目が覚めた」
聞いたことのない、中低域の落ち着いた声。声の方へ目を向けると、やはり会ったことのない男が近瀬を覗き込んでくる。よく日に焼けた、穏やかな雰囲気の人物だった。
ここは一階のサロンで、自分が寝ているのはたぶん三人掛けのソファ。どれくらい気を失っていたのかわからないが、彼の口ぶりから、ずっと様子を見てくれていたことがわかる。同時進行する混乱と理解に、目を瞬くのがやっとだ。
「見たとこ熱中症じゃなさそうだったから、とりあえず寝かせたけど。やっぱり救急車呼ぼうかと思ってたよ」
「……いえ、大丈夫です」
押し出した声は、ずいぶんかすれていた。ぐったりと重い身体をなんとか起こそうとするが、少し肘を立てただけで崩れる。
「無理しない無理しない」
「すみません……もう大丈夫です」
近瀬を支えて揺るがない男の腕は逞しく、力強い。彼はそのまま丁寧に近瀬の身体をクッションに戻し、もう一度心配そうに覗き込んだ。
「そのさ、うわ言みたいに大丈夫って繰り返してたけど、ほんとに大丈夫?」
「ええ……ただの貧血です。しばらく横になっていれば良くなります」
「そっか」
「ここまで運んでくださったんですよね」
「うん。階段ダッシュで駆け下りるとか、なかなかない経験だったよ」
「すみません」
「はは、謝ることじゃないでしょう」
日に焼けた顔に、人好きのする笑みが浮かぶ。つられて口元が緩んだかもしれない。
「そうですね、ありがとうございます」
ようやく謝意を口にした近瀬に、彼はやはり鷹揚に笑った。
「新しい人だよね? 一階? 二階? 部屋がどこかわかんなくてさ、他に誰もいないし。あ、俺は牛飼です。ここんとこずっと留守だった、二階の」
お互い初対面なのだから、彼にしてみれば見ず知らずなのはこちらということだ。人見知りのない距離感から質問と自己紹介が矢継ぎ早に繰り出されるのに、圧倒されながら答える。
「あ、はい、藤丸(ふじまる)です。先月からお世話になっています」
「藤丸? 管理人さんと同じ?」
「同じです。というか、僕が祖父から管理人を引き継ぎまして」
牛飼は小さく目を見開いた。
「えっ、じいさま死んだの?」
あっけらかんとした言い方に、思わず苦笑してしまう。事情を知らない彼が、そう誤解するのは無理もないかもしれなかった。
「健在ですよ……いえ、というか、体調を崩したんですが」
「なんだ、よかった……のか? いやまあ、歳が歳だしなあ。入院とか?」
「もう退院して、今は両親の所にいます」
「そっか、よかった。あ、ごめんな、具合悪いのに話し続けちゃって」
「いえ、挨拶できてよかったです、こんな角度ですけど」
いまだ起き上がれない体勢を自虐して言う。牛飼は特段、それを慰めたりはしなかった。
「はは、だな、こんな角度」
にっ、と歯を見せるように笑って、それから大きな手を近瀬の目の前にかざす。
「気にしないで休んで。起き上がれるようになるまでは、傍にいるよ」
まだ、喋るのも億劫なくらいに具合が悪いのは確か。もう一度礼を言ってから、勧めに従って目を閉じる。奇妙な安心感のある人物だと思う。目の前で卒倒した挙句に介抱までさせて、申し訳なくも気恥ずかしい状況に、しかし深刻な引け目を感じずに済んでいるのはきっと彼の態度のおかげだろう。明暗の切り替えでじんわりと瞼の裏が滲むのを感じながら身を委ねた、思わぬ初対面の余韻は心地の良いものだった。
牛飼の部屋は、ちょうど近瀬の自室の真上にあたる。もっとも彼を訪ねるためには廊下を抜け、螺旋階段を上り、右手奥のドアをノックする必要がある。朝から姿を見かけていないので、たぶん在室だろう。本来なら昨日の内に済ませておくべきだった用件だが、昨日はそのまま寝込んでしまった。
牛飼を除く四人の住人のことはある程度把握しているが、彼のことはまだわからない。じゅうぶん日が高くなるまで待ったものの、安眠妨害の可能性を考えると気が引ける。二度の軽いノックの後、しばらくして内側からドアが開いた。
「――お。体調は? もういいの?」
「ええ、ありがとうございます」
牛飼は寝起きの姿ではなかった。昨日と同じようにタンクトップとワークパンツの軽装に、今は縁なしのほっそりした眼鏡を掛け、手にダブルクリップで止めた分厚い書類を持っている。日焼けした肌と逞しい体躯に、どこか学者然とした雰囲気が調和して、彼を昨日とは少し違って見せる。それに一瞬、目を奪われたのだと思う。近瀬は慌てて、手に提げた紙袋を差し出した。
「昨日、渡しそびれてしまって。これ、留守の間に預かっていた郵便物です」
「ああ、そっか、ありがとう」
ここ一ヶ月、彼宛てに届く郵便物を預かるのも仕事の一つだった。
「明らかなダイレクトメールなんかも混ざっていると思うんですが、僕の判断では勝手に処分できなくて」
「うん、助かった」
郵便物をまとめて入れた紙袋を渡せば、用件は終了。
「それじゃあ、失礼します」
「え、待って待って」
「はい?」
「上がってってよ」
「でも、お邪魔でしょうから」
「邪魔じゃないって、全然。昨日はあんまり話せなかったしさ」
言いながら近瀬の背中に腕を回すようにして、フランクに中へ促す。躊躇ったのは、拒む意志表示ではなく単なる遠慮だったが、牛飼の顔が済まなそうに曇る。
「ごめん。忙しいよな、俺と違って」
「そういうわけじゃ。あの、お仕事中じゃないんですか?」
「休暇中だもん。つーか、今の俺、無職に近い」
「……お仕事、何をなさってるか訊いても?」
「うん。じゃあとりあえず、中にどうぞ」
背中を押す力に今度は逆らえず、近瀬は開かずの部屋へ初めて踏み入れることになった。
ずらりと書棚の並ぶ、本の多い部屋だった。大きなボストンバッグは、まだ荷解きの途中のよう。片隅には大雑把に畳まれた布団と、脱ぎ捨てられた衣服が積まれている。それから、開け放った窓に揺れる風鈴。近瀬の視線をどう感じたのか、同じように窓を見ながら牛飼が言う。
「昨日から開けっ放しにしてるんだけど。まだ埃っぽいかな、ごめんな」
「そんなことないですよ。この部屋、こんな造りだったんですね」
「屋根裏って、大人になってもわくわくするよな。リアムとみもりんの部屋、入ってない?」
「まじまじ見たのは初めてです」
屋敷の構造上、二階の部屋はそれぞれ変わった造りをしている。天井が斜めに低くなっていたり、天窓があったりと、彼の言葉に倣うなら子供心を刺激される造りだ。
「座って。あ、クッションのほうね」
一つしか存在しないということは主人の物であろう、四角いクッションに腰を下ろす。テーブルの上のノートパソコンが手早く避けられ、そこへ置かれた上等そうなグラスに、ペットボトルの緑茶が給仕された。
「引き出物とはいえ、バカラとはいえ。一人暮らしの男にペアグラスって使い道に困るよな」
「お役に立ててよかったです」
「ははは、その感じ、やっぱ孫だなあ。あれ、ってことは、もしかして俺達会ったことあるんじゃない?」
言いながら向かいに胡坐を掻いて、注いだばかりの緑茶をごくりと半分ほど飲む。
「俺、ここに住んで結構長いんだよね」
「僕が最後に来たのは高校生の時ですから、十年くらい前ですよ」
「俺も十年くらい住んでるよ」
「じゃあ、学生時代から?」
「うん。と言っても、わりと最近まで学生だったんだけど」
牛飼はふふ、と笑って、顎をさすりながらうそぶいた。
「めちゃくちゃ出来が悪くてさ」
「嘘ばっかり」
つられて笑い、知りもしないのに茶々を入れてしまう。そういう、こちらを無意識に懐柔する雰囲気があると思う。
「ほんとだって。院に進んだはいいけど、調査が楽しくて日本中飛び回ってたら、一向に卒業できる気配がなくてさ。やっと修士課程終えたのが二十五、いや二十六だったかな」
「調査、ですか?」
「……そうだな。発掘調査員って言えばわかる?」
「化石とかの?」
牛飼は愉快そうに肩を揺らした。
「まあ、結果的に化石も掘るな。遺跡って聞いて、なんか思い出すものある?」
「古墳とか……竪穴式住居」
「そうそう。日本史の教科書に載ってるやつ。ざっくり言うと、化石は動産で遺跡は不動産って感じかな。で、俺はそういう遺跡の調査をしてる。今も報告書を書いてたんだけど、俺はとにかく現場の作業が好きでさ。本来の研究より、土削ったりするほうが。研究者としては落第だけど、まあ、おかげで現場指揮のできる労働力としてそれなりに買われてて、声が掛かればあっちこっち行ってるんだけど。次の行き先が決まらない状態で、待機になっちゃうことがあるんだよな」
「今みたいに?」
「うん。で、休暇兼無職。俺は今、どっかの機関に所属してるわけじゃなくて、個人のコネで現場に入ってるからね」
「……すごいですね」
「はは、落ちこぼれなんだって」
嘆息する近瀬を、揶揄うように笑うけれど。初めて知った世界のほんの一端に触れただけで、じゅうぶん刺激的だ。昨日のことがあり、もしかしたら医療の心得があるのだろうかと想像してみたのだが、大きく外れていたよう。同時に、日に焼けた逞しい身体と学者然とした雰囲気の調和の理由がわかり、納得の気持ちが強くなる。
「俺も。どうしてここに来たか、訊いても?」
彼の声は低すぎず高すぎず、穏やかに耳朶に触れる。それは水を向ける時も変わらなかった。
「……二年くらい前に、身体を壊して会社を辞めたんです。昔からあんな調子で、身体が弱くて。実家に戻って療養していたんですが、先日祖父が倒れて、その時にやってみないかと言われて……だから、理由というほどの理由はないんです」
既に何度も繰り返したエピソードをなぞるだけのことが、まだ上手くならない。苦笑しながら牛飼を見ると、眼鏡の奥の黒い瞳はやはり穏やかな色を湛えている。
「そっか、大変だったよな」
さらりと風が吹くようなトーンだった。吹き去った後に、それが労わりの言葉だったと気付く。
「考えてたんだけど。今までの話だと、俺達、歳近いよね? 俺、今年で三十なんだけど」
彼の興味はもう、別へ移っている。強引とは少し違う、なんというか、そう、自由。戸惑いと納得が同時に込み上げる感覚は動揺か混乱か、自分の歳を答えるだけのことに口ごもる。
「あ、僕は、二十八になりました」
「なりましたって。いつ?」
「……先週です」
「なんだ、おめでとう」
ひっそりと迎えていた誕生日を、思わぬ急展開で祝われた――次の瞬間、近瀬は声を出して笑っていた。
「ありがとうございます」
自分でも、何がそこまで面白かったのかはわからない。くつくつと笑い続ける近瀬を、牛飼も笑いながら見ている。
「皆には言った?」
「いえ」
「言わなきゃだめだろ、お祝いしなきゃ。という口実で、呑みたいんだから俺達は。ここの連中、なんやかんや理由作って、よく呑んでるだろ?」
住人同士の交流が盛んなのは、この屋敷の特質なのだと思う。時代から取り残された古き良きアパートに、わざわざ今、住んでいる面々だ。
「こういうのって好き嫌いあるからさ、無理強いはしないけど。たまには混ざってくれると、皆嬉しいと思うよ。もちろん俺も」
ずっと、いや、ずっとと言えるほど長くはないけれど、体感として、ずっと。彼と話していると、特別扱いされている気分になる。何気なく添えられる一言がくすぐったい、人たらしと相対するとはこういうことなのだ。
「今度、誘ってください」
「もちろん」
にっと、彼は嬉しそうに笑った。
向かいのグラスが空になったのを見て、ようやく、ぬるくなった緑茶に口をつける。ちょうど良い頃合いだろうと暇を告げると、再び引き留められることはなかった。ドアまで見送りに立つ彼を拒むことも、もちろんできなかったのだけれど。
「暑かったよな」
思わず振り仰いだ先に、気遣わしげな微笑がある。
「ずいぶん汗かいてたな。ごめんな、クーラーなくて」
「……いえ、僕も苦手なので」
間近から見下ろしてくる視線を逃れるように、近瀬は正面を向いて答える。そう指摘した彼の首筋にも、汗が流れていた。
「風鈴なんてぶら下げてるけど、焼け石に水というかなんというか」
「僕は好きですよ」
「そっか、よかった。えーと」
「……はい?」
もう一度振り向くのに少し慎重になったことなど、思わせぶりに言葉尻を濁しておいて、あっけらかんと言う彼にはわかるまい。
「いや。なんて呼ぼうかなと思ってさ。あだ名とかある? ちなみに俺は、圧倒的にうっしーだね」
「あだ名ですか」
「下の名前で呼んでもいい?」
「はい、どうぞ」
「ははは」
明るい笑い声が弾ける。
「いや、遠回しに訊いたんだけどね」
気温のせいではなく、頬が熱くなったのがわかる。あ、と思わず開いた口を隠し、言い訳するように唱える。
「近瀬です。近い、さんずいの瀬で」
近瀬、と中低域の声音で繰り返す彼の下の名前が東吾であることは、最初から知っていた。その字面も、郵便物で何度も見ている。
「涼しげでぴったりだな」
くすぐったさも、過ぎれば責め苦に近いと思う。