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6.
 彼が調査から帰るのを待ちわびる毎日が始まった。いや、もうずっと前からそうだったのかもしれない。
 丁寧なようで軽薄なようでもある不思議な口調と、彼自身は否定するが端々に感じる学者然とした雰囲気が相まって、とりとめのない話をするだけのことが楽しい。考古学の話をしている時ならば、見ているだけでもいい。
 アウトドア気質の彼には、都心の森林公園や、いつか聞いた貝の化石があちこちにある河川敷に連れて行ってもらった。なんだかデートみたいだとこぼしてしまい、それはそれは複雑な顔で笑われたけれど。
 蜜月が続いているのだと思う。
 会わない時間のほうがずっと長く、その間じゅう、彼の身体を思い出し、愛撫の感触をぼんやりと反芻している。
 コンコン、一回ずつしっかり刻むようなノック。
 近瀬はソファから身を起こし、ドアを開けた。
「――お帰りなさい。そのまま来たんですか?」
「ただいま。だって、きみが顔出さないから」
 リュックを背負い、脇にヘルメットを抱えたままの牛飼が立っている。バイク乗りの彼の、冬用に変わったジャケット姿にも見慣れてきた。
「じゃあ、顔も見たし」
「あの、牛飼さん」
 咄嗟に、分厚いジャケットの肘を引っ張る。
「あの、コーヒー、飲んでいきませんか」
 振り向いた彼は、悪戯っぽく笑った。
「焦った?」
「……意地悪ですね」
「どっちが」
 裏口から出れば、バイクの置き場所へはすぐだ。音はもちろん聞こえていたから、出て行かなかったのはわざと。そんなこと、お見通しだったのだろう。
 荷物を下ろし、近瀬の手を取って軽く握った牛飼が、もう片方の手にある携帯電話に気付いたらしく、済まなそうに言う。
「悪い、電話中だった?」
「いえ、メールです。甥っ子から、大学合格の報告があって」
「甥っ子。ああ、おっきいんだったな」
「子供の頃は一緒にいる時間も長かったから、なんだか弟みたいで」
 兄より歳の近い、可愛い甥だ。難関の美大に推薦合格を果たした、自慢の甥でもある。春から一人暮らしをしたいとねだる幸貴に、今は空きがないからと返事をしたところ。それは近瀬にとっても残念なことだった。
「その顔、妬けるな」
 喉の奥で笑って、牛飼が近瀬の頬を撫でる。
「甥っ子ですよ」
「だよなあ」
 微苦笑を刻む唇に触れたいと思った時には、もう叶っていた。
 自分でも変だと思う。四六時中彼のことを考えていて、顔を見れば触れたくなって、触れてしまったら求めずにいられなくなる。逞しい背中に腕を絡めて唇を貪っていると、隙間から失笑が漏れる。
「コーヒーは?」
「……豆を切らしてました」
「本当に?」
「……嘘。でも」
「うん、後でな……」
 茶化した彼も、近瀬の腰を引き寄せて、ゆるゆると動いている。
「ん……」
 ニットの上からの愛撫がもどかしく、自ら捲り上げて誘う。首筋、肩口、胸、と口付けられる間に、彼の脱いだジャケットがばさりと音を立てて床に落ちた。
 薄暗かった部屋は、いつの間にか真っ暗になっていて、革張りのソファが汗で滑る音と、荒い呼吸、唇を噛んでいても漏れる自分の声が、静まり返った暗闇に響いている。
 やがて果てた近瀬の耳元で、押し殺した声で名前を呼んだ牛飼が、息を震わせながら果てる。
 近瀬をゆっくりと引き上げて、太腿の上に座らせると、牛飼はうっとりと笑った。
「ずっと抱いてたいな」
「いいですよ?」
「煽るなよ」
 触れ合わせた唇からすぐまた音が立ち、名残惜しむ気持ちはどちらが強いのだろう、永遠に続きそうな口付けも、いつか終わる。
「……コーヒー、ご馳走になっても?」
「ええ、もちろん」
 散々抱き合っておいていまだに、裸を見るのも見られるのも恥ずかしい。暗がりで急いで身じまいをし、電気を点ける。Tシャツを被る途中のむき出しの背中はやはり惚れ惚れするほど美しく、それから目を逸らして、近瀬はキッチンに立った。
 駅前の商店街までは散歩を兼ねた買い出しにちょうど良い距離で、その一角にある自家焙煎のコーヒー豆屋が気に入りだ。大して味にうるさい訳ではないが、なんとなく、ドリッパーに湯を落として淹れるコーヒーは美味しい気がする。
「いい匂いだよな」
「味もよければ、もっといいんですけど」
 二人分淹れたカップの一つを差し出し、ソファに並んで座る。ゆっくりと口を付ける牛飼の横顔を見ていると、気付いた彼が笑い、揶揄うように言った。
「うまいよ」
「それはどうも」
「飲みながらでいいから、聞いてくれる?」
「なんですか?」
「古い知り合いのいる大学から、誘いがあってさ。急に欠員が出たとかで、相当やばいらしくて。来年から……年明けすぐってわけじゃないんだけど、そこで働くことになった」
「すごいですね」
「はは、単なる講師だよ。非常勤の。前にもやってたことがあったんだけど、時間的にどうしてもフィールドワークに制限がかかるから、俺には向かなくてさ。でも今回はそのへんの融通がかなりきくのと、前からしっかり調査に関わってみたかった地方だから」
「地方?」
「九州、の、福岡。三年契約」
 はっきりと発音された言葉の意味を、だから、理解できなかったわけではない。
「急な話でごめんな」
 穏やかな微苦笑。混乱のまま顔を伏せると、小さく波打つ黒い水面にうっすらと自分の顔が映る。しばらく声を失い、ようやく絞り出したそれも、カップの中にぽつりと落ちるだけだった。
「……あなたも、いなくなっちゃうんですね」
「消えるわけじゃない、いるよ」
「でも、会えなくなります」
「それなんだけど」
 カップを握りしめた手に、大きな手が重ねられる。
「一緒に行かないか?」
 嬉しいと思った。でも、何も言えなかった。それが答えだと、彼にも伝わったのだと思う。
「ごめん、無理だよな。じゃあ、遠距離だ」
「そんなふうに言ってもらえただけで、じゅうぶんです」
「……俺は今、振られたのか」
「すぐに忘れちゃいますよ、僕のことなんて」
 近瀬の肩を抱こうとする腕が少し逡巡しているのが、気配で伝わる。やがて、らしくなく遠慮がちに近瀬を引き寄せ、嫌がらないとわかるといつものように力強く抱き、牛飼は言った。
「威張ることじゃないんだけど。俺はそもそも、あんまり恋愛に振り回されるタイプじゃない……いや違う、言い方が悪いな。どう言ったらいいんだ……一度好きになった相手と、三年、千キロくらい離れたところで、あんまり深刻になれないというか」
 時空を旅する考古学の徒にとって、その程度はゼロと変わらないのかもしれない。
「つまり、俺は待てるよ」
「……僕は」
 その先の言葉は、ついに見つからない。
「きみが俺を忘れちゃうのは、悲しいけど仕方ない。でも、それまでは、待たせてよ」
 牛飼の胸に頬を寄せて、目を瞑る。穏やかな心音が、心地よくも切ない。
「そうだ。手紙を送るよ」
 優しく言った彼に、やはり返事はできなかった。

 年末には、忘年会と合わせて少し早めの送別会が開かれた。急なことに皆驚いていたが、フットワークの軽さには納得といった雰囲気だった。年が明け、引っ越しの準備が始まる。天井から物音が響いてくるたびに、しくりと胸が痛む感じ。出立の前日、本の多い彼の部屋からはいくつもの段ボールが運び出されていった。荷物のなくなった部屋で二度目の送別会が開かれ、それも終わると、がらんどうになったそこで二人で抱き合った。気恥ずかしくて呼べなかった彼の下の名前を、最初で最後に呼んだ夜だった。

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