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5.
 静まり返った館内に、自分の足音だけが響く。それに追い立てられるように、螺旋階段を急いで上がっている自分がいる。そのくせ、ドアの前で急に躊躇ったりする。祈るように握った手に震える息を吹きかけ、小さく二度ノックすると、すぐに内側からドアが開いた。
 逞しい腕に引き寄せられ、背後でドアの閉まる音を聞きながら、ほんの半時間離れただけで恋しかった唇に触れる。近瀬の背中からうなじ、そして髪を撫でた牛飼が、ふふっと笑った。
「まだ湿ってる」
 髪を梳く指の感触にうっとり目を瞑り、胸板に額を押し当てる。力強い心臓の音と、息遣いにあわせて起伏する胸の感触。手を引かれるままに、布団の上へ進む。
 今夜は月が明るい。
 天窓から差し込む月明かりが、はっきりと彼の表情を浮かび上がらせる。
 口付けを交わしながら互いの服を取り去り、一糸まとわぬ姿となる。ゆっくりと近瀬を布団に押し倒しながら、牛飼は目を細めた。
「きれいだな」
「え?」
「きみのことだよ」
「揶揄わないで」
 額にかかった髪を払われ、そこへ唇が落ちる。そのまま、こめかみ、そして耳元へ。
「ずっと思ってた」
 いつもは耳に心地よい中低域の声が、今夜ばかりは身体を芯から燃やすよう。たまらなくなって胸を押し返した手を取られて、指先に口付けられる。その唇の隙間に指を這わせると、艶めかしい舌が覗き、それだけで背筋がぞくりと痺れる。
 見つめ合い、口付けて、また見つめ合って。
 徐々に四肢が絡み、声が漏れ、布団の上を何度も転がる。
 昂ぶったそこを、手で、口で、何度も愛撫する。
 恥ずかしいことを言われたし、言った。
 せがんだのは自分だったかもしれない。開いた脚の間に、ゆっくりと押し込まれる圧迫感に喘いだ近瀬を、優しく宥めて。でも、中で息づく彼は怖いくらい大きく硬くて。首に腕を回して誘うと、汗の伝う胸と胸が合わさる。それが少し浮いて、突き上げられた瞬間、信じられないくらい甘い声が出た。

 むせこむような息遣いがようやくおさまり、背中を抱いていた牛飼の力が緩む。
 手枕で寝そべった彼が、もう片方の腕を近瀬の頭の下に差し込み、腕枕のまま短い口付けになる。チリン、という音とともに涼しい風が通り、近瀬は思わず笑った。
「なに?」
「風鈴。そろそろ、外してもいいかもって」
「ああ、うん、そろそろな」
 二人して同時に窓際に首を伸ばし、くすくすと笑い合う。
 それから、牛飼は近瀬の髪を撫で、穏やかに言った。
「会社を辞めたのは、過労だったよな」
「……どうして?」
「いや、この細い身体でさ。頑張りすぎたんだろ?」
「甘やかさないで」
「なんで?」
 近瀬を支える力強い腕に、うっとりと頭を預ける。自然と口から零れるのは、今まで誰にも言うことのできなかった、澱のような結晶のような、心の中の小さな塊だった。
「僕がいたのは、広告業界でした」
「じゃあ、ほんとに大変だったんだな」
「その中では楽な事務職でしたよ。でも、僕と違って、彼はとても優秀な営業マンでした。朝から晩まで、ううん、朝から朝まで。働きづめの人で、でも、輝いていて、誇らしかったし尊敬してました」
 五つ上の先輩。もっとずっと大人だと感じていた。
「そんな人だから、同じ会社にいても滅多に会えなかったし、二、三日メールの返信もないなんてこともよくありました。だから、僕が訃報を聞いたのは会社でした」
「……訃報って」
「朝、直行先のクライアントの所に現れなくて、そこから営業部に連絡が来て、人をやったのが昼過ぎで。僕は違う階の部署だったので、全然知らなかったんです。自宅で亡くなっていました……心筋梗塞だったそうです」
 最後のメールは、近瀬の誕生日を祝うものだった。週末には、久しぶりに会えるはずだった。
「あなたと初めて会った日」
「うん」
「彼の命日でした。僕は墓参りの帰りで――恋人でした」
「そうか」
「簡単にいなくなっちゃうんだなって、思いました」
 訴訟にはならなかったが、いわゆる過労死だった。
「働くことが虚しくなりました。でも、年々仕事には慣れていって、効率良くできるようにもなって……そうするとどんどん仕事が増えていって。気付いたら、僕も倒れてました」
 先に限界が来たのは精神で、毎日の通勤電車が恐怖になり、仕事が強迫観念になっていた。ちょっとしたことで貧血が起きるようになり、でも寝込んでいる間も滞る仕事のことで気が狂いそうになって――いや、気が狂って。彼が死んでから一年ほど経っていた。逃げるように会社を辞めた後に残ったのは、通帳に振り込まれた最少額の退職金だけだった。
 筋肉の張り出した背中に腕を回し、抱きつく。抱き返す腕は、力強くも優しい。
「忘れられない?」
「忘れたいわけじゃないんです。もういないから」
 毎晩、思い出しては泣きじゃくる日々は、彼と過ごした思い出と同じくらい遠くなった。
「ああ、うん、そうだな」
「僕が……怖いのは……」
 落ち着いて話せていたと思っていたのに、声が詰まる。大きな手が、慰めるように近瀬の髪を撫でた。
「言って」
「怖いのは、また、いなくなったらって……今度は……あなたが……」
「俺が?」
「なに言ってるんだろうって、自分でも思うけど、でも……」
「いなくならないよ」
 低すぎず高すぎず、耳朶に心地よい声。目を上げると、青白い月光を受けた牛飼の真摯な表情があった。そしてすぐに、それを見ることのできない距離、彼の胸の中へ引き寄せられる。
「話してくれて、ありがとう」
「いいえ……こちらこそ」
 お互いの吐息が近づき、自然と口付けになる。一度目は軽く、二度目は、深く深く。
「……ん」
「それと」
「はい」
「きみさえ、その、大丈夫なら」
「はい?」
「もう一度、抱きたいな」
「――はい」
 よく晴れた、初秋の夜。とても長い夜だった。

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