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1.
 耳鳴りにも似た蝉の声、溺れそうなほどの蒸し暑さ、頭の中にまでゆらゆらと立ち昇る陽炎。自分の内側と外側の境界線が曖昧になる、白昼夢のような感覚。ぼうっとした頭で、しかしぼうっとしてさえいれば考えなくて済むことがあるのだ、とかひどく馬鹿馬鹿しいことを考えては、その不毛さを笑うことができないでいる。
 夏は苦手だ。
 けれど、夏が終われば感傷的な秋が来て、秋が去れば憂鬱な冬が訪れる。掴もうとすれば消えてしまうような春は幽霊みたいなもので、気付けばまた夏になって。
 季節がいくら巡っても、どれだけ人が往来しても、立ち止ったまま動けない。ひとり映写室で映写機をくるくる回しているような気持ちでいるのだ、と、伝えたい相手は傍にいなかった。

 チリ……チリン。
 澄んだ音が降ってくる。
 息苦しさの中に、ほんの小さな氷の粒をひとつ落とすような、密やかな音。ああ、何の音だっけ。ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が霞んでいる。身体はぐったりと重く、よく知った虚脱感にすぐ事態を理解する。どうやら後ろへ倒れたらしく、尻と後頭部に鈍い痛みがある。
「あ、起きた」
 声とともに、天井との間を遮るように覗き込んでくるのは、見慣れた顔。
「平気?」
 気遣う様子に慌てた色はない。
「平気だよ、ありがと」
 お互いに慣れたものだ。それだけ返すと、にぱっと笑顔が弾け、視界には元の天井が広がる。近瀬(ちかせ)は少し遠のいた彼を、呼び止めた。
「幸貴(ゆき)が一人で、ここまで運んでくれたの?」
「すぐそこ、ほとんど部屋の前だったよ」
「あと一歩だったのか」
「いやー、五、六歩はあったと思う」
「じゃあやっぱり、ありがと、だね」
「はは、どーいたしまして」
 チリン、とまた音。情緒をそっと扇ぐ涼しげな音色を聞くのは、本当に久しぶりだ。枕の上の頭を少し起こして巡らせると、窓枠に閉じ込めたような夕暮れの光景の中で、ガラス製の風鈴が時折吹く弱い風に健気に揺れていた。
「ねえ、どうして風鈴なんて」
 この部屋に、風鈴を吊るしたことはなかった。自分が寝ている間に、彼が施したのだろう。
「うるさかった?」
 叱られたと思ったのだろうか。十歳下の彼がしゅんとして首を傾げるので、子煩悩ならぬ甥煩悩の自分は、すぐそれにほだされる。
「不思議に思っただけだよ」
「こないだ市で買ってきたんだ。こういうのも風流でいいなーって思って」
「そうだね」
「ちーちゃんの部屋、エアコンないんだもん。苦手なのは知ってるけどさ、せめて音だけでも、もうちょっと涼しくしようよ。付けてあげようと思って来たら、そこで倒れてるし」
 当て付けのように倒れておいて、エアコンは嫌いなんて言う。面倒な条件ばかり並べて、諦める以外の方法を探し出すのはいつも人任せだ。
 胡坐をやめて立ち上がった幸貴が、首振りの扇風機の前を横切り、しばらくして戻ってくる。
「そうそう、さっき郵便屋さん来たよ」
 手にしているのは、数通の封筒と葉書だ。郵便ポストはアパート前の一つを住人が共同で使っており、確認は自由、本人宛て以外は一度管理人が預かって再配布するのが暗黙のルールになっている。
「ありがと。大きい物はなかった?」
「うん、手紙だけ」
 薄い束から引き抜かれた一通が、はい、と差し出される。
「これ、ちーちゃん宛て」
「へえ、珍しい」
 思わず口に出して幸貴を笑わせてしまったが、事実。
 その、珍しくも自分宛ての郵便は、白地に縦長のごくありふれた封筒で、一見すると単なるダイレクトメールだった。あらかじめ印刷された飾り気のないロゴには見覚えがなかったが、それは九州のある大学のもので、大学名の下には小さなフォントで所在地、その下に考古学研究室とある。手書きの宛名は、どちらかと言えば悪筆で。
 封筒を裏返すと、はらいの長いやはり不格好な文字で「牛飼東吾(うしかい・とうご)」の署名。まるで、このうだるような暑さと風鈴の音が、彼の手紙を運んできたようだった。

 その大きな洋館を初めて訪れた時、幼心に、別世界に迷い込んだような気後れと興奮を感じたのを憶えている。真っ白な壁、吹き抜けの大きな窓、木の床、螺旋階段、かくれんぼができるほど広い庭、そして見知らぬ大人たち。祖父が所有し、住み、アパートとして貸し出している一風変わった館は、名前をメゾン・ド・ネージュといった。フランス語で「雪の館」を意味すると知ったのはずいぶん後で、その名付け親は祖父ではなく何代か前の持ち主であること、遡れば戦前の建物らしいが建築の経緯を知る者は今はもうおらず、留学生や地方の子弟に向けた下宿として使われ始めてから歴史が長いこと、祖父自身がごく若い頃下宿人であったこと、現在では様々な法律や条例が絡んで建て直しができず修繕を繰り返していること、結果としてそこだけぽっかりと時空から取り残されたような佇まいで居続けることなど、まるで小説のような物語がいくつもあった。
 あの頃、まさに雪のように白く見えた外壁には、色褪せや塗装の剥がれが目立つ。いつまでも走り回っていられた庭は、大人の脚ではほんの一、二分でぐるりと一周できると知った。近寄りがたいくらい大人に感じていた住人たちは、せいぜい今の自分と同じくらいか、もっと若いくらい。
 アパートの管理人という仕事は、余生を送るための揺り椅子のような物だと思っていた。事実祖父がそうだったし、その跡を継いだ自分もまた、今の人生が費えるまでの腰掛けのつもりで引き受けたのだ。
 現実は少し違っていた。都会の住宅事情と無縁の洋館は、空間を贅沢に使っており、隅々にまで手入れが行き届いていた。広い玄関ホール、調度品の揃ったサロン、共同の風呂場、美しい螺旋階段、そのどれもが磨き上げることを暗に要求してくるようで、掃除や手入れで一日の大半が過ぎていった。庭もよく整えられていて、園芸などやったこともないのにと言い訳したところで、放っておけば雑草は伸びるし生垣は荒れていく。飛び込みのセールスや投資の営業も来るし、こまごました仕事を挙げればきりがない。祖父はそれを承知で、近瀬にこの仕事を譲ったのだろう。少しは気が紛れるだろうと、祖父はいつもの飄々とした口ぶりで言って笑ったのだ。
 だから、幸運にも、と簡単に言い切るべきではないのだと思う。この館の住人は皆、最初から近瀬に好意的だった。自分が先代管理人の孫だからこそ、手放しに受け入れられたのだとわかる。会社をドロップアウトした若造、それも、体力にはすこぶる自信なし。せめて真面目に務めることくらいしかできず、それでも今のところ成果は上がっているとは言えなかった。

 別れの季節というものがあるなら、自分にとってそれは夏なのだと思う。
 梅雨明けのニュースが聞こえてしばらく経ち、本格的な夏が始まった頃。協力的な空気に甘える形で、朝から休暇を取った。就任からようやく一ヶ月経ったかどうかというタイミングだった。
 海を臨む公園墓地へ赴くのはこれで二度目だ。片道二時間、電車とバスをとタクシーを乗り継ぎ、ほんの十分ほどの無言の対面を済ませると、また二時間かけて帰る。
 電車移動は、まだ苦手だ。予感というより不安に近かったそれが、最後の乗り換えを済ませた辺りで現れ始める。圧迫感と恐怖感。急激に速くなる鼓動と呼吸を宥めながら数分の乗車をやり過ごし、逃げ出すようにホームへ降りる。小さな駅を後に、商店街を抜け、川沿いの桜並木を通り、住宅街の奥へ奥へ足早に歩いた。
 やがて、高い生垣に囲まれた、白い大きな洋館が見える。
 やっと辿り着いた安堵、遅れて、炎天下の眩しさと暑さにくらりとし、近瀬は喘ぐように息をついた。正面玄関からは入らずに、庭を回って裏口へ向かう。この時間では誰かと顔を合わせる可能性は低いが、万一にも余計な心配を掛けたくなかった。
 チリ……ン。
 頭上から降ってきた微かな音に、思わず空を仰ぐ。チリン、と再び降ってくる音の正体を探して頭を巡らせると、開け放たれた二階の窓に気付く。近瀬がここへ来てから、ずっと閉まりきりだった部屋の窓だ。まず目に入ったのは、空中に浮かぶクラゲのような佇まいの風鈴。それから、ひょっこりと現れた背の高い人影。
 まだ会ったことのない、最後の住人が戻っているのだ。
 近瀬が声を掛けるより前に、その人物もこちらに気付いたようで、窓枠を掴むようにして身を乗り出してくる。タンクトップから出た両腕は運動選手のようにがっしりしているが、逆光のせいか、暗くてはっきりわからない――いや、違う、急激に暗く、端から燃えて焦げ付いていくように、視界が狭まっているのだ。コントロールできない視界の隅で、窓際の人物が大きく手を伸ばしたのが見えた。

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