3.
強弱を絶妙に変化させながら愛咬を繰り返していた唇が、やがて、離れる。途端に寒々しく感じて彼の両肩を引き寄せると、耳元でテノールがこもった。
「…碧、時間は」
「へいき、今日はもうオフ」
「神様に…感謝したい気分」
会えない主な原因は、どうしたって、この仕事における不規則な生活パターンだから。悲愴なくらい真剣なトーンで言う永久の頭を、抱きしめ、撫でる。
「…ごめんね」
「うん?」
少し驚いたように、聞き返される。ごめんの理由は自分でもあまりに感覚的で、言葉にならない。茶金頭をもう一度ぎゅっと抱きながら、自然にそのフレーズが口をついた。
「会いたかった」
「――俺も」
手足が絡まり合う。衣擦れの音の間から、息遣いとか、唾を飲み込む音とか。ベルトの金具を外し、ジーンズを下ろすと、少しかさついた手のひらに包まれた。
「んっ…」
それだけで、思わず目を瞑りたくなるほどきつい衝動が込み上げる。浮き上がった腰骨の下で留まっている永久の下着を下ろし、色めいている彼をやわやわと揉む。柔らかく繊細な皮膚の下に、本能を押し固めているパーツ。ふっ、と、短く喘いだ永久の指に力が入り、自分がそうした分だけ彼に高められるような、自分のために彼を高めているような、どこか倒錯的な愛撫に没頭する。
「あっ、は…」
スライドするごとに快感が生まれ、それを生むためにピッチが上がっていく。額にかかった前髪を上げられるのをぼうっと感じていると、胸を合わせるように永久の体重がかかり、碧の上向いた顎先に唇を落として、喉仏を吸う。絡み合った体勢を解くように大きく身じろいだ彼が、碧の股の間に顔を伏せ、そこにキスをした。
「あっ…んっ」
瑞々しいほどの粘液が、先端を包み込む。それから舌は側面を這い、付け根をくすぐるとまた側面を引き返し、先端を含む。何度も往復するうちに、泡立って弾けるような音が立ち始める。ふっ、ふぅー…空気ばかりで声にならない喘ぎ声を上げながら、碧は首を振った。目線の先では、金色と茶色が波打っている。傷んでこしのない髪に指を入れてかき回し、彼の頭を太股で悪戯に挟むと、失笑の鼻息さえ刺激になって碧を脱力させた。解放のシグナルが点滅を始める。
「はっ、あ、とわ、もう」
いい、とか、だめ、とか続ける前に、フライング。じわりと漏れた先走りを吸われてしまえば、あとは、制御できるものではなかった。どろり、永久の口の中に放出する。こふっ、と少し苦しそうにむせ返ったけど、彼はそのまま碧の精液を嚥下してしまった。
「…ぁ、とわ」
射精の余韻が胸を震わせ、恋人の名前も震わせる。顔を上げた彼はもう一度咳き込み、最後、唇に付いた白濁を手の甲で拭った。碧は身体を起こし、満足そうに目を細める永久の薄い胸を押す。
「碧?」
笑いながらもゆっくりとのけぞる彼の肩をさらに押し、
「俺の番…でしょ?」
太股の間に顔を埋めるのは碧の番だった。すらりと伸びたペニスの、くっきり形を現している先端。同じように口で含んで、舌先でくぼみを一周舐めて、自分の口腔が許容する距離まで前進する。先端まで戻り、側面を伝って付け根の筋ばった部分を刺激する。
「…ふっ」
鼻にかかった声。彼の長い指がやはり碧の髪を絡めとり、くしゃくしゃと混ぜる。また先端から、根元まで舐めて、付け根の奥…後ろの小さな穴を舌先でこじ開けると、あんっ、なんて、かすれた高い声を出すから。
「かわいい…永久」
思わずうっとり呟くと、やや力強く、頭をホールドされた。
「いい年した男捉まえて言うせりふじゃねーよ」
照れているようでもあるし、純粋に楽しんでいるようでもある口調だ。碧が目瞬きでしか返事をできなかったのは、既に彼を口に含みなおしていたから。それから何度か、何度も、夢中で顎を動かしていると、口の中に何かの原液のような苦味が広がる。
「んっ、みどり…」
唇をすぼめてさらに刺激すると、びくびくと下腹が痙攣し、どろりと卵白のような液体が口の中いっぱいに注がれた。美味しいか不味いか評さなければいけないなら、絶対に、不味い。精液の伴う生臭さって、ムスクみたいな、動物の臭いそのものなんだと思う。何回かに分けて飲み込んだのだが、結局は飲み込みきれずに離してしまい、残りが永久の内腿にどろりと垂れた。
「ごめ…っ」
粗相の謝罪は、途中で咳に乗っ取られる。こほこほと続けざまに咳き込むと、頭を撫でられ、彼が伸ばしたTシャツの裾で口の周りを拭われた。永久はそのままTシャツを脱ぎ捨て、碧のTシャツに手を伸ばす。バンザイ、は?目つきが要求するので笑いながら両腕を挙げると、一息に引っこ抜かれる。ゴトッ、スニーカーが床に落ちて、跳ねて。それから靴下、今にも脱げそうになりながら脛あたりに引っかかっていたジーンズを脱ぎ、下着も捨てる。全裸になって向かい合い、吸い寄せるような永久の黒目から目を逸らし、碧は華奢な首に抱きついた。
「…いれてほしい、です」
「いいの?」
驚いてるようでもあるし、確信していたようでもある。
「…うん」
背中に彼の腕が添えられて、再びソファーに押し倒される。
「やっぱベッドは必要だったな…」
やけに真面目に永久が言うので、つい、吹き出してしまった。
ビニール張りのソファーは、汗でつるつるになった。
セックスの後の独特の臭いと、消えかけた香水のラスト・ノートが交じり合って、辺りに充満している。カーテンすらかかっていない窓の外は、気づけば暗い。薄闇の中でただ抱き合うだけの行為に、さっきからずっと、きりをつけられないでいる。じりじり疼く痛みは内側の損傷を訴えていて、もしかして出血してるかもしれないと思うくらい。この暗さでは見えないことが、却って救いだった。
「電車の音がさ」
「え?」
「電車の音。しないだろ、ここ」
「あ。そうだね…」
「碧が、嫌がってたから」
不意の言葉だったので、返事ができなかった。
ニャー…アオの鳴き声。
「…どこ?」
「どこだろ…」
異口同音に言って、もつれていた身体を剥がす。永久は手早く下着に脚を通し、落ちていたジャケットを碧にかぶせると、壁際のスイッチを押した。いくつものスポットライトが一度に当たったような眩しさ。パチ、パチ、位置を確認するように複数のスイッチを点けたり消したりした後、真上の一箇所だけがライティングされた。
「アオー?」
迷宮の中で、彼女ははぐれているんだろうか。
ニャー、どこかから、また鳴き声が聞こえる。大小一つ一つ、荷物の影を覗き込んで捜索している永久を眺めながら、碧は恐る恐る身体を起こした。激痛が走るようなことはなく、安堵のため息が出る。
「お、発見…アオ」
長い身体を一際屈めた永久が、黒猫を抱き上げる。ニャー、ニャー、彼女は立て続けに鳴き、さらにゴロゴロと鳴き声の種類を変えながら、飼い主の胸に縋るのだった。
「そっか、ごめんな」
彼らの間には、確かなコミュニケーションが成立している。
「…何?」
「何だと思う?」
簡単には正解を教えない、教師の口調。突然指名された生徒の気分で口ごもり、碧は片手を挙げた。
「腹減った、に、一票」
永久が小さく笑い、頷く。
「問題はどこにネコ缶が入っているか、だ」
「ダンボールに書いてないの?」
「書いてあるのを探すんだよ、今から」
彼は途方もなく難航するような言い方をしたけど、案外あっさりダンボールは見つかった。アオの食事を横目に、人間達も食事の算段を始める。人間のための食料品は、ほとんど、と言いかけて全然、と言いなおすほどなく、散策がてら最寄のコンビニへ行くことになった。
脱いだ服を、また、全部身につける。
キャスケットをかぶり、つばの深さを調整する。今の自分はそれでもまだ拠り所が足りない気分になるらしい、リュックの中から黒縁眼鏡を取り出すと、すぐに指摘された。
「伊達?」
「あ、うん」
「似合うね。思わぬガンプク」
「何?」
ふふっ、と上機嫌に笑うだけで、永久は答えない。突然手のひらが目の前に迫り、眼鏡がさらわれる。太いプラスティックフレームのそれは、永久の顔に装着された。
「行こうぜ」
「永久?」
左手を引っ張られる。正確にはその動作は一時的なものでなく、階段を下りる間じゅう、下りきった後もずっと、手を繋がれたままだ。彼の耳たぶにルーズリーフ状に連なったピアスが揺れているのを、ちらりと見上げる。
「腹減ったな」
「…うん」
眼鏡は、あまり似合っていない。