Novel >  さよならBlue >  二拍子のワルツ1

1.

 カメラが回り始める。
 「7-3-1」
 マーカーで書かれた、シーン7、カット3、テイク1を示す素っ気ない数字。その下で赤く光るデジタルのタイムコードが、動き出す。画面いっぱいに広がるこれらは、編集用の記録としてカットの冒頭に映す数字だ。
 カメラと被写体を、ほんの1、2秒であれ遮る物体で、これから演じようという立場の人間から本来その映像は見えない。ボードがさりげなく跳ね上がり、カチン、拍子木が鳴って。
 アクション、の合図を聞く。
 あれ?やっぱりスタートした。
 咄嗟に台詞が出てこない。台詞どころか、立ち位置もわからない。
 混乱するうちにふわりと風に煽られ――いつか地面は遥か下方、羽根のない身体で空を飛んでいた。驚きとか疑問より、緊張感のほうが強い。ぎゅっと拳を握り、しかし、現状に身を任せることしかできない。風を切るようでいて、ふわふわと漂っているような感覚。無重力的と言おうか。そう思った瞬間、瞬間であるのに、急降下というほどのダイナミックさはないまま、地面に降り立っていた。
 一歩を踏み出そうとした足が、引きずり込まれるように埋まる。靴の中に進入してくるざらついた不快さに、ようやくここが砂浜だと気づく。足元から視線を上げて、周囲を見回すと、表現できない違和感に捕らわれる。いくらじっと見つめても、青いはずの波が砂浜と同じ…もっと正確に言えば、世界がセピア色だった。
 やっぱり演じているのではなく、見ている側なのだろうか。
 画面下を横切る黒い影。
 アオ、と、呼びかければそれは猫の形になる。しゃがみ込んで彼女を砂地から救い出し、胸に抱けば、ニャーと美声で鳴くのだった。ニャー、続けざまにもう一度鳴くアオは、何かを知らせたいよう。突然腕の中で暴れ出す黒猫に、思わず力を緩めると、するりと抜け出してしまう。捕まえようと腕を伸ばした途端、目の前に、履き潰したスニーカーが現れた。
 はっ、と、顔を上げる。
 前のめりに転びそうになる碧の体を支え、起こしてくれるのは。
「永久」
 冷めているわけではないが、どこかしれっと取り澄ましている、いつもの表情。セピア色の世界でも悪戯っぽく黒目を輝かせていて、彼はその目を細めて小さく笑うと、碧の頬に触れてきた。少し汗ばんだ大きな手のひらから、じわりと熱が伝わる。うっとりとその感触に精神を委ねていると、彼の手は頬から首筋、そして肩に添えられた。
 永久が首を振って、伸びた前髪を乱暴に払う。
 彼の腰を抱いて、引き寄せると、ゆっくりと唇が重なり合う。
 表面を押し付け、唇を開き、舌先で湿らせる。舐めたり噛んだり、時間をかけて愛撫するうちに、腫れぼったい熱を持ち始める。長い腕が背中に回され、碧もまた、永久の背中にきつく抱きつく。舌を絡ませて、わざと音を立てて吸って。ふふふっ、お互いの鼻息が交差した。
 一際強く吸って、唇が離れる。それを追いかける碧をかわすように首を傾けるので、目標が逸れて彼の頬へキスを贈ることになる。永久はそのままさらに深く首を傾けて、碧の首筋に舌を這わせた。
 きゅっ、と、喉が鳴る。
 ねっとりした柔らかさが、鋭さを含んだ硬さに変化する。皮膚に歯が食い込む感じ、決して凶暴ではないけど、齧り取るつもりなんじゃないかっていうくらい何度も何度も噛むから――

 

 ドッ、ドッ、ドッ。
 B級ホラー映画の効果音みたいな、心臓の音。
 背中まで突くような激しい動悸に、目が覚める。よじれて少しずり上がった上掛けの中で、枕から落ちて、うつ伏せに寝ていたらしい。どうやら寝違えている。鈍く痛む首筋をさすりながら見た窓は、カーテン越しにもまだ薄暗い。時計を引き寄せると早朝の時刻で、ああ、それでも三、四時間は途切れずに寝ていたみたいだ。
 だるい身体を起こし、片膝に顔を埋める。
 鼓動が治まらない。
 なんて夢を見たんだろう。唇にキスの、寝違えた首筋に歯型の、生々しい錯覚が消えない。願望がそうさせた以外に、理由なんて思いつかないけど。
 十二月半ばから始まった撮影は、予定通り一月いっぱいまで続いた。撮影のための拘束は一ヵ月半に及んでも、延べ日数にしたらその半分くらいにしかならない事実を、恨んでも仕方ない。二月に入り、忙しくなったのは写真家の方だ。四月からの写真展、それに合わせた写真集の出版に向けての準備がいよいよ本格的になった。お互いのスケジュールは笑えるくらい重ならず、本当に、数えるほどしか会っていない。指を折るなら、片手の指だけでも足りすぎて、じゅうぶんに余ってしまう。余らせたまま三月に入り、もう、一週間経とうとしていた。
 会いたい。のだと思う。
 できるだけ具体的に考えないようにしていた。突然、何のきっかけもなく、いつも通りの一日を終えていつも通りの翌日を迎えようとする、こんな明け方にその反動があるなんて。自分の知る限りでは噛み癖なんてないはずの彼に、歯を立てられて、でもそれをすごく自然に受け入れてた。どちらが夢かわからなくなりそう、だって今、夢で会った幻影のほうが、碧に近い。
 心臓の高鳴りが落ち着くのに従って、奇妙に冷静で、ひどく生理的な欲求が込み上げる。浅くため息をついて、それを現している場所に触れれば、硬くなってる。
 ばさ。碧は降参する気分でベッドに倒れ込んだ。スウェットを膝まで、下着を腿まで下ろす。することと言ったら、熱と痛みを持って立ち上がってくるそれを、手のひらで高めるだけ。
「…ん」
 無意識に鼻声が上がる。
 キスをしたり、背中を抱いてくれる幻影はもうないから。
「んっ」
 腹が震えて、少し、腰が浮く。ただ快感と解放の使命だけを帯びた右手が、忙しなく、自分を往復する。やがてじわりと漏れてくるものがあり、はぁっ…大きく息を吐いて、上半身を捩る。片頬を枕に埋め、速度を上げると、無意識のうち求めるように脚が開いた。
「ぁ…」
 その先の声は、枕の中で殺す。やがて訪れた一瞬の空白の後、ぽたぽたぽたっ、大粒になって落ちた。
 いつの間にか瞑っていた目を、恐る恐る開ける。何かを期待したわけじゃなかったけど、一面、見慣れた天井だった。

 もう一時間ほど、寝つけないままに寝る。
 そのうち寝つく努力も面倒になり、なのに起きようとすると寝起きは最悪。碧はベッドから這いずり落ちて、朝を迎えた。水を飲みながらしばらくぼうっとしていると、手元の携帯電話がチカ…光る。先制するように着信ボタンを押し、
「おはようございます…」
 モーニングコールに応答する。
 電話の向こうで驚いたような気配を感じた気もするが、おはよう、と返す舛添のトーンは落ち着き払っていた。
『早起きね、って褒めてあげたいけど。いつから起きてるの?それとも寝てない?』
 この俳優が朝に極端に弱いことを知っている彼女は、単にモーニングコールより早く目覚めた事実を信用しない。
「寝たよ、ちゃんと…ほんと、今起きたとこ」
『そう。ならいいわ』
 彼女の懸念が解消したかどうかは、やはり、声からはわからない。それ以上追求もされず、いくつかの確認事項を終えて、事務的に電話は切れる。そのまま携帯電話を手放してもよかったのだけど、何となく、メールボックスを開く。他愛のないメールの切れ端ばかりだけど。ろくに句読点も打たず、短いセンテンスですぐ改行する癖とか。それさえ面倒になった時パソコンから送ってくるEメールの、普段見慣れないドメインにどきりとすることさえ。今すごく貴重に思える。なんて、柄にもなく既読メールを読み返してしまっていたら。
「…やべ」
 出発の時間が迫っている。慌てて洗面所に駆け込み、顔を洗ってひげを剃ると、ジーンズにTシャツ、パーカーを羽織り、リュックを片手に部屋を出た。

 

 あるデザイナーのファッションショーのリハーサルが、朝から行われている。マイナーブランドではあるが、コアなファンが多く、入手困難なことでも有名である。碧自身は雑誌でしか彼の服を着用したことがないし、ショー・モデルとして招集されたのも初めてだった。召集メンバーのバリエーションは豊かで、GUCCIのコレクションに出たやつもいれば、デビューしたてのやつ、自分のような元モデルです、みたいなのもいる。
 小規模と言えるキャパシティーの会場。客席が作られるはずのスペースにも、今はまだまばらにパイプ椅子が置かれているだけだ。壁際の一脚に腰掛けて、キャットウォークで立ち位置の指導を受けているモデルの様子を、眺めるでもなく眺めている。カチャカチャと軋むような音が聞こえ、隣でパイプ椅子が開かれているのには気づいていた。スタッフだろうと思って何気なく横を見ると、隣の椅子にどかりと座った男がこちらを覗きこんできた。
「よ」
 にっと笑う男は、顔馴染みのモデル。彼も、元のつくモデルだろうか。ずっと平行して続けていた音楽に、今は活動の中心を据えている。よ、と返す碧に頷き、ぎし、背もたれを鳴らす。
「元気?つーかドラマ見てたよ俺、去年の」
「…マジ。どうだった?」
「ちょー面白かった。続編ないの?」
「それ、もっと色んなとこで言って」
「あ、でも続編あっても小田島の出番ないじゃん」
「わかんないよ、回想シーンとかあるかも」
 彼は回想かよと軽く失笑し、長い前髪を持ち上げながら、碧の手元をちらりと見た。
「何。メール待ち?」
「や。全然」
 あてもなく開いていた携帯電話を咎められた気分で、思わず胸に隠す。意味のないことに気づき、パチンとたたんだ。
 ずいぶん長丁場だったような気がしたが、リハーサルは午後のまだ明るい時間に終わる。真っ暗な場内に強烈なスポットライトという環境から、急に太陽の下に戻り、一瞬、平衡感覚が失われる。数人、飯でも食おうという時間外れな相談をしていたけど、それを断って駅に向かった。
 やっぱり、電話は掛けられない。
 掛けてもし、都合が悪いと言われたら、その先の時間を途方もなく持て余すだけだと思うから。アトリエのある街までの切符を買い、碧は改札をくぐった。
 ニットのキャスケット、つばを目蓋の上まで下げる。
 人並みに紛れるようにして電車に乗り、降りて、渋谷駅の構内を明確な方向に進む。大通りからずいぶん外れた、裏路地のアパートの、急な階段を一段ずつ上る。
 トン、トン、トン。
 ドアノブは、大抵の場合、捻ればあっさりと動く。ほら。
 ギィ、少し錆びた音が立って、隙間から慎重に中を窺い――そのまま乱暴に、ドアを全開にしてしまった。
 強い西日の差す部屋は、逆光によってくっきりと明暗が分かれている。そのコントラストに驚いたわけではない。コントラストを生み出すべきものが、決定的に少なくなっていることに驚いている。
 どっしりと重厚ないくつもの本棚、アトリエの作業台、テーブル、ソファ、それに、写真パネル。どれもが、床や壁に黒ずみと傷だけを残して、なくなっているのだ。
 泥棒?
 そんな訳ない。家財道具、それもほとんど拾い物や貰い物というそれらを、わざわざ盗む価値はないもの。テレビやラジオ、ベッド、あと、いくつかのダンボールは、点々と存在している。ピックアップを免れたというより、置き去りにされてしまったような存在感。だって人間も猫もいないのに、ここにいたってしょうがない。
 今この部屋の中で一番共感できるのは、だから、頑丈にガムテープで口を塞がれたダンボールに、だと思う。ぽつん、と、それらに混じって立ち尽くしている自分。
「えっ…と…」
 独り言も上手く言えなくて。混乱に任せて、その場にしゃがみ込んだ。

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