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三十八度の若草色

 テレビの中から、わざとらしい歓声が上がる。
 それに合わせて、ははは、と気のない失笑をする男にもたれ掛かりながら、小説のページをめくったり止めたり、時折戯れに伸ばされる手に応えたり無視したりする、退屈で怠惰な非生産的消費に費やす時間がかれこれ一時間は続いている。途中から見始めたバラエティ番組は八時前に終わり、九時からは別のバラエティ番組に変わっている。
 今夜は休みなので、いくらだらだらしていても構わないのだけど。
 せっかく彼の部屋を訪ねておきながら、とりたて特別な要求をされないのも、なんというか罪悪感を感じるというもの――いやべつに、変な意味じゃなく。いつもはおしゃべりな彼がさっきから黙っていて、時々、テレビにつられて笑うくらい。無口で口下手な自分は、それを聞きながらやはり黙っているだけで、気の利いた言葉など掛ける由もない。
 膝から太腿にかけて撫でていた手が退き、ジーンズ越しの小さな面積で感じていた体温が遠のく。
「風呂入るか……」
 久々に投下された言語は、簡潔な目的を告げるものだった。
「あ、うん」
 パタン、と本を閉じて、預けていた体重を戻す。
 どうぞ。解放してから見上げた乾はしかし、お決まりの人を食った表情でにやりと笑った。
「いやいや。中村くん、俺の話聞いてた?」
「……うん、行ってらっしゃい」
 もう一度、今度は明確な方向へ右手を差し向けるモーション付きで、どうぞ、と促す。
 反応はやはり、にやり笑いだ。
「違うだろー」
「……入らないの?」
「入るよ。一緒に」
「え?」
「俺と、きみとで」
 人差し指で、まず自分を指し、それから慧斗を指す。なるほどこれ以上は誤解できないが、同時に、理解もできない。
「え、なんで?」
「良い質問だ」
 ピントの合った指先の向こうで、乾はとびきり悪戯っぽく破顔するのであった。

 

 乾はいかにも無精っぽく、腰を上げずに長い手足を駆使して、通勤鞄の中から小さな箱を取り出す。
「これはなんでしょう」
 和風のパッケージには、筆文字のようなロゴで「旅の宿」と印字されている。
「バス……ク、リン」
「うんうん、そういうやつ」
 正確には、メーカー違いの入浴剤。各地の温泉になぞらえたやつが入っているあれだ。
「どうしたんですか、そんなもの」
「そんなものって」
 思わず漏らした本音に、含み笑いのツッコミが入る。
「ここ、ユニットバスじゃないですか」
「俺も、いらねって何度も言ったんだけどね」
「二見さんが……」
「そう、二見さんが」
 この部屋は、話題の二見のような優雅な男には見向きもされない類の物件、住居にこだわりのないタイプの独身男性の一人暮らしにはごくごく標準的な、ワンルームマンションだ。つまり当然、風呂はトイレと同じスペースに併設されたユニットバスであり、合理性重視のユニットバスは本来的に快適な入浴を想定した構造ではない。
 ぴぴぴ、と、パッケージの点線を切り取りながら、乾が言う。
「会社宛てに、てか営業部宛てに届いた大量のお歳暮が、いらねって何度も言ってんのに強引に分配されたのは、思い返せば年末の話だが。デスクの上に置きっぱなしのまま年度すら変わり、いつのまにか四月になっていたと。俺も、さすがにいつまでも置きっぱなしにはできないと、昨日気付いたわけだ」
「長かったですね」
「うん」
 他人事のように頷きながら、箱の開封終了。
「持って帰ってきてしまったものは、消費せんと」
「入るの?」
「入るよ?」
「……一緒に?」
「一緒に」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 何度念を押したところで、彼の目的(目論みだろうか)は覆らないらしい。
「なんだよ、嫌なの?」
「やじゃない……けど……」
 恥ずかしい、のである。
 などという慧斗の気持ちは、個包装の小袋を品定めしている乾にはもちろん見透かされているだろう。
「箱根ー、草津ー……いや、せっかくだから本州出よう。中村くん、北と南、どっちがいい?」
「……どっちでもいいよ」
 今さら火照り始めた顔を、慧斗はさっきからずっとにやにや笑いっぱなしの乾の脇腹に押し付けた。

 

 給湯機能などはないので、栓をしたバスタブに蛇口から直接湯を注ぐ。ぬるめの湯を地道に十分ほどかけて溜めたところに、色つきの粉をまぶすと、一瞬で鮮やかな若草色に変わる。
 狭い室内の、バスタブの外で待機する数秒が想像を絶する落ち着かなさで。急いで縁をまたぐと、少し遅れて入ってきた乾に強引に後ろ抱きにされて、そのまま引きずられるように入湯。
 湯が溢れ、盛大にこぼれた。
 シャワーカーテンが閉められるのを横目で見ながら、がっしりした胸と肩に、諦めて身体を預ける。じんわり温かい。
「はー」
 と、ため息を吐いたのは乾だ。
「中村くん、湯船浸かるの何年ぶり?」
「憶えてないですよ。一人暮らし始めてからは……一度も」
「だよなあ、俺も」
 この部屋同様、いやもっとずっと安くて狭くて不自由な自分の部屋のユニットバスで、毎日義務的にシャワーを済ませる以上のことはしたことがない。中にはそんな環境下でも入浴を敢行する人間もいるらしいが、自分達には関係のない話だった。今日、この時までは。
 そういえばそもそも、事前にせよ事後にせよ、乾の部屋でシャワーを借りることはそう頻繁になかったかもしれないと思う。彼が慧斗の部屋のシャワーを使う頻度の方が、たぶん高い。バスタブは、横幅はそれなりに狭いけど、縦は余裕があるのかも。長身の乾が、膝を少し折っただけですっぽり浸かれる大きさがあるのだと初めて知る。
 不意に気付かされた現実と、ぼんやり立ち上る湯気が放つ非現実感の狭間に、慧斗はいる。嗅ぎ慣れたボディーソープのケミカルな匂いとは別次元の、生っぽい花の匂い。
 顎を上げると、髪の毛が湯に広がるのがわかる。
 見下ろす穏やかな目と、目が合った。
「……気持ちいいですか?」
「なんかその言い方、エロいな」
 乾の柔らかいテノールが、体中に響く感じ。
「何言って……」
 腰に回されていた腕が解けたと思ったら、下の毛をふやふやと撫でるから。
 思わず息を堪えて、身体を捩る。
「ん」
「なに?」
「……べつに」
 喉の奥で笑う振動が、やはり、増幅して響く。
「風呂……入るだけじゃないの?」
「この状況で、俺が手を出さないって思ってた?」
「そんなの。思って……」
「なかったろ?」
「うん……」
 言葉通り、彼の手は浮遊する体毛をあやすのを止めて、目標物を捉えたもよう。もよう、というか、今喘いでしまったのが事実。首を振ると、また髪の毛が泳ぐ。
「ん……」
 物理的に勃起に導かれる最中の、これが永遠なんじゃないかと錯覚する昂揚感は、誰だって好きだろう。つうんとしていて、じわじわくる、痛いような痒いような感覚。つまり快感の一種が、ゆっくりと腹の辺りに渦巻いて、食道を逆流してせり上がり、下顎を痺れさせる。
「んっ」
 くっと喉が鳴るのと同時に、鼻声が出る。
 笑っているんだ、それも、悦に入って。背中から伝わってくる、胸の動きでなんとなくわかる。
「ケート?」
 モードも切り替わった。下の名を呼ぶ時の彼は既に、結構、感じている。尾てい骨に当たる彼も、既に、結構硬い。その硬いやつが、割れ目に沿って押し込まれ、左右の尻たぶの間に納まる。慧斗の付け根の裏側に、乾の先端が当たり、それが短く強い快感を生んで、
「あ……」
 喉が開いた。
「ケート、しめて?」
 喉のことじゃない。
 尻と太腿の内側に力を入れて、乾のペニスを挟む。あ、膨らんだ。
「……このままで、する?」
「ん、いい?」
「うん……」
 返事は吐息交じりに曖昧になった。
 無理やりな挿入も、全然、嫌いではないけど。そういうことじゃなく、恋人の優しい所が好きだ。なんて言うのは月並みすぎるだろうか。でも真実。
 あと、優しいのはあくまで心で、身体のほうはだって、じゅうぶん、狂暴だし。勃起した乾が、慧斗の股で自分を扱き始める。もう一度そこに力を入れて、膨張を誘う。
「あ、いい……」
 低く柔らかい喘ぎ声。
 ぎゅっと閉じた目の、睫毛の先に水滴が付いているのがセクシーだ。観察できたのは一瞬で、すぐに、慧斗も目を閉じて喘ぐことになる。乾の指先が、ペニスの先端を摘んだからだ。
「あ」
 いい所は全部知られている。ちょいちょいと摘まんで、それからまた手のひら全体で側面をスライドさせて、根元をやわやわと揉む。
「あ……ん……」
「んっ……ケート……」
 尻たぶの間を、ぐいぐいと押しては引いて、何回かに一回、内腿に先端を強く押し付けるようなもどかしげなグラインドが入る。浮力が働いて、一発で的中しないんだと思う。その分、慧斗を扱く手が速くなっていく。
「あ、ゆーひ、さん」
 ぱちゃん、と、大きく湯が波打って、かかる。
「平気か?」
「んっ、そこ」
「ここ?」
「うんっ……」
 手足の先まで充満した快感を放出する術などなく、身体を突っ張って、乾の濡れた首筋に頬をこすり付ける。
 乾を挟んだままずり上がって、下がって、上がって、以下繰り返し。彼の胸板と自分の背中の間に新しいエクスタシーを見出しながら、せっつくようにキスをする。熱い唇を吸いながら、入浴剤はちょっと苦いな、とかちらりと思った。

 

 慧斗が乾の手のひらの中で果てた後、しばらく続けてみたけど。
 乾の絶頂は、空にしたバスタブの中の、慧斗の口の中で迎えた。少し久しぶりに直接口で受け止めたせいか、やや、怯むくらい濃くて苦かった。湯を抜いてもなお、むっと蒸気と熱気が立ち込めたサウナ状態の中で、ぐったりと重なり合っている。
「あっついな……」
「うん……」
「立てるか?」
「うん……ちょっと待って……」
「はは、うん、だな」
 くらくらする。やっぱり、のぼせた。
「ケート」
「なに?」
 両脇を抱えられて、腿の上に座らされる。
「あと六回分あります」
 息を吹き込まれて、ぞわわ、と、耳が痺れる。
「一週間分あるからね。あと六回入るぞ」
「毎日するの……?」
「うん?」
「あ、週一?」
 のぼせていたので。とんでもない勘違いとともに失言を重ねたことに、乾が笑い出すまで気付かなかった。
「いやあ、ちょっと、買いかぶりすぎだな」
 くくくく、と笑って、さらに、くくくくく、と続く。ツボに入ってる。
「忘れてください……」
「やだよ。まあ、今後する(、、)かしない(、、、)かはあれだ、きみの期待に全力で応えるが」
「忘れて」
「やだ」
 くくく。暴れてみたが、両腕のホールドは全く外れない。
「次はどこにする?」
「どこでも……」
「なんで拗ねてんだよ」
「乾さんが笑うから」
「喜んでんの、俺は」
「なんで、喜んでんの……」
「聞きたい?」
「聞きたくない」
 腕から脱出して、シャワーカーテンを開けたところでまた捕まる。
「ん」
 色々混じった、痺れる苦みのキスだった。

END
2004年の春先に開設してから、とうとうついに11年目に突入しました。
結果的に開店より休業が長い実績ではありますが、その中でKEITOシリーズは一番安定して連載できていたなあと思い返しています。お久しぶりに突然ながら、彼らの春先の模様をお届けします。
(2014.4.19)
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