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6.

 鏡の中の自分を見ながら、締めたばかりのネクタイを解く。
 色柄が気に入らないわけではなく、ネクタイを締めるのをやめるのだ。首元にこれがあるのはやはり、フォーマルすぎるだろう。カッターシャツを脱いで、ピンストライプのドレスシャツを選び直す。ひやりと冷たいシャツに袖を通して、喉をくつろげるよう前ボタンを留め、それから手首のボタンを三つずつ留める。ノータイのほうがベター、ともう一度鏡で確認しながら、襟の折り返し具合を直す。
 細身のパンツに裾を仕舞い、ようやくベースとなるスタイルが決定する。約束の七時にはまだ、十五分ほど余裕があるだろうか。十五分後には、マンションの下に車が着けられるはずだ。
 日曜礼拝へは結局、二度、行きそびれている。
 カレンダーを一枚破けば十二月に入ってしまい、今日が第一土曜日だった。
 かねてからの約束で、今夜は露木と食事をすることになっている。土曜出勤だったので会社から直接待ち合わせても良かったのだが、ビジネス・スーツではだめだと言う彼のリクエストに応えるために、一旦マンションに戻ることになった。
 D&Gの、カーディガンでは活発すぎてしまうからモヘア地のジャケットと合わせる。カルティエのタンクフランセーズで手首を飾れば、アクセサリーはそれだけで十分。今、摂の身体すべてのパーツの中で一番価値があるのは、時計を嵌めた左手首なのだから。腿丈のコートを着て、マフラーのサーモンピンクを注し色にすればいいだろう。髪は、額から頬へかかる数房を残して、タイトにまとめてある。
 我ながら入念なドレスアップ。これが二見のやり方、と、特に同業他社の営業マンから陰口を叩かれるのは仕方のないことだ。実際に、そのつもりが全くないといったら嘘なのだし。けれど自分は思われているほど、ビジネス・ライクな人間でなはない。

 

 言いつけどおり、携帯電話が鳴ってから部屋を出る。
 エントランスのすぐ脇に停められた車の、助手席のドアを開けると、露木は上から下へごく自然に摂を観察して微笑んだ。
「実物を見るのは久し振りだな」
「ええ、お互いに…」
 微笑み返し、助手席に乗り込む。
「ありがとうございます、わざわざ迎えに来てくださって」
「どういたしまして」
 摂がシートベルトを閉めるのを待って、車は発進した。
 連れて行かれたのは、市街からかなり走ったところにある、郊外の住宅地に構えられた店だった。白壁と、オレンジのライトが柔らかい印象のフレンチ・レストラン。
「来たとこある?」
「いいえ、びっくりしました…こんなところに」
 隠れ家的、というか、知らなければ辿りつけない立地だ。露木は半ば呆れて店の外観を眺める摂を軽く笑って、促した。
「入りましょうか」
 席数の少ないこの店は当然のように完全予約制で、近いうちにご飯でも、と言われてから実際会うまでに時間が必要だったことに納得させられる。コネクションがなければもっと時間がかかったかもしれないとさらりと言うので、この店の予約状況を思い遣ってしまった。
「伊豆だったら冬でもあったかいでしょう。伊東、行きませんか?」
「え?」
 露木が仔牛肉にナイフを入れながら言うので、ワイングラスから唇を離し、彼の手元を見るのを止めて顎のあたりに目線を移す。
「ゴルフ、川奈あたりに。年内はお互いにもう身動き取れないだろうから…来年の、決算期より前に」
「はは、決算より前に。そうですね」
 露木はこういう席でも、仕事の話をしたり聞いたりするのをあまり嫌がらない。お互いにとってオン・ビジネスの側面もあり、情報交換の席としてもベストであるのだ。
 食事は、そうと気付かれないように摂が露木のペースに合わせることで進められた。飲み干したコーヒーをソーサーの上に置くまで、彼よりわずかに遅れたタイミングをキープする。
「美味しかったです」
「よかった。二見さん、舌が肥えてるから」
「…美味しかったです、とても」
 露木の褒め言葉を肯定も否定もせず、重ねて料理を賞賛することで許してもらう。にっこり笑って立ち上がる彼に従って、席を立った。
 クロークからコートを受け取った露木が、オーナー夫人と短い遣り取りをし、厨房を覗き込んでオーナー兼シェフの人物と挨拶をする。カードを差し出して、迷いなく用紙にサインすると、露木は大人しく待っていた摂を振り返って笑った。
「二見さんのそういうところ、いいなあ」
「はい?」
「ふりで財布を出そうとしないところ」
「露木さん」
「はは、僕が出させないんだよね、揶揄ってごめん」
 同伴者に困った顔をさせて満足したようで、彼は手振りで、摂をドアに通した。
 夜はとても寒く、吐く息は白い。晴天の夜空には無数に星が見て取れて、そこに向かって息を吹きかけるだなんて幼稚なことをやりたくなってしまう。
「さて」
 背後からキー・ロックを解除しながら、露木が摂の背中に軽く手を添える。
「食後にはカクテルをいかがでしょうか」
「…素敵ですね」

 

 この国内最大級のホテルに外資が入ったのは、去年だったろうか。
 豪奢なイメージは変わらないホールを抜けながら、M&Aの話になる。見識を試されているのというほどのことはなく、新聞に書かれるような一般的なことを、時間つぶしに話し合っただけ。エレベータを降りてすぐのカウンター・バーは、週末とあってほとんどの席が埋まっていた―――予約席を除いて。
 スツールに並んで座り、お先にどうぞ、と示されて摂からオーダーする。
「マルガリータを」
「僕は…そうだな、アドニスを」
 摂は迷わずテキーラ・ベースの王道を、露木は澄んだオレンジ色のワイン・ベースカクテルを注文する。グラスを小さく合わせた時、露木は何も言わなかった。アドニスは女神ヴィーナスに愛された美少年だと、少年とは呼べない年下の男がもし知っていればそれでいい、という程度なのだろう。そして、運転手の彼が頼むカクテルが一杯ずつアルコール度数を強めていった理由を察しても、摂も何か言うことはしなかった。
 何杯目になるだろうか、ジャック・ローズを呑み終えた時。
 露木の手が伸びて、摂の左手首に触れる。袖口がそっとずらされると、いくらか隠れていた時計が姿を現した。
「細い手首に、よく似合ってる」
「……ありがとうございます」
「パシャは嫌いなの?」
 挙げられた、同ブランドの別銘。最もポピュラーで高価なのはやはり、パシャだろう。気付いていたよ、と、とても遠回しに質問も兼ねて言うやり方がスマートだ。
「そうですね…嫌いというわけではなくて。細長い、四角が好きなんです」
 ふふふふっ、摂の回答が気に入ったらしい、露木が肩を揺らす。
「パシャを贈ろう、と言おうと思ってたんだけどなあ…」
 冗談だろう、愉快そうにそう言って、笑いを含んだままの声で時計の針を読み上げる。
「十一時、過ぎですか」
「ええ」
「お開きでもいいけど…泊まっていく気はある?」
 露木がもう片方の指で天井を指すのに、摂はゆっくり頷いた。
 ここでも一枚のカードで支払が済まされ、店を出てエレベーターに乗る。取られていたのは、ごくノーマルなランクのツイン・ルームだった。カードキーで開いたドアに摂を通して、後から露木が入室する。彼はそのまま摂の横に並び、通り過ぎ、数歩歩いて振り返った。
「二見さん?」
 返事を待つ数十秒の間。
「どうしたの…?」
 不審そうに問われて、摂は救いを求める気持ちで露木を見返した。
「…ごめんなさい、やっぱり」
 もう以前から、いつかは、と思っていた展開だ。うぶではないし、彼が最初ではもちろんない。ジェネレーション・ギャップに時々ほんの少し失望させられるが、それが彼への嫌悪感に変わることはなかった。なのに、入り口に立ちすくんだまま一歩も踏み出せないのだ。どうしたらいいか、自分で自分を持て余して、祈るように両手をぎゅっと握り合わせる。
 そんな摂に、露木はがっかりした様子を隠さなかった。
「……そうかあ、だめか」
「気を持たせるつもりはなかったんです…ほんとうに、なんで、こんなことに」
 混乱気味に弁解しようとする摂を、落ちつきなさい、片手で制して露木が宥めるように笑いかける。
「僕は、悪女なきみでもいいけど?」
「悪女…」
「セカンド・キープでも構わないよ」
 摂は自分を、貞節な男だとは思っていない。その提案はだから決して、突拍子のないものではなかった。でも―――。
「……正直に告白します。とても魅力的だと、思ってしまいました」
「ということは、か」
「……すみません」
 謝罪はそれを拒むこととイコールだ。
 俯いていた摂には、そう言った時の露木がどんな表情だったのかはわからない。かすかな衣擦れの音に、ベッドに腰掛けたのだと判って顔を上げる。身体を斜めに捻ってこちらを見ていた露木は、ため息を吐くと同時に肩を竦めた。
「まあ。仕事には持ち込まないから、安心して」
「あなたは素晴らしい人ですね…」
「嬉しくないよ」
 感じ入って言う摂に、苦笑いの彼がゆるゆると首を振って、片頬を手で撫でる。
「悪いけど、タクシーで帰ってください。飲酒運転で捕まるわけにはいかないしね…ここでゆっくりすることにします」
 摂が二杯呑む間に一杯、このペースを崩さなかった彼だけれど。
「…はい。失礼します」
 軽い辞去の挨拶を残して、摂は部屋を出た。

 

 フロントでタクシーを呼んでもらい、マンションに戻る。タクシー代を払う時、今夜初めて財布に触ったのだから良い身分だ。
 酒は好きだが、大して強くもない。今夜、呑み過ぎたカクテルは、合計すれば100度を越えるアルコール度数だった。ドアを開けるなりコートとジャケットを脱いで、首にまとわりつくマフラーを強引に引っ張るとそのままベッドに倒れ込む。
 ふわり。瞬間にジャック・ローズの、リンゴとライムの香りを嗅いだ気がした。




 ワイシャツ一枚だったせいで、早朝の冷え込みに一度目が覚めたが、布団にもぐりこむとまた深い眠りに落ちたようだ。次に目が覚めたのは、正午を二時間以上回った時刻だった。二日酔いというほどの感覚はなく、少し、胸が焼けている程度。しばらく怠惰にベッドの中で過ごし、それにも飽きて這い出す。まず水を飲み、ペットボトルを一本飲み干すと今度はトイレに行きたくなる。臓器は正常に働いているようだった。
 シャワーを浴びようと服を脱ぎながら、腕時計を嵌めっぱなしで寝てしまったことに気付く。留め具を外したそれを洗面台の上に置いて、バスルームの扉を開けた。
 面倒くさがりな性格なので、髪は自然乾燥させることが多いのだけれど、今はいつまでも濡れた髪でいるわけにはいかないのでドライヤーを使う。
 フィルムを開けたまま食べかけの栄養補助食品、チョコレート味のビスケットを空っぽの胃に入れて、エネルギー充填。セーターにカラーデニムのパンツ、それからクローゼットにかけたファー付きのダウンジャケットを羽織る。去年買って大して着ていないそれを、この冬ヘビー・ユースの一着にしようと決めていた。車のキーは持たずに部屋を出る。教会へは、電車で行くつもりだ。日が暮れてしまうだろうが構わない、着くころには息からアルコールも抜ける。

 

 マンションから駅までは少し距離があるので、歩くと二十分以上かかる。それでもシェイプアップのための有酸素運動としては、不足なくらい。
 駅名を確認しながら券売機にコインを入れていると、駅ビルの店舗からかすかに音楽が聴こえる―――メル・トーメのスタンダードなジャズ・ナンバーだ。このバージョンでボーカルを取っているのはフランク・シナトラのようで、歌声はどこまでも甘い。想像は外れたらしい、今年最初にクリスマス・ナンバーを届けてくれたのはWHAM!ではなかった。

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