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1.

 背の高さと、アクアマリン色のタートルネックが印象的だった。
 背が高いと感じたのはその時のとても相対的な錯覚で、身長が伸びきってから横並びに立ってみれば別段、彼が長身だというわけではなかったのだけれど。
 「弟の摂(せつ)、せっちゃん」
 六歳離れた姉から怒られたり意地悪されたことは一度もなく、摂は彼女の大のお気に入りだった。姉はいつも、摂のことをこう呼ぶ。
 「せっちゃん、恥ずかしがらないで」
 男の右腕に自分の片手をそっと添えて、もう片方の手で摂の服を引っ張りながら、姉が笑う。二代かけて薄まったアングロサクソン系の血が、少女期のそばかすを薄っすら残していたって、彼女はキュートだ。
 姉弟を交互に見比べて、彼は、不似合いな幼い動作で小首を傾げた。
 「はじめまして、せっちゃん?」
 姉に倣うような、まるで生まれたての赤ちゃんや子犬に話しかけるようなトーン。高校生の少年にどう接したらいいか、彼なりに考えたのだろう。子供扱いされたと幼稚なプライドが傷いたなんて、気付かなかったに違いない。不愉快さと同時に、甘く甘く、身体じゅうの血が重力に逆らってゆっくり浮き上がっていくのを感じたことも。
 彼の穏やかな瞳の中から、自分が自分を見返している。造作の違う点も多いのだが、それでも姉弟で良く似た顔立ちだ。
「ねえせっちゃん、彼、わたしと結婚するひとなの」
 可笑しいったらない。
 おめでとうと言って、姉のフィアンセとの握手に応じたら、それでおしまい。翌年に彼らは結婚し、摂にはひとり義兄ができた―――ストーリーをおさらいする必要なんて、ないだろ?

 

「二見(ふたみ)さん俺、帰るけど…」
「うん、バイバ-イ」
「帰るけど。ちゃんと一人で帰れんの?」
 バイバーイと振る手の向こうで、後輩の苦笑顔が古い映画のスクリーンのように、ちらちらとコマ送りに見える。
「あんたタクシー乗っけてからじゃないと、俺帰れないわ」
 普段から先輩に対して敬語など使わない彼が、わざとらしく嘆く。本社にいたころから付き合いのある男なので、お互いに気安い、気の合う友人だ。彼は上期の内に営業職を離れて技術職に移ってしまったが、連れ立って飲み歩く関係は変わらない。
「ほら、立って」
 バスロータリーとの境の柵に腰掛けて動かない摂の、二の腕を掴んで引っ張る。力強く掴まれたわけではないが、摂は大げさに腕を振ってそれから逃れた。
「いーい」
「酔ってんなあ」
「酔ってるけど。コーヒー飲んでから帰るからいい、ひとりで乗る」
 駅前のスクランブル交差点を斜めに横断するとすぐの、夜の街の巨大な照明となっているファミレスを指差す。ガラスの向こうの明るい店内が、心地よく、くらりと揺れた。
 肩を竦めた乾が摂から離れ、ゆったりした足取りで自販機の列に向かう。コインを入れる動作のあとこちらを振り返るので、
「あっまいやつ!」
 片手で作ったメガホンを口の横に当てて、数メートル先のウェイターに呼びかける。オーダーに一寸指先をさまよわせた彼が、ガコ、長い身体を窮屈そうに折った。
 差し出した手に缶を押しつけて、乾は念を押すのを忘れない。
「これ飲んだら、帰んなよ」
「ありがと」
 十月の空気に冷やされた手に、コーヒーの缶がじわりと熱い。
「どういたしまして。それより明日、結婚式じゃん」
「あー、どっか知らない教会でね。なんだっけ名前」
「知らん。俺、出んの披露宴だけだから」
「道調べなきゃなあ…」
 摂は呟いて、両手の中でスチール缶をコロコロと転がす。
「そうそう。ちゃんと起きて、ちゃんと行けよ?」
「はいはい、はい、うるさいなあ。もういいから帰ってあげな、寂しがってるよ」
 革靴のつま先で後輩の脚を蹴ってやると、頭上の乾が小さく笑った。
「…向こうが夜勤だっての」
 じゃね、軽く手を上げる彼に缶コーヒーを掲げて応える。姿勢の良い後ろ姿がコンコースの遠くに紛れていくのを、ぼんやりと眺めていた。

 

 明日の結婚式で新郎となる人物は、営業職の同僚である。
 二十七歳の同い年。二年前に摂が東京本社を離れてこの地方都市に赴任したのと、彼が別の支社からこの支社に移って来たのが、ちょうど同じ時期だった。すぐに親しくなったのも自然だろう。会社の上司や同僚も披露宴には出席するのだが、摂だけは挙式からのフルコースだ。ウェディング・チャペルで実際に教会に入れるのは、何しろ定員が少ないので、親族やごく親しい友人などがほとんどだと思う。気性の良い同僚の心遣いは嬉しいが、浮かない気分になるのを許して欲しい。
 ―――結婚式は苦手だ。
 ひとつため息を吐いて、プルタブに爪を立てる。
 缶が熱いからといっていつまでも待っていると、中身がぬるくなってしまうのだけれど、タイミングがいまひとつ判らない。カシ、少し力を込めて開けると香料がふわりとかおり、一口含んだそれは、じゅうぶんに熱く、べたつく甘さだった。
 地球を覆う大きな樹形図の、自分は末端にいる。摂には祖父母の代までさかのぼるだけの知識しかないが、それよりずっと以前から、絶妙な配合で血統は変化を続け繋がっている。そこからころりと自分だけが外れて落ちてしまったのだと、生まれついたセクシャリティに楽観的なはずの自分だって、その対価を思ってナーバスになることもあるってことだ。
 手っ取り早くハイになるにはアルコールがいいが、同じように簡単に冷めてしまうのが物足りない。
 構内の奥からは時々、電車の音とアナウンスが聞こえる。
 客待ちでずらりと並んで止まるタクシーの窓に映っている、自分の姿。ぼんやりそうと判るだけの不明瞭な姿を見つめていたって面白くもない、摂は甘ったるい茶色の液体を流し込んだ。

 

 コト、鉄柵の上に空になった缶を置いて、立ち上がる。
 無意識の動作だったのだけれど、そう気付いても、空き缶を拾い上げる気にはなれない。そのまま素知らぬふりを決め込んで、その場から離れようとした時だ。
 コンコースに向かって歩いていたのだろう男がゆるやかにルートを変えて、鉄柵の上の、摂の置き土産を手に取った。思わず背筋を緊張させる摂にお構いなしに、彼は缶を揺らして残量ゼロを確認すると、それを持ったままポーズを決める。
 左手を缶の尻に、右手を側面に添え、顔の前でぴたりと止めるのは。
 ―――カッ。スリーポーント・シューターの放った空き缶は、見事な軌跡で自販機と自販機の間、アルミ缶入れに吸い込まれた。
 男が首を巡らして、ゆっくりこちらを見る。
 背の高い男だ。癖の強い巻き毛も、眉も、瞳も深い深い黒。西洋にあって東洋的と言えるイメージの、エキゾチックさを一目で感じる。ファッション誌の、海外ブランドの広告ページなんかに東洋系のモデルが使われているとはっとする。ちょっとそんな風情のある男。スーツ姿ではなく、パンツにジャケットなんて恰好だから、余計にそんな印象なのかもしれない。
 たっぷりと値踏みするような摂の視線に、彼は面白そうな顔つきで甘んじていた。伊達だろうか、太い黒ぶち眼鏡の奥、照明を反射して透明に光る黒目が、摂が何を言うのかと待っている。
「…わお、ふぁんたすてぃっく」
 茶化すような舌足らずの英語を、
「Thanks」
 彼は0.01秒で正しく賞賛だと理解した。
 そしてそれから続いたのは、美しさよりも嫌味っぽさが勝る、パーフェクトなイントネーションの英語だった。
「シューティング・ガードの地位は譲れないかな、やっぱり」
「……ふうん、万年二番なんだ」
 特にセンスの光るコメントではなかったかも―――お互いに。
 シューティング・ガードは、全ての能力を兼ね備えたマルチ・プレイヤーであるポイント・ガードに、一歩劣るポジションだ。
「性分みたいで」
 背番号2はけれど、優れたアウトサイド・シューターであることが多い。
「レイカーズのスカウトマンがここにいなくて、残念だったね」
「問題ないよ。実はもう、ジャズからオファーを受けてる」
 長い人差し指が、笑みをたたえた唇にそっと当てられる。内緒、のモーション。
「ジャズ?地味!」
「今シーズンは調子いいんだって。知らない?」
「ファンはそう言うね、毎年」
 相手に信じてもらえなくても、彼は愉快そうに笑う。
 ごく短い会話が穏やかに途切れると、摂はようやく、通りすがりの清掃ボランティアに謝罪するチャンスを得た。
「あー…悪かったと思う」
「何が?」
「そりゃ、マナーが」
 そーりぃ、と決して言わない摂に、男は感心したようにあるいは揶揄うように、目瞬きをする。
「二度とやらないって誓うよ。ママに、パパに、ご先祖様、神様にも誓おうか?」
 アルコールの残りが、摂をおどけさせる。お決まりの受賞スピーチみたいな言い草に、男は額を片手で覆い、声を上げて笑った。
「余計なことしたなら謝る、ごめん」
 そー、そーりぃ。礼儀正しいやつだ。
「誓うよ。それから、あんたにも」
 太い黒ぶちの中で目を丸くする彼に投げキッスを贈り、さよならと手を振る。気の毒な男が盛大に両眉を下げるのに、くるりと背中を向けた。

 

「のあ、電車!」
「あ、ごめん」
 驚いて振り返る。
 のあ、の呼びかけに応えたのが、彼だったからだ。
「切符買っといて!」
 コンコースから手招く友人らしい男に、英語ではなく、こちらもパーフェクトな発音の日本語で言う。
 摂の視線に気付いて軽く手を振って寄越すと、彼は大股で歩き出した。

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