Novel >  ビター&スウィート >  ビター&スウィート4

4.
 ボウルにバターをあけて、木べらで潰していく。
 柔らかくなったら、砂糖を。いつもは三温糖の独特のコクを好むが、今日は強烈なくらいはっきりした甘さのグラニュー糖を使う。溶き卵を少しずつ入れて混ぜ、バニラエッセンスを垂らし、小麦粉と風味付けのアーモンドプードルを篩う。緩めに仕上げた生地を、星型の口金を付けた絞り袋に入れる。子供時代に母についてままごとのように作ったクッキーが原体験だからか、いまだにスプーンで落としたり、型で抜いたりすることが多く、絞り出しはどことなく特別な感覚がある。
 円形に絞り出した生地の上に、ドレンチェリーを乗せていく。砂糖漬けの、おもちゃの宝石のように鮮やかな緑色をしたさくらんぼだ。エメラルド、ペリドット――いや、翡翠がいい。一粒摘み上げて光にかざすと、ゆらりときらめく。それがあの夏の木漏れ日のようで切なくて、また揺れて――ああ、いつから泣いていたんだろう。
「しぃちゃん、また開けっ放し――」
 一週間ぶりに聞く、低く穏やかな声。持ち主は一人しかいない。
 近づいてくる足音は、もう、すぐ後ろだ。慌てて目元を拭おうとして、ドレンチェリーを落とす。足元に転がったそれを拾うことはできず、俊恵に強く肩を掴まれた。
「なんで泣いてるの?」
 見られたとしてもほんの一瞬だったはずなのに、問い掛けは断定的だった。
 目元を隠そうとした手も剥がされ、むき出しになった両目をじっと覗き込まれる。耐えられず、志信はきつく目を瞑った。
「どうしたの?」
 黙秘は許されない。
「俺には言えないこと?」
 いつもの、子供っぽい嫉妬含みの声色。その嫉妬の矛先は彼自身に向いているのだと、いっそ知らせてしまおうか。
 大粒の涙が溢れ出た感覚はあった。しかしそれは、頬を伝って落ちる前に、柔らかく吸い取られる。布の感触ではない、人肌とも少し違う、吸いついたのはたぶん唇で――驚いて目を開ける。俊恵はうっとりと笑っていた。混乱する志信の両頬を手で包み、また、目尻の涙を吸う。
「俊、なにして……」
 擦れた声、はっきりと自分の声帯を震わせた感覚は、現実だ。目の前の整った眉目が強張り、両頬を包む手が緩む。
「しぃちゃん……今、起きてる?」
「なに、言って」
「ごめん」
 体温が遠のく。
「俊?」
 今度は俊恵が黙る番で、やはり自分もそれを許さず、法衣の裾を掴んだ。
「俊、今の、どういうこと?」
「ごめん」
 彼もまた、泣き出しそうな顔をしている。
「……ごめん」
 何度もそれだけ繰り返して、俊恵はやがて、弱々しく呟いた。
「前にさ、夜中に寝ぼけて俺に電話したことあったでしょ」
「うん」
「気付かなかったって言ったけど、あれ、嘘なんだ」
「嘘?」
 まさか。
「うん。あの日ね、しぃちゃん、電話で泣きながら俺に会いたいって言って。俺、急いで原付飛ばしてここに来て。しぃちゃんはなんていうか、その、ちょうど今みたいにいつもと違って。俺はそれ見て理性なくして……しぃちゃんのこと、押し倒して」
 それは、ひどくおぼろげながら、最初に見た妖しい夢だった。
「俺達……したの?」
「触っただけだよ。でもさ、それだって大事件じゃん。なのに次の日、しぃちゃんはそのこと憶えてなくて……俺もう拍子抜けしてさ。時々夢遊病っぽくなるって話してくれてたけど、こんなこと、って。でも、憶えてないならそのほうがいいと思って、とぼけたんだ」
「俊……」
「でもね、しばらくしたらまた、しぃちゃんから電話があって……俺はやっぱりここに来て、しぃちゃんと、して……次の日しぃちゃんはやっぱり憶えてなくて」
 現実のはずがなかったから。よくできた夢に決まっていた。そうでなければ、望みどおりに慰めてくれるはずなどなかった。
「だから俺、その時から、しぃちゃんのスマホの履歴消してたんだ」
 真夜中の迷惑な電話は、一回きりのはずだった。それが操作された事実だったと知る。
「なんで……?」
「なかったことにしたかったから」
 俊恵はきっぱりと告げた。
「夢見てる時のしぃちゃんとなら、抱き合えるってわかったから。誰でもいいんだとしても、俺は誰かに渡す気なんてないから。だから、誰にも、しぃちゃんにも教えないって決めた」
 熱を帯びた語気に、少し怯む。あの夢が、自分の世界の中だけで起きたことではないなんて。
「でも……朝、元通りだったし……」
「俺がやってた。出したの拭いて、服着せて、布団に入れて、おやすみって言うんだ。そうすると、しぃちゃん、子供みたいにすとんって寝ちゃうんだよ」
「嘘……だろ……」
「嘘じゃないよ。だから、ごめんね」
 やはり泣き出しそうな顔のまま笑って、俊恵は法衣の裾を握り締めていた志信の手を、ゆっくりと解いた。
「俊、なんで、こんなことさ」
「好きだからに決まってるだろ」
 怒ったような声だった。
「好きだし、大事だし、絶対放したくないのに……欲に負けて、しぃちゃん汚して、ごめん」
 解かれた手を再び法衣の裾に伸ばす。志信は、色を覚えた大人としょげ返った子供の同居した、俊恵の顔を見上げた。
「俺、ずっと、夢だと思ってて……」
「――え?」
「夢に見るほど俊のこと好きなんだって……それも、あんな、すごい夢」
「しぃちゃん……」
「これも夢、じゃないよね?」
 砂糖でべとついた指を舐めると、痺れるほど甘い。その指を俊恵の唇の隙間に押し入れると、おずおずと、同じように舐める。無言で見つめ合った一瞬の後、かぶりつくような口付けになった。頭を引き寄せ、鼻先を押し付けて、貪る。深い口付けの合間に許された息継ぎはわずかで、まるで溺れているように苦しくなる一方だ。しゃくり上げるように喘ぎながら、志信は切れ切れに俊恵をなじった。
「放したくないとか言って、お見合いしたくせに……」
「知ってたの?」
「ショックだった」
「半分仕事だよ。最初から断るつもりだった」
「それでも」
「……ごめん」
 次の口付けは唇ではなく耳朶に落ち、強く背中を掻き抱かれた。
「しぃちゃん、ずっと好きだった……ずっとだよ……」
 切ない声が耳から吹きこまれ、脳を直接愛撫されているような感覚。
「周りより大人びてて、芯が強くて、優しくて――きれいで」
「……それ、俺のこと?」
「離れ離れになっても、忘れられなかった。再会したしぃちゃんは、俺の想像よりずっと、やっぱりきれいでさ」
 志信はきつい腕の中でなんとか身じろぎ、俊恵の精悍な頬に触れた。
「俺は、あんなに可愛かったお前がすっかり変わってて、びっくりした」
「なにそれ」
「すごく、かっこよくて……参った」
 呆気に取られたような無表情の後、はにかんで破顔するから。急に恥ずかしくなったけれど、また唇を塞がれてしまっては言い訳もできなかった。

Category :