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3.
 オーダーが立て込んでいたわけではなく、むしろその逆だった。試作で運用していたホームページを改良したり、帳簿を付けたり、細々した事務作業が多いと気が緩みがちで、夕方近くになってついうたた寝してしまう日が続いていた。結果、夜に寝付けなくなり、睡眠薬を飲んで布団に入ったものの、まんじりともしない。
 目的なくスマートフォンを弄っているうちに、着信履歴の倉井俊恵で指が止まる。以前、真夜中の二時頃、まさに丑三つ時に寝ぼけて俊恵に電話してしまったことがあった。翌日、憶えのない発信履歴に気付いて慌てて謝罪のメールを入れたら、気付かなかったと返されて事なきを得たことがあったっけ。
 寝ぼけた振りをして、電話を掛けてみようか。俊恵は絶対に怒らない――なんて、眠れない夜はろくなことを考えない。
 志信はスマートフォンを手の届かないところまで遠ざけて、布団に潜った。

 いつの間にか、玄関にぼんやりと立っていた。
 まだ外は真っ暗だ。原付バイクの排気音が近づき、ガチャン、止まる。新聞配達ではないと何故か確信があり、あと数秒でこの玄関が開くと、やはり何故か確信がある。
 ガラ、扉の外は深い闇。そこから、長身の男が現れる。Tシャツにスウェット姿の待ち人。
 俊、と、呼びかけた自分の声が遠くに聞こえる。
 靴も脱がせずに抱きつき、性急に口付けると、すぐに背中を抱き返して応えてくれる。音を立て、角度を変えながら、何度も唇を吸う。
 痛いくらい強く抱き合い、身体じゅうを弄りながら、体重を後ろへかける。
「こら、危ない」
 吐息交じりに失笑した俊恵は、しかし抗わずに、志信の頭を庇いながら廊下に自分を押し倒した。
 唇が離れたのはその一瞬だけで、再び、深い口付けが始まる。
 骨ばった手のひらではクッションにならないし、何より愛撫の手が足りない。頭を振って逃れると、ゴツ、と、打ち付けた音がする。
「大丈夫?」
 答えずに舌を出して誘うとすぐに、温かい息がかかって、ねっとりした感触が絡む。肩から腕、脇腹を撫で、それから前へ。俊恵はもう硬い。布越しに形を確かめると、同じように、同じ場所に触れられる。膝を立て、腰を浮かすと、心得た手がズボンを下ろしてくれる。むき出しになったそこを手のひらで包まれて、幸福のあまり笑ってしまう。つられたように笑った俊恵ももどかしそうに腰を揺らすので、ズボンを下ろすと、バネのように飛び出してくる。肘を使って、馬乗りになった彼の股の下まで潜り、志信は愛おしい昂奮のしるしを口に含んだ。

 夢はいつか覚める。
 遠くで、スマートフォンのアラームが鳴っている。
 鼓動は早く、身体も熱い。
 ごろりと二回寝返りを打って、こんな朝には聞いていたくないアラーム音の発信源を断つ。
 夢の中でだけの逢瀬なのに、現実にあったかのように身体がだるいし、ところどころが痛いのが、いっそう虚しさを増長させる。事実はまるで甘くないのだと、言葉通り痛いほど知っている。昨夜はまた、夢遊病が出たらしい。
 夢で愛撫されていた唇を舐め、俊恵を愛撫した口の中を舌で探る。何が残っているわけでもないのに、後味を求める自分が浅ましい。それから、恐る恐る下肢を確認すると、緩く勃起していた。下着をくぐって直に触れてみると、冷たい感触はなく、粗相には至らなかったとわかる。
 はあ、ため息が出る。
 こんな夢は、初めてではない。
 霞がかった夢に縋りながら自分を慰める朝も、初めてではなかった。

 居場所を遺してくれた祖母へのせめてもの礼に、月命日には墓参りをしようなんて考えは、むしが良すぎるとは思う。社交家だった祖母の墓は、一月前に志信が供えた花がそのままになっているようなことはなく、誰かの手で瑞々しい花に替えられていた。携えてきた小さな花束をその脇に挿し、線香を上げ、手を合わせる。菩提寺の副住職は不在、挨拶を交わした住職、俊恵の父親も急な法事で慌ただしく出発するところで、家族旅行はおろか、ちょっとした外出の約束さえすぐ反故にされていた子供の頃の俊恵を思い出す。単身赴任の父と共働きの母になかなか構ってもらえなかった自分も似たような境遇で、自然といつも一緒にいた。
 走り去っていくバスを見送るタイミング、つまり間に合わずに置いてきぼりをくらい、ただ待っているには少し長すぎる時間をアキのカフェに貢ぐことにする。
 昼下がりの、少し明かりを抑えた店内には先客がいた。
「またお会いしましたね」
 苦笑気味に言って肩を竦めるのは、遠藤だ。時々来るのだと言っていたっけ。狭い町だと、こういうこともあるらしい。
「はは、また、ですね」
「よく偶然会うって、変ですね」
「ほんとに。今日、お休みなんですか?」
「休日出勤の振り替えで、半強制的に。突然休みになっても何もやることがないのが、仕事人間の悲しいところです」
「やだ、悲しいお酒だったの?」
「いえいえ、楽しいお酒ですよ」
 カラン、と氷を鳴らして、彼はグラスの中身を少し減らした。琥珀色の液体の正体はウィスキーだろうか、それとも別の酒だろうか。休暇の邪魔をすべきかどうかの逡巡を見透かしたように、遠藤に隣の席を勧められ、断る理由はないので腰掛ける。
「クッキー、もうほとんど売り切れよ」
「ほんとだ」
「注文、今度からもっと多めにしてもいい?」
「ぜひお願いします」
 取り残されたといった風情の残り少ないクッキーを一袋、手のひらに載せる。早く食べてもらえますように。
「愛されてるなあ」
 明るく笑ったアキは、ドリッパーをセットしながら、そういえばと話題を変えた。
「若住職、どうなったの?」
 前置きがあったといえ、急に出てきた俊恵の名と、質問の意味に戸惑う。
「どうって……何がですか?」
「志信くんが聞いてないんじゃ、特に進展なしかあ」
 あっけらかんと納得されてしまい、さらに困惑する。
「……いや、あの、何の話」
 話が通じていないと気付いたらしい、アキはまず黙って呑んでいた遠藤を見て、二人は少し顔を見合わせてから、同時にこちらを見た。
「もしかして、知らない?」
 アキが遠藤に視線を送り、微苦笑の遠藤が引き取る。
「倉井くんの、縁談」
「縁談……って」
「てっきり聞いてるかと思った。檀家さんからお話があったんだって。まあ、見るからに乗り気じゃなさそうだったけど。あれでフリーって公言してれば、年齢的にもそういう話は持ち上がっちゃうよね」
「はは、年齢的に」
「あら失礼」
「どういたしまして。僕はともかく、倉井くんは」
 続く遠藤の言葉が、エコーのように頭の中に響いた。
「案外、忍ぶ恋をしてるとか」
「忍ぶ恋かあ、なんだか色っぽい言い方。志信くんは? そういう話ないの?」
「今は仕事が楽しいそうですよ」
 さらりと出されたのはおそらく助け舟だろう。湯の沸く音にアキがカウンターを離れたタイミングで、遠藤が笑いかけてくる。
「寂しいですか? 倉井くんが、黙って縁談受けてたこと」
「なんで、そんな……」
 茶化すとか誤魔化すとか、そういうこともできず、反射運動として曖昧に笑い返すことしかできない。
「ちょっと意地悪だったかな」
 カラン、また氷を鳴らして、遠藤は酒を一口含んだ。
「昔、似たような思いをしたけど……僕は寂しかったですよ」
 そう言って微笑んだきり、彼は何も言わなかった。それが慰めであると悟ることができないほど、鈍感ではない。けれど今は、何も感じたくないし、何も考えたくなかった。

 慣れない酒を飲んだせいで、翌日は頭痛に苛まれた。
 不快感と不機嫌の渦巻く胸の中で、考えていたのは憂鬱なことばかりだった。
 当たり前のことが起こっただけだ。かつていつも一緒にいられたからといって、この先もそういられるわけはない。子供と大人は違う。ここはユートピアではなく、時間は同じように流れている。思い出の中に住むことはできない。
 自分は何のために戻って来たのだろう。都会の孤独から逃げるため、ぼろぼろになった身体と心を癒やすため、今度こそ好きなことをして新しい人生を始めるため、いくつも理由がある。俊恵といられなくなるというだけで、それらの価値がなくなるわけでは決してないのに。
 会いたくない、と思ったのは初めてかもしれない。
 まるで気持ちが通じたように、彼がぱったりと顔を出さなくなって一週間。気まぐれならまだいい、と、被害妄想じみた想像で落ち込む。毎晩飲んでいる本物の精神安定剤より有効な成分が、幼馴染みには含まれていたのだ。さざ波のように絶えず揺れている感情は、もういつ大きく打ち寄せてもおかしくなかった。

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