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2.
 まばらに埋まった座席の中ほどに座ると、すぐに、バスは動き始める。海から山へ一続きになった地形のために急な坂が多いこの町は、道路が斜面を這うようになだらかにカーブしている。揺れる車内で手荷物を慎重に庇いながら、見るともなく眼下の海岸線を眺めると、少し日差しが弱いからか、海の色は穏やかな灰青色だった。
 バスは高台を下りながら、市街地へ向かっている。昔住んでいた社宅や通っていた小中学校は駅を越えた海岸付近にあり、高台の祖母の家とは離れていた。今となっては、せいぜいバスで十五分の距離は決して遠くなかったが、子供にはとても遠く感じたものだ。
 自動音声の車内アナウンスが聞こえ、慌てて降車ブザーを押す。銀行前のバス停はいつもなら他にも降りる客がいるのだが、珍しく自分一人だ。もう一駅乗ると、昔住んでいた社宅アパートと、その少し奥まった通りに菩提寺がある。もっとも俊恵がいるとは限らず、訪ねたところで勤めの邪魔になるだけだろう。
 本屋のある角を一本路地裏に入るとやがて、小さな立て看板が見える。古めかしい建物には他にこれといった目印がなく、俗っぽく言えば隠れ家的なカフェだ。
 間口の狭いドアをくぐり、中を覗き込む。
「こんにちは、アキさん」
「あ、志信くん」
 カウンターの中でカップを拭いていた女性が、ぱっと顔を上げて笑った。
「待ってました。もうね、品切れ続出、入荷待ち状態」
「またまた」
「ほんとだってば」
 彼女が身を乗り出して指差したスペースは確かに空で、可愛らしい手書き文字のメモが貼られている。『無名工房さんのクッキー 次回入荷は水曜以降になります』
「志信くんのクッキー、ファンが多いんだから。私を含めて」
「アキさんのだっておいしいのに」
「うーん、でも、私のはちょっと違う感じがするんだよね。自分が作ったのが一番おいしいのと、そうじゃないのってあるじゃない? クッキーは断然、誰かが作ってくれたほうがおいしく感じるって思ってたけど、志信くんのクッキー食べてからは特にだなあ」
「はは。嬉しいです」
「顔出ししたら、もっとファンが増えると思うんだけど」
「野菜みたいに? 私が作りましたシール」
「あはは、それいい」
 朗らかに笑う店主のアキは、快活な美人といった印象の年上の女性だ。いつも長い髪を高い位置で一つにまとめ、襟付きのシャツをさらりと着こなしている。彼女の経営するこの店が、志信の最大の取引先だった。
「これ、今回の納品分です」
「ありがと」
 ここまで慎重に運んできた荷物を、ようやく解放する。大判の風呂敷に包んでいたのは、昨日焼き上げたクッキーだ。ビニール袋に詰めて専用の機械で密封し、パソコンから出力したラベルを貼るまで、一つ一つ手作業の商品にはどうしたって愛着が湧く。
「いい加減、車持たないとかな……」
「あったほうが便利なのは確かね」
 少なくとも、納品するのに風呂敷を抱えながらバスに乗らずには済む。
 納品書と実物を見比べていたアキは、ひとつ頷くと、志信に背を向けた。チチチ、とコンロに火が付く。いつからか、注文は取られなくなった。店内にはエスプレッソマシーンも置かれているが、志信が飲むのはいつもハンドドリップのホットコーヒーだ。
「今朝、若住職もコーヒー飲みに来たよ」
「へえ」
 アキをはじめ、俊恵のことを若住職と呼ぶ人は多い。彼らにとって菩提寺の跡継ぎとしての認識が第一だからとわかっていても、妙にくすぐったく感じるのは、彼らにとって当たり前の姿が、志信にとっては幼馴染みのよそ行きの一面という思いが強いからだと思う。
「お裾分けしたコーヒー、飲んでくれてるのね」
「もちろん。でもアキさんが淹れてくれたほうがおいしいです」
「私にとっての、志信くんのクッキーと一緒」
「なるほど。向き不向き……なんですかね」
「若住職は、またちょっと違う価値観みたいだけど」
 また、そわ、とくすぐったい感じ。
「どんなものでも、好きな人が作ったのが一番おいしいんだって」
 伝聞形でなければ、赤面していたかもしれない。無邪気に言って笑う俊恵の顔は簡単に想像できてしまうし、想像だけでじゅうぶん臭いせりふだ。
「あいつ、そんな気障なこと?」
「直接そう言ったわけじゃないけど、そういうニュアンスだったな」
「よく言えるなあ……」
「いい男よね、外見も中身も。そりゃ、周りもほっとかないか」
 傍から見ればまず間違いなく、そういう評価に落ち着くことは知っている。見た目にそぐわない子供っぽい話し方とか、それに負けじと子供っぽい味覚とか、私服には頓着しないとか、褒め言葉とは言い切れない誰にでも優しい性格とか。あげつらう自分が傍から見るには近すぎる位置にいることも、あげつらってみても欠点にもならないことも、知っている。こんな時、幼馴染みの距離にいるということが果たしてただ幸福であるだけなのかと考えては、ひっそりと自己嫌悪が打ち寄せて――引いていくのだ。
「俺もそう思います」
「やだ、志信くんもいい男よ」
「はは、どうも」
 細口ケトルの先からドリッパーに湯が落ち、一気に芳香が立ち上った。

 アキの淹れたコーヒーを最短時間で味わい、席を立つ。
「なあに、ゆっくりしてってよ」
「すみません、この後も用事があって」
 笑顔で引き留めてくれる彼女に頭を下げて、店を辞す。
 がらんどうだったレジ横のスペースに、自分の焼いたクッキーが並べ直された光景を思い返しながら、志信は再びバスに乗った。回復に向かっているといえど、月に一度薬をもらう生活は都会を離れた今も続いている。まだ通い慣れたとまでは言えない小さなクリニックは、いつ行っても混雑していて、処方箋のための形式的な診察が必要なだけならば、午前の診療が終わりに近い時間を見計らって行くのが一番待ち時間が短くて済むことがわかった。
 薬局を出て駅まで戻ってみたものの、遅めの昼食を摂る気にはならず、次のバスを待つことにする。行きかう車を見ながらぼんやりと立っていると、その中の一台、白い乗用車が滑り込んできた。
「秋川さん」
 ウィンドウが下がり、運転席から呼びかけてくるのは旧知の人物だ。
「あ――お久しぶりです」
「偶然ですね。どちらへ?」
「いえ、今から帰るところです」
「なんだ、ちょうどいい。僕、今からそっち方面なんですよ、乗っていってください」
 内側からドアが開き、あれよあれよと志信は助手席の人となった。
「ついこの間まではしょっちゅうお会いしてたから、お久しぶりな気がしますよね」
 ゆっくりと車を発進させる人物の、この人当たりの良い笑顔を見るのは、そう言えば久しぶりというほど時間が経っていなかったと気付く。
「あ、そうでしたね」
「夏目木さんの――あ、今は秋川さんのですよね、僕が担当だったのに何言ってるんだか。お家の住み心地はどうですか?」
 中学一年生の夏までは、氏名欄に夏目木志信と書いていた。夏目木は、父方の苗字だ。
「はい、何の不便もないです」
「それはよかった」
「おかげさまで……あの、厚かましく乗っちゃいましたけど、いいんですか?」
「いいんですよ、本当に方向一緒ですから」
 司法書士の遠藤には、祖母からの遺産を相続するにあたり世話になった。もちろんそれが仕事だと言ってしまえば元も子もないが、全ての支払いが済んだ今では、自分を家まで送るなど業務外だろう。人柄が良いというのは、彼のようなことを指すのだと思う。その上、志信よりは年上だが世間的には若く、見栄えも良い。司法書士と聞いて想像していた人物像とずいぶん違っていて、面食らったのを憶えている。
「少しは落ち着いてきましたか?」
「ええ、おかげさまで……って、そればっかですね」
「いえいえ、そう言っていただけると嬉しいですよ」
 思いもよらず喪主を務めることになった祖母の葬儀は、町内会や婦人会、それに葬儀社のこと細かいフォローがあり、忙しくはあったが指示通りにおこなえば済むことばかりだった。台風のような数日が過ぎると、次に遺産の問題が持ち上がった。祖母が入院中に書いて俊恵の寺に預けた遺言状は、公文書でなくいわゆる自筆で、勝手に開けることもできず、家庭裁判所で開封して検認手続きをしなければ有効にならないものだった。遺言には種類があり、効力はもちろん封の開け方一つとっても制約があるなんてこと、当事者にならなければ知ることもなかっただろう。遺言状の内容は志信に家と土地を譲るという簡潔なものだったが、手続きは素人一人で到底できるものではない複雑さで、遠藤はまさにその向きの玄人、財産相続の専門家だった。葬儀社や寺などとは「業界的」に横の繋がりがあるらしく、遠藤の所属する事務所に連絡を取ってくれたのは俊恵だ。いつもよそ行きの彼の顔が妙に気恥ずかしいと反射的に感じてしまうが、アキと志信を引き合わせてくれたのも俊恵で、地域の中で確かな役割を担う立場の彼に助けられてこの町にいる自分は、茶化さずに幼馴染みに感謝しなければいけないだろう。
「お仕事はいかがですか?」
「順調とは言い難いですけど、好きで始めたことですから。祖母が立派なガスオーブンも遺してくれましたし」
「それは、お婆様も喜びますね」
「だといいんですが……薄情な孫だったので」
 家族との縁が薄かったのは、祖母も同じだったらしい。夫とは早くに死別、一人息子だった父をも先に亡くし、自身の兄弟も既に他界。遠縁に広がっていく遺族のうち、最も近かったのが志信なのだ。
「お婆様の月命日、もうすぐですね」
「……よく憶えてますね」
「全部憶えているわけじゃもちろんありませんが、最近受け持ったお客さんに関することは、なんとなく」
 謙遜するように言って、遠藤はあっさりと話題を変えた。
「そうだ、今度クッキーをオーダーさせてもらってもいいですか?」
「あ、はい、もちろんです」
「プレゼントにしたいと思ってまして」
「彼女ですか?」
「残念ながら、姪っ子の誕生日に。勝手に流行りの玩具なんかを与えると、姉から怒られるんです。秋川さんは?」
「え?」
「彼女」
「俺は……越してきたばっかりですし、今は仕事が楽しいですね。なんて、言い訳がましいけど」
「僕もですよ」
 どれに対しての同意かはわからない、曖昧な相槌が寄越される。車は苦笑の気配に包まれたまま、坂を上り始めた。

 玄関前の塀から頭を出す背の高い木はサルスベリで、調べたところ、開花時期は夏となっていた。もう秋口だというのにたっぷりつけられた赤い花は、きっとそろそろ見納めなのだろう。その真下に、見覚えのあるスクーターが停まっている。色も型もよくある無個性な原付バイクなのに、これだけは持ち主がわかる。
「俊だ」
 思わず呟いてしまい、横合いの遠藤に聞かれてしまう。
「倉井くん?」
「あ、すみません」
「どうして謝るんです?」
「……そうですね」
 苦笑には微笑が返されて、さらに苦笑させられることになる。
「ありがとうございました、家の前まで」
「通り道ですから」
 バタン、と鳴ったドアの音が注意を引いたのかもしれない。庭先からひょっこりと俊恵が現れ、驚くのも無理はない、目を見開いた。
「あれ」
「やあ、倉井くん」
「遠藤さん――あ、先日は父がお世話になりました」
「いえ、こちらこそ。住職によろしくお伝えください――じゃあ、僕はこれで」
「あの、ありがとうございました」
 軽く手を上げて、遠藤は車を発進させた。
 さらに坂を上っていく白い車を見送っていた俊恵が、首を傾げてこちらを見る。
「遠藤さんと会ってたの?」
「いや、駅前で偶然会って、送ってもらった。こっちの方のお客さんに用事なんだって」
「へえ……てゆうか、しぃちゃん、うちの近くまで来てたんだ」
「アキさんに納品して、病院コース」
「連絡くれれば、俺が迎えに行ったのに」
「原付で?」
「車もあります」
 知っている。揶揄っただけ。どうせ子供っぽい独占欲が刺激されたとかそんなところだろう、耐え切れずに志信はとうとう吹き出した。
「お前はいつから運転手になったんだよ」
「しぃちゃん専属ならいいよ」
 そしてうっかり、反撃に遭う。
「……バカ言ってないで入るぞ」
「うん」
 玄関を開け、靴を脱ぎながら俊恵を振り返る。
「今日も法事帰り……じゃないよな」
 法事にしては法衣が略式だとか、自分もすっかり詳しくなった。
「ちょっと檀家さんに顔出してきただけ」
「昨日とは別の?」
「うん。で、しぃちゃん、今日何食べた?」
 何気なく投げかけられた問いは不意打ちすぎて、思わず絶句してしまい、それが自白となる。
「何も食べてないんでしょ」
「……コーヒー」
「コーヒーは食べ物? ちゃんと食べろって、俺言ってるよね?」
「だって」
「だってじゃない」
 小言が始まる予感に首を縮める志信に、しかし、俊恵はしかめ面をやめにっこりと笑って言った。
「だから、昼飯一緒に食べようと思って」
 掲げて見せたのは、見知らぬブランドロゴの入った紙袋。単なる持ち運びの道具で、中身はそれに即しているわけではないことはよく知っている。日々の食事に対して興味の薄い志信を慮って、倉井家の惣菜を時折こうやって届けてくれるのだ。
「ねえ、俊、もしかして結構待ってた?」
「いや、三十分くらい」
「ごめん」
「俺が突然来ただけじゃん、いつものこと」
 なんでもないふうに言って、俊恵は勝手知ったる足取りで仏間に入っていった。彼はまず仏前で手を合わせる。家人に挨拶するのと同じ感覚なのだろう。僧侶にとっては当然のことかもしれないが、訪ねた家に仏壇があったからといって、進んで線香を上げたことは自分にはない。
「あ、コスモス活けたんだ」
 早速発見されて、気恥ずかしくなる。
「摘んで挿しただけだけど……好きじゃなきゃ植えないのかなって思って」
「うん、いいことだよ。夏目木のおばあちゃんも喜ぶ」
 穏やかに微笑んで、俊恵は器用に法衣をさばきながら正座をした。まず線香を上げ、袂から翡翠の数珠を出し、無言で合掌する。
 隣に腰を下ろし、じっと、その無駄のない所作を眺める。思い出すのはやはり、祖母の葬儀だ。いや、葬儀そのものでなく、そこでの俊恵の姿を思い出す。しゃんと伸びた背筋、数珠を手繰る手つき、短くなった髪、伏せた目から伸びた睫毛、精悍な頬、すらりとした鼻筋、耳に心地よい声を発する唇――大人になった幼馴染みの麗しい姿を、夢を見るような気持ちでずっと見ていた。あの時間、心のほとんどを占めていたのは彼なのだから、つくづく薄情な孫だと思う。
 合掌をやめた俊恵が、不意にこちらを見る。
 すぐには気持ちが切り替わらない。慌てて立ち上がろうとしてよろけ、差し出された俊恵の手から数珠が落ちる。
「……ごめん」
 声が震えてしまう気がして、口の中で小さく呟く。俊恵の腕に支えられながら、畳の上の数珠を拾おうと手を伸ばすと、同じように数珠に伸ばされた俊恵の手が重なる。タイミングの悪さを呪う暇もなく、志信の指に、冷たい翡翠と温かい俊恵の指が絡む。
「これ」
 拾い上げた数珠を彼の胸元に押し返すように突き付けたのだが、それでも、手は離れなかった。
 一秒、二秒、何秒経ったろう。じっと見つめられているのはわかっていたのに、目を上げてしまった自分が悪い。俊恵がひたむきにこちらを見ている。この目玉を、ただのたんぱく質の塊を、まるで気に入りの宝石のように愛おしそうに見ないでくれ、と、願う。
「……俊」
 息苦しさに喘ぎながら名前を呼ぶと、陶酔していた彼の目に正気が戻り、志信は解放された。法衣の襟元を示すように撫で、俊恵が笑う。
「しぃちゃん、襟曲がってる」
「……やばい、いつからだろ」
 上手く笑い返せたかは自信がない。誤魔化すように今度こそ立ち上がり、志信は襟を整え、それから意味もなく膝を払った。
 背後の衣擦れの音から逃げるように、台所へ駆け込む。
 幼馴染みに恋などするものではない。
 わかっていて再びそばにいることを選んだ。それで手に入る少々の甘さと多量の苦味を選んだ――だから、全部受け入れなければならない。
 コンロの火にやかんをかけていると、ゆったりした足取りで俊恵が入ってくる。
「そういえば今朝、俊もアキさんとこ行ったんだって?」
 大丈夫、もういつものトーンで喋れる。
「アキさん、何か言ってた?」
「お前が結構気障だってことくらい」
「なにそれ」
「さあ」
「ほかには?」
「何も? 俺もすぐ出ちゃったし」
「そ」
 少し素っ気ない返事一つで、終了。テーブルに昼餉を広げるほうが大事なのだろう。志信が気分でしか米を炊かないことを知っている幼馴染みは、惣菜と一緒に必ず握り飯を持ってきてくれる。他にやることといえば、湯を沸かしてお茶を淹れることくらいだ。熱いほうじ茶を淹れて、遅めの昼食を始める。
 煮物や卵焼きなど、特別でないが懐かしく、間違いなくおいしい惣菜が並んでいる。空腹などまったく感じていなかったはずなのに、箸が止まらない。思い出してみるとここ数日、余ったクッキー以外ほとんど食べていなかったから、身体は栄養を欲していたのだろう。
「俺ね、今でも時々思い出すんだ」
 ふと呟く俊恵を、しょっぱめの卵焼きを噛み締めながら見返す。
「何を?」
「しぃちゃんに突然、引っ越すって言われた時のこと。突然、明日引っ越すんだ、って」
 口の中に広がる塩気が、ふわりと、当時の記憶と重なった。
「……言い出せなくてさ」
「顔色一つ変えないで、淡々としてた」
「泣いたらかっこ悪いって思ってただけ」
「俺は泣いたよね」
「うん。俺の分まで、号泣してた」
 中学一年生の夏休み、やっと決意して打ち明けられたのは、引っ越しの前日だった。訪ねた寺の、境内の裏、大きな木の陰。木漏れ日がきらきらと舞っていた。俊恵の背が伸び始め、二人の頭がもうすぐ並ぶところだった。泣きじゃくる俊恵を抱きしめて、本当は志信も少し泣いたのだ。
「あんなのは、もうやだな」
 俊恵が煮物のにんじんを摘まんで、口に放り込む。同じタッパーから、志信は椎茸を摘んだ。
「今のとこ、また引っ越す予定はないけど?」
「うん、もう絶対、離れたくない」
「はは、なに、急に」
「夏目木のおばあちゃんはさ、たぶん、ここを土地ごと売ってお金にしてもらえたらって思ってたんじゃないかな」
「そうだろうね」
「なのに、しぃちゃんは、ここに住んでくれたでしょ」
「うん」
 相続税もばかにならない。幼馴染みがいなければ、この家に住む理由の半分はなくなってしまうと思う。
「それが嬉しいんだ、俺」
「だから、急になんだよ」
「急に思っただけ」
 十二歳だった俊恵のてらいのない友情が、時を経て、今もまっすぐ届く。あの頃にはもうぼんやりと抱いていた感情は彼のそれと少し違っていて、時を経て今は、ずいぶんほろ苦く感じるものだった。

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