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1.
 甘い匂いが漂っている。バターと砂糖と卵と小麦粉に、バニラエッセンスを少し。それを混ぜてオーブンに入れるだけで簡単に手に入る、クッキーの焼ける匂いはこの世で有数の幸せの匂いだと思う。この匂いに包まれたまま眠るように死ねたら、どんなに素晴らしいだろう。下らないことを切実に考えながら、この酩酊にも似た状態がそう長くは続かないことにも気付いている。
 科学的な意味でなく自分の感受性において、匂いに比重があるならば、クッキーの焼ける匂いは重く下に溜まり、今鼻先をかすめた匂いはふわりと軽く天井へ消えていくようなイメージだ。
「――ぃちゃん」
 甘さのない、線香の燻った匂い。
「おーい」
 商売道具にふさわしい低く落ち着いた声を、美声と称える人もいるだろう。
「ねえ、しぃちゃん、てば」
 それが、こんな、子供っぽい口のきき方。
「――起きてるよ」
 志信(しのぶ)は観念して、目蓋を開けた。
 視界いっぱいに広がる、声の印象を裏切らない、人によってじゅうぶん端正に映る顔。心配そうに顰めていた眉根をくつろげて、彼は思い出の中のあどけなさが唯一残るその口調で、志信を叱った。
「しぃちゃん、またこんなとこで寝て」
「こんなとこって、一応、俺の家ですけど」
「そうじゃなくて。どこもかしこも開けっ放しで、畳に転がって」
「死んでるかと思った?」
 実際にこの家で第一発見者になった経験のある彼に対して、悪趣味な返事だったろう。しかし幼馴染みは、穏やかに微笑むだけだ。
「風邪引くでしょ?」
「風邪はともかく……蚊に刺されたかも」
 億劫な身体を起こしながら首元を掻くと、ここぞとばかりに小言が降ってくる。
「ほら、開けっ放しで寝てるから」
「かもね。もう秋だってのに」
 開け放った障子の向こう、見やった庭先の一角には、背の高い濃いピンクの花が方々を向いて咲いている。秋を象徴する、華奢な花だ。
「コスモス……育ててたのかな。俺、ガーデニングなんてやったことないよ」
「種が落ちるから、毎年勝手に同じところに咲くんじゃない?」
「勝手に?」
「そんな感じに見えるけど」
 不確かな答えでも構わなかった。この家に暮らし始めてまだ季節が一つ変わった程度の自分より、先の住人と懇意だった彼の方がよほど詳しいだろうから。
 うーん、と、伸びをして、幼馴染みを見上げる。
「俊、仕事帰り?」
「うん。法事が一件あってさ」
 墨染めの法衣を身に纏い、ぴんと背筋を伸ばして立つ俊恵(しゅんえ)は、菩提寺の副住職だ。宗派的に有髪が許されているのは知られているが、その長身や容姿とあいまって、どこかのドラマの登場人物のようにも見える。もちろん、彼は現実に代々菩提寺の住職を務める家の生まれで、ゆくゆくは父親の後を継いで住職になる身だが。
「どっから入った?」
「そこ」
 縁側を指差して俊恵が笑う。開けっ放しを注意しておいて、その開けっ放しの縁側から堂々と入ってくる、気安い訪問者だった。
「しぃちゃん、クッキー焦げないの?」
「大丈夫、タイマーかけてある」
「アキさんのとこの?」
「そう。それと、俺の分」
「まさか今日の食糧とか言う?」
「惜しい、明日の食糧」
「しぃちゃん」
「でも、気が変わった。一息ついてけよ、そのために寄ったんだろ?」
 計ったようにオーブンのタイマーが鳴った。
「アキさんからもらったコーヒーもある」
「おいしいやつ?」
「アキさんが淹れた時は、おいしかったんだけど」
 俊恵の小さな失笑を背中で聞きながら、台所に入る。オーブンの扉を開けて、そのまま少し熱風で乾燥させてから、金網に移して冷ます。お茶請けにはこの焼きたてでもいいし、先に冷ましておいた分も食べ頃になっているはずだ。
 自分の現在の職業は、一応、菓子職人ということになるのだろう。パティシエとかそういうきちんとしたものではないし、どこに勤めているわけでもない。この、小さな平屋の小さな台所で、毎日一人でできる分のクッキーだけを焼いている。
「無名工房(むめいこうぼう)」それが名前だ。売り場はない。カフェの片隅に置いてもらったり、人づてにオーダーをもらったりして、細々とやっている。開業から三ヶ月足らず、まだ軌道に乗ってきたとは言い難いが、貯金を切り崩す日々を厭わしいとは思わない。
 ふと、先ほどとは違う、はっきりした線香の匂いが立つ。
 俊恵が仏壇に手を合わせているのだろう。この春先に亡くなった祖母と、両親の結婚前には亡くなっていたという会ったこともない祖父をはじめ、自分にとっては父方の先祖に当たる人々が祀られている仏壇だ。
 一言で言うと、縁が薄かった。子供の頃は可愛がってもらっていたと思う。中学一年生の夏休みに両親が離婚し、この町を離れて以降、会ったのは父の葬儀と、祖母本人の葬儀でだけだった。
 俊恵と再会したのも、祖母の葬儀だ。
 聞けば、倒れていた祖母をたまたま訪ねた彼が発見して、救急車を呼んだのだと。長らく婦人会の役員を務め、菩提寺とは繋がりが深かったらしい。真冬に倒れてから春先に亡くなるまで、結局一度も病院から戻ることはできなかったそうだ。全て住職や俊恵、それに生前祖母と親しかった人達から聞いた話で、志信にとって祖母は、優しかったことは憶えているが特別心に刻まれるような思い出はなく、それが少し後ろめたくもあった。
 はっと物思いから立ち返る。いつの間にか、俊恵が隣に立ってこちらを覗き込んでいる。
「――俊、なに?」
「うん? 見てただけ」
「ああ、目? 好きだね……」
「きれいなんだもん」
 比べるべくもないが、志信の目玉より、彼の左手にある石ほうがよほど美しい。翡翠を繋いだ愛用の数珠を袂に入れて、俊恵は勝手知ったる動作でドリッパーの準備を始める。
「しぃちゃん、コーヒーってこれ?」
 戸棚の中の、大体の配置も承知の男だ。
「なあ、そのしぃちゃんって、やめない?」
「なんで?」
「この歳でさ、恥ずかしいって」
 まだ彼が志信より背が低く華奢で、女の子と見紛うようだった子供時代ならまだしも。
「そうかな」
「そうだよ。お前ばっか、こんなでっかくなりやがって」
「なんだよ、それ」
 拗ねたように尖らせた俊恵の口元にクッキーを一枚押し込むと、サク、歯を立てて割るので、こちら側に残った半分は自分の口に入れる。束の間、シャクシャクと無言の咀嚼が行われる。
「――んまい」
 余計なものは何も入れない、プレーンクッキーが一番好きだ。しっとりした歯触りより、こんがり焼けて、少し硬いくらいがいい。
「子供の頃、しぃちゃんが作ってくれたやつと同じ味がするよね」
「これでも少しは上達したと思ってるんだけど」
「そういう意味じゃないって。素直じゃないんだから」
 このクッキーがノスタルジーの結晶なのだと、打ち明けたこともないのにどうしてわかってしまうのだろう。その多くを共有しているからか、昔からよく志信のことを見ていたからか。一緒に過ごした時間より離れていた時間のほうが長いというのに、幼馴染みというのは不思議な存在だ。

 祖母が一人暮らしをしていた家は、決して広すぎるようなことはなかったが、長閑な雰囲気もあいまって人気のない静けさを強く感じる。今日のように俊恵が顔を出した日の夜などは、特に。
 残業続きの日々と決別してみれば、夜は長く、時折それを持て余すほどだ。
 虫の音を聞きながら、風呂上りの自分をまじまじと見ている。自惚れるようなものは何も持たない、母似の顔と、170センチ少しの身長と、50キロ少しの体重。こんなものをわざわざ鏡で見るのは、ただの確認作業だ。身体にいくつか、うっすらと痣ができている。知らない間――正しくは、寝ている間にできる痣だ。無意識に部屋の中を移動したり、その拍子にぶつけたりしてできるのだと思う。夢遊病的な症状とは、社会人になってからずっと付き合っている。一番酷い時には寝相の悪さだけに留まらず、深夜にカップ麺やパンなど手当たり次第食べ、それをトイレで嘔吐していたこともあった。翌朝になって吐瀉物のへばりついた便器を見て、自分の所業を知るのだ。今は憶えのない痣や筋肉痛が時々あるくらいで済んでいるのだから、症状はずいぶん軽くなった。
 逃げ込むように、この町へ戻ってきたけれど。
 両親の離婚によって母の郷里へ移り、高校卒業までをそこで過ごした。東京の大学へ進学し、そのまま東京の企業へ就職して、三十歳が定年と言われるシステムエンジニアになった。噂に違わぬ激務に、二十七歳の誕生日を迎える頃には、ついに心身共に限界を迎えた。通勤電車に飛び込みたい衝動に、何度駆られたかわからない。あと一週間、あと一ヶ月、あと一年、と辛抱したせいで、あらゆる症状を悪化させていた。睡眠障害、摂食障害、不安障害――などなど。
 高校生の頃、通勤中に心筋梗塞を起こして他界した父。社会人一年目に、検診で見つかった腫瘍の精密検査のために入院し、そのまま急逝した母。多忙のせいで友達付き合いや恋愛も年々ままならなくなっていた。よるべのない自分にとって、仕事は最後に掴んでいた藁のようなものだったが、その藁を掴む力さえなくなってしまったのだ。退職願を書き終えた瞬間が、一番孤独だったように思う。
 休養と、数種類の薬剤、その両方が同時に必要だったのだと、回復していく心身が証明していた。自分の人生を見つめ直すという表現はあながち大袈裟でなく、好きなことは仕事にしないと決めて諦めた菓子作りを、生業にできないかと考えるようになっていた。専門学校に通い直している間も、だから、焦燥感はあまりなかった。いや、そんな晴れやかなものではなく、どうなっても構わないという自暴自棄な気持ちだっただけかもしれない。
 そして春先に届いた、疎遠だった祖母の訃報。
 駆けつけた志信に、正装で現れた若い僧侶は一目で気付いた。
 異様なほど絵になるその僧侶が、少女のようだった体格も声も顔立ちもすっかり精悍に成長した幼馴染みだと受け入れるのに、志信にはじゅうぶんな目瞬きと呼吸が必要だった。
 昔から、そして今も、幼馴染みは志信のことをよく見ている。この目の色に気付いたのも、母のほかには後にも先にも俊恵だけだ。志信の目は、左右で色が違う。こうやって自分で鏡を見ても、光の加減でどうとでも見えるくらい、ほんの僅かな違いだ。どちらも大別すればごく日本人的な褐色なのだが、右目のほうがやや色が薄く、コントラストが低かった。
 好奇心旺盛だったあの頃ならともかく、奇跡でも魔法でもなく単なる遺伝子異常の一つだとわかりきった今でも、幼馴染みにとっては変わらずこれがお気に入りらしい。その他愛のなさがくすぐったくもあり、救いでもあり、少しだけ残酷でもあった。

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