Novel >  ベイビー、ベイビー >  ビコーズアイラブユー6

6.

 転勤から三年ほど、つまりこの街に住んで三年ほど経つが、単に居住しているというだけのことで、摂にとって休日は、観光名所を積極的に回るために与えられたものではなかった。住んでしまえば日常生活の舞台となり、非日常の代表格でもある観光とは、却って無縁になるのだろう。姉が持参したガイドブックの中で、名所・旧跡、動物園や水族館は、自分自身でもほとんど行ったことがない。動物園ならひかるを連れて来なきゃねと、いつもの調子で言いそうになり、内心慌てて口をつぐむ。
 姉としても、興味のほとんどは巨大な商業施設や郷土料理にあるらしく、それらをメインに打ち出したガイドブックが示すとおり、物欲と食欲を追いかけるのが、この都市の正しい遊び方というやつだった。
「あ、でもお城は見たいな」
「んー、入場料500円、だって」
「遠いの?」
「いや、そんなことないよ。市内」
「せっちゃんは?お城、行った?」
「行ってない」
「じゃあ、見とかなきゃ。決定」
 さくらのゴーサインに従って、車を発進させる。営業という仕事柄もあるが、市内に限らず土地勘があるのが、せめてもの救いだった。ツアーガイドとしてはガイドブック以下なのだから、運転手としての働きくらいは、せめて認めてもらわないと。

 

 思いがけず観光の機会に恵まれたのは、むしろ、さくらよりも自分のほうだったかもしれない。彼女が来なかったとしたら、この先もおそらく、少なくとも城を見に行くことはなかっただろうし。もっとも、物事を楽しむ才能は姉のほうがより上だから、結果的にはやはり、姉に引っ張られてあちこち案内させられた、ということにはなるけれど。
 夕食を外で済ませ、マンションに戻る。
 キャリーバッグの中身を整理したり、物珍しそうにローカル天気予報を見ていたさくらに、ひとまず風呂を使ってもらうことにする。バスルームのドア一つ隔てると、知らず、ため息が出た。
 長く一緒にいたからといって、気詰まりになるような姉弟仲ではない。それでもほっと一息ついているのは、今朝電話を受けた時の緊張感が、どこかで途切れずにいたからかもしれない。いや、そんなに漠然としたことではなく、片付けを任せて慌ただしく出発して以降、メール一通もまともに入れられなかったノアのことを、ひと時考える余裕が生まれたからだろうか。
 寝室に入り、丁寧に伸ばされたシーツを撫でる。
 今夜はさくらが使うベッドになるのだ、シーツは換えなければならないと考えながらも、右手は携帯電話を操作し始めていた。
 部屋を片付けてくれたことへのお礼、姉と無事に合流したこと、今日一日の観光概要、それから今、まるで目を盗むようにしてメールを打っていること。それらを全て盛り込んだら、ずいぶん長文メールになってしまった。時間をかけて打ったメールを、あと少し時間をかけて推敲し、送信ボタンを押す。チカチカと点滅し、「送信完了」の文字。
 摂は立ち上がり、今度こそシーツをめくり上げた。
 波打ったシーツから跳ね上がった何かが、音もなく滑り、カチャリと小さな音を立てて落ちる。
「ん?」
 屈んで拾い上げたそれは、チェーンの付いた十字架だった。
 摂の物ではない。ノアが肌身離さず着けている、アクセサリーではなく信仰の象徴であるクロスだ。プロテスタントらしい飾り気の少ない造形、象牙で作られたのだろうそれは、手のひらの上で乳白色に優しく光る。
 ノアは不良信徒を自称するものの、その根拠であるセクシャリティー、要するに摂を恋人に持つという重大な一点を除けば、敬虔なクリスチャンなのだと思う。二つは本来相容れるものではなく、摂がベッドの中でノアに十字架を外させる理由がまさに、使用済みシーツとクロスの対比から生じるような類の感情を遠ざけるためだった。
 ただ、そのことと、彼の忘れ物を愛おしく思うこととは、どうしたって別問題だから。
 ――不意に響いた携帯電話の着信音に、緩んだ唇が引き締まる。開いたメールが紛れもなくノアからの返信だとわかれば、またすぐ、唇は緩むのだが。
 返信メールは簡潔で、ほとんどが摂への労いの言葉だった。まあ、あのメールには、大変だったね、くらいしか返せないだろうとは自分でも思う。それに、配慮に溢れた言い回しで、さくらの来訪の理由をそれとなく気遣ってくれてもいる。文末には、クロスを見つけたら確保しておいてほしいという依頼も添えられていた。
 数回メールを行き来させている間に、バスルームから物音がする。さくらがそろそろ出てくるかもしれない。摂は「またメールする」と打ったメールを送り、シーツを丸めた。ヘッドボードに取り残された、ゴムのパッケージも隠匿しないと。

 

 風呂上りの、化粧っ気のない姉のほうが、弟にとっては見慣れたものだ。摂も実年齢より上に見られることはまずないが、姉のそれは輪をかけているだろう。
「きれいにしてるね」
 寝室を見回したさくらが、にっこりと笑って振り返る。
「あんまりチェックしないでよ」
 苦笑しながら摂が言うと、途端に悪戯っぽく目を輝かせるのだがら、似た者姉弟とわかっていても性質が悪いと思わずにはいられない。
「…ねえ、さくらちゃん」
「なーに」
「英介さんから電話あった?」
「知らない。電源切ってあるから」
 頷くしかない、明快な返答だった。
「そろそろ、心配になる時間だよね」
「そうだね」
 さくらは浅くベッドに腰掛けて、摂から顔を背けるためか時刻を確認するためか、時計を見たままそれだけ答える。両脚をぶらぶらと揺らしている彼女に、横目で動きを窺われているのには気づいていた。
「…せっちゃん?」
 不安げな、そして咎めるような呼びかけ。
「うん、英介さんにかけてるよ?」
 アドレス帳から番号を拾い、通話ボタンを押す。
「俺は同情的なんだってば、英介さんにも」
 コール音を聞きながら笑いかけると、
「…そうだった」
 頬を膨らませたさくらに睨まれた。
 プツリとコール音が切れ、電話が繋がる。久しぶりに聞く義兄の声は、いつもの落ち着いたトーンではなかった。
『せっちゃん?もしかしてさくら、行ってる?』
「あ、よくわかったね」
 らしくない性急な言い方と、その後の深いため息が、英介の困惑をよく表している。
『総当りで、はずれ続きだったからさ…あとは、せっちゃんくらいだと思ってたとこ。まさか、そっちに行くとはなあ』
「俺だってまさか、だよ」
 闇雲に妻の居場所を捜していたらしいとわかるせりふだ。本人以外の誰にとってもまさかの展開なのだから、それも仕方ないだろう。
『それで、さくら、そこにいるの?』
「いるけど。何話すか決まってないなら…ってゆうか、わかってないなら、このまま切った方がいいのかなあとは思ってる」
 何も、無理やり話し合いをさせるつもりでいるわけではない。というより、今が話し合いのタイミングなのかどうか、摂にはわからない。居場所くらい知らせておいてもいいだろうというだけのことで、事実、英介にとっては必要な情報だったろうと思う。
 摂の言葉の裏にある思いを、聡明な義兄はじゅうぶん察してくれたようだ。
『…悪いね、間に入ってもらっちゃって』
「弟だからね。さくらちゃんと、英介さんの」
『自慢の弟だよ――少しでいいから、代わってもらえないかな?』
「それは、さくらちゃん次第かなあ」
 英介の失笑を聞きながら、携帯電話をさくらに差し出す。
「はい。出るのも、切るのも、任せるよ」
 ありがと、と口の中で言って、握った機体を少しの間見つめて。さくらはゆっくりと、携帯電話を耳に近づけた。

 

 寝室に姉を残して、リビングに戻る。
 ソファーに身体を沈め、ポケットから出したクロスを軽く握り、弄ぶ。二人はずいぶん長い間話していた。

 

 カーテン越しの明るい光と、トーストの匂いに刺激される。匂いに誘われて空腹感が沸き、日曜の朝になんて健全な目覚めだろうと思いながら、身体を起こした。前日の寝不足もあって、ソファーの上でも熟睡していたらしい。
 見やったカウンターの向こうには、さくらの姿がある。目覚めた摂に気づき、顔を上げて笑った。
「おはよ」
「おはよ…いいのに、そんなことしなくても」
 寝返りに苦労したせいか、背中が少し凝っているが、気分は良い。
「これくらいさせてよ。宿泊代の代わりにもならないけど」
「…ほんとに今日帰るの?もう一泊くらいしてけばいいのに」
「英介とおんなじこと言うなあ」
 水道のレバーを上ると、勢いよく水音が立つ。
 結局姉は、今日東京に戻ることに決めたらしい。どうやら英介は、摂と同じくもう一泊くらいと勧めたらしいのだが、同じく、さくらの考えを変えることはできなかったようだ。
「でも結局、単なる週末の小旅行になっちゃった」
「それはそれで、いいんじゃない?たまにはリフレッシュしなきゃ」
「そうだね。せっちゃん、顔洗ったら、ごはんね」
 カウンター越しに出された皿をテーブルに乗せたところで、この歳ではそうそう言われない言葉がかけられる。ひかるになった気分で、はーい、と返事をして、摂は洗面所に向かった。
 朝食のメニューはありふれたものだが、作り手が変われば出来上がりも変わるものだ。バターを染み込ませて焼いたトーストは、実家の味というやつ。半熟のハムエッグ、キャビネットの中から見つけたのだろうオリーブオイルは、酢と塩と合わせて、レタスに和えられている。それから、ティーバッグを煮出したのだと言うミルクティー。冷蔵庫の中から、ママレードの瓶も見つけたらしい。これだけのメニューができたのだから、冷蔵庫も戸棚もガラガラになっているはずだ。
「ねえ、せっちゃん」
「なに?」
 ママレードの冷たい瓶を取った摂に、さくらが首を傾げる。
「ママレード、食べるようになったんだね」
 言われたことの意味がわからなかったわけではない。言われたほうにだけ意味がある一つの事実に思い至り、一瞬絶句してしまったのだ。
「子供の頃、嫌いだったでしょ?苦いからって」
「その、苦いのがいいんだって。俺の味覚も、少しは大人になったってことじゃない?」
「やーだ、そっかあ、大人、か」
 鼻歌のようなリズムで笑いながら、さくらは蓋を外したママレードを摂から受け取った。
 子供の頃、ママレードの苦味が嫌いだった。成長してからも敢えてジャムの中からそれを選ぶことはなく、ママレードの好きな男と朝食を共にする関係にならなければ、今だって冷蔵庫に入っていることはなかっただろう。
 さくらがひと匙すくい、次に、摂がひと匙すくってトーストに塗る。
「たまたまだよ」
「ん?」
「ママレード。安かったから」
「うんうん、そういう選択も、大人よ」
 トーストの角を一口齧ると、バターの甘味と、ジャムの酸味と苦味が広がる。
「…それで?今日はどこ行くの?」
 夕方まではまだ、ツアーガイドの任を解かれたわけではない。摂の問いかけに、さくらは楽しげに候補地を挙げ始めた。

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