Novel >  ベイビー、ベイビー >  ビコーズアイラブユー5

5.

 五分でシャワーを浴びて、二分で着替える。車のキーを引ったくり、携帯電話を尻ポケットにねじ込み、サンダルに片足を通したところで気づく。
「あ」
 振り返ると、首を傾げたノアが待ち構えるように立っていた。手をぱたぱた動かすだけでは、さすがの彼にも伝わらない。
「財布財布、財布忘れた」
「はいはい」
 回れ右の第一歩を大股に踏み出した背中に、置きっぱなしの鞄の在り処を教える。
「テーブルんとこ」
「OK」
 ややあって、抜群のコントロールで財布が放られる。キャッチまでが完璧に計算された、ゆるやかな動線だ。
「さんきゅー」
 財布より遅れて戻って来たノアが、摂の襟元に手を伸ばし、ポロシャツのボタンを留めはじめる。
「――はい。気をつけて行ってらっしゃい」
 揶揄う表情ではないが、だからといって揶揄でないとは言い切れない、幼稚園のお見送りみたいせりふ。免許不携帯のまま出発しようとしたのだから、反論もできないけれど。
「じゃあ、あとお願いね」
「努力するよ」
 鷹揚に笑いながら屈み込んだノアの、頬へ、それから唇へキスをして、摂は家を出た。

 

 駅前の駐車場に車を止め、足早にコンコースへ向かう。
 大都市の一つとして数え上げられる地方都市の、ターミナル駅のコンコースは広く、人も多い。携帯電話を鳴らした方が早いだろうかと思いながらしばらく歩いていると、新幹線の改札を出てすぐの位置に、それらしい人影が見える。髪の色の明るさ、肌の色の白さの配合が、ちょうど自分と同じような加減の人物。相手もまた、気づいたらしい。そして、気づいてから確信するまで、摂よりも早かった。背伸びをしながら、大きく手を振る。
「せっちゃん」
 小ぶりのキャリーバッグを転がし、ワンピースの裾を揺らしながら、さくらが駆け寄って来る。伸ばされた腕が摂の背中を抱き、頬と頬が触れ合う。三分の一の血がそうさせるらしい、自分たち姉弟は、当たり前のように再会のハグをする関係だった。
「久しぶり」
「うん。さくらちゃん、髪の毛いつ切ったの?最初わかんなかったよ」
 知らず知らず、長い髪の女性を探していたせいで、姉だと確信するのが遅れたのだ。
「四月に、ショートにしたのよ。やっとここまで伸びたんだ」
「似合ってる、けど意外」
「ありがと。新鮮でしょ?」
 顎まででばっさり切りそろえられたショートボブを、軽く手で払うような仕草をして、明るく笑う。子供の頃から、少なくとも摂の記憶にある間ずっと、長い髪がトレードマークですらあった姉だ。こんなに短い髪を見るのは初めてかもしれない。
「せっちゃん寝てた?」
「そりゃ寝てたよ。何時だと思ってんの」
「もう八時過ぎてたもん」
「俺には早いの、八時は」
 少女っぽく頬を膨らませる姉から、キャリーバッグの持ち手を引き取る。
「ひかるは?」
 表情や仕草が少女のようでも、この姉には小学生になったばかりの息子がいる。フルネームは、北澤ひかる。育ち盛りの怪獣との聞こえも高い、姉と姉の夫にとっての一人息子は、摂にとってもたった一人の可愛い甥である。
「おうちにいるよ。今頃テレビ見放題で、元気いっぱいだと思うな」
「なんだ残念。置いてきちゃって、平気なの?」
「置いてきたわけじゃないの。ひかるも、作戦本部の一員なんだから」
 わずかに目尻を吊り上げて、さくらが言い放ったのは。つまり今、彼女がこうして奇襲のような形で弟の住む土地を訪れていることが、何かしらの作戦行動の一環であるという事実だろう。
「…さくらちゃん」
「なーに?」
 反抗を許さない満面の笑み、これは、自分が得意とする表情でもある。血は争えない上に、姉と争ったところで勝てるわけもないというわけ。摂は小さくため息を吐き、キャリーバッグを持ち上げた。
「とりあえず、どっかで朝飯食べていい?」

 

 駅内のコーヒーショップで、紅茶とマフィンの朝食を摂る。さくらがホイップクリームをトッピングしたカフェモカを飲みながら、あれこれ近況を尋ねてくるので、一つずつ答える。さくらに対して尋ねるべきことは色々あるのだが、ここでの目的にそれは含まれないので、回答役に徹することにした。
 三十分ほどで駅を出て、助手席に姉を乗せた車でマンションに戻る。
 エントランスを抜け、エレベーターで三階へ。
「良い所だね」
「そう?」
「静かだし」
「ああ、確かに、それはそう」
 ドアに鍵を挿し込み、回すと、しっかりとした手ごたえと音を伴って、錠が開いた。
 劇的な朝寝の幕切れから、一時間も経っていない。玄関からは、無人のリビングが続いていた。
「ここが、せっちゃんのおうちかあ」
「狭いところですが」
「一人には広すぎるくらいじゃない」
「はは、うん、そうなんだよね」
 かと言って狭いワンルームには馴染めないのは、生まれ育ちを同じくするさくらにしても一緒だろう。そう思いながら苦笑すると、ちらりと横目で見上げられた。
「一人だった?」
「一人だったよ」
 部屋を見回す姉の後姿を確認しつつ、ダイニングテーブルに目を移す。ピザの空き箱は、きちんと片付けられている。キッチンへまわって、やかんを火にかけながらシンクを見ると、そこにあったはずの二本の空き缶も既になく、洗ったあと潰してくれたみたいだ。ワゴンの陰にあるビニール袋の中に、ビールの空き缶が入っているのを見つけた。
 カウンター越しに見たリビングは、ソファーのクッションが奇妙に等間隔に並んでいたり、ローテーブルに出しっぱなしのノートパソコンと雑誌が几帳面に端を揃えて整頓されている。努力する、と請け負ったノアの、確かに彼なりの努力の跡が見えるようだった。
 再びさくらの後姿を確認して、さりげなく洗面所へ。偶然にして幸運にも、思い出したのだ。洗面所の歯ブラシの存在を。制限時間ありの緊急ミッションで、そこまでノアに期待してはいけないだろう。案の定、歯ブラシ立てに並んでいた二本の歯ブラシのうち、一本を収納棚の中へ避難させる。
 キッチンへ戻り、ワゴンの引き出しからティーバッグの箱を取り出す。
「さくらちゃん、座ってて」
 立ったままのさくらに椅子を勧めたのだが、姉はそこから離れて、カウンターに近づいてくる。
「お茶淹れるから、お客さんは座ってよ」
「ありがと。あのね、せっちゃん」
「何?」
「しばらくお世話になります」
 深々と、お辞儀。あー…と、意味もなく発声しながら、摂は落ちた前髪をかき上げた。
「…ちゃんと話してくれる?」
「うん」
 もう一度手振りでさくらを座らせ、紅茶を淹れてからキッチンを出る。カップを置き、摂が向かいに座ると、促すより先にさくらが口を開いた。
「せっちゃん怒ってる?」
「俺がさくらちゃんを怒ったこと、ある?」
 ほっとしたように、姉が微笑する。立場が逆でも、おそらく同じ応酬になるはずの自分達だ。
「ひかる、英介(えいすけ)さんが見てるの?」
「反対。ひかるが英介を見てるの」
「まあ、確かにそっちのほうが合ってるかもしれないけど」
 他人のことをとやかく言えたものではないが、超多忙なビジネスマンである義兄の、家庭人としての点数は低い。
「心配なんだけどな、俺は。さくらちゃんのことも、英介さんのことも、ひかるのことも。なんで家出なんかしたの。夫婦喧嘩?」
「喧嘩なんかじゃないよ、きっと。わたしが勝手に怒ってるだけ」
 さくらは頬杖を突いて、ふい、と空中を睨む。当事者間で問題点が明確になっていないケースのほうが、大抵、こじれるのではないだろうか。摂はため息を殺して、熱い紅茶を啜った。
「何に怒ってるわけ?」
「ひかるが、小学校に上がったじゃない?」
「ああ、うん」
「だからね、働こうかなって、言ってみただけなのよ。わたし、就職して一年ちょっとで英介と結婚して、海外赴任について行って、ひかる産んで、戻ってきて、子育てして…全然キャリアがないことくらいわかってるの。せっちゃんだって、今、無理だって思ったでしょ?」
「んー、そんなことないけど」
「嘘、思った」
 学生時代に婚約した恋人と、社会勉強程度に会社勤めをしてすぐに結婚し、以来専業主婦の姉ではあるが。むきになって決め付けるのは、その先の展開を明かしているようなものだ。
「てゆーか、英介さんに言われたんだ?」
「言われた。「さくらには無理」って」
 そこだけ声色を使って言うから、義兄のそれと似ても似つかないトーンに、思わず笑ってしまった。摂は頬杖をやめたさくらの代わりに、テーブルに肘を突いて、手首に顎を乗せる。
「不安なんだよ、英介さん」
「わかってるよ…。でもこの場合、一番不安なのは、わたし自身だもん」
「応援して欲しかったってこと?」
「違うの。そうじゃなくて、そのあと英介、何て言ったと思う?」
「…声色はもう変えなくていいからね」
 摂に釘を刺さされ、心外そうな顔をしたということは、そのつもりだったのか。さくらは唇を尖らせたまま、それでも摂の希望を聞き入れてくれた。
「仕事なんてしなくたって、さくらはひかるのママなんだから。って、言ったんだよね」
 そこで言葉を切り、カップを摘み上げて一口紅茶を啜る。
「これって結構、禁句。せっちゃんも憶えといたほうがいいよ」
 義兄の身代わりとなって姉に睨まれながら、摂は両手を小さく上げた。
「わたしがひかるのママなら、英介はパパなんだから。そうでしょ?」
「Yes,そうだよね。ひかるには、何て言って出てきたの?」
「ママは、しばらくママを休みするねって。ママの代わりがどれだけ大変か、パパに教える作戦だからねって」
「ひかるは?何て答えたの?」
「わかった、って」
「ほんとにわかってるのかなあ、それ」
 甥の天真爛漫な笑顔を思い浮かべる。幼い彼が本当に理解しているかは、実に疑わしい。
「…せっちゃん、やっぱり怒ってる?」
「怒ってないって。それで、英介さんにはもちろん、何にも言ってないんでしょ?」
「夜になってもわたしが戻らないのに気づけば、少しは慌てるかも」
 頷くさくらの顔は、悲観とか悲壮とは無縁の、鮮やかな笑みに彩られている。この顔の姉には、誰も、夫であろうが弟であろうが、簡単に逆らうことはできない。家出した姉を匿う自分もまた、彼女にとって作戦部隊の一員なのだろうと思う。その理解とは別に、唇から苦笑に混ざって本音が漏れるのも、事実なのだけれど。
「俺は同情するけどなあ、英介さんにも」
「せっちゃんもやっぱり、奥さんには家にいてほしいと思う?」
「――さあ。結婚したことないから」
 この手の話題は、あっさり肩でもすくめてやり過ごすのがベター。
 さくらも同じように肩をすくめて、それからふと、足元のキャリーバッグに屈み込んだ。下から少しくぐもった声がする。
「…突然になっちゃったけど。前からずっと、せっちゃんのところに遊びに行きたいと思ってたのは、ほんとなんだよ」
「うん」
「だから」
 上体を戻したさくらは、キャンペーンガールのような手つきで、観光ガイド誌の表紙を摂に向けた。
「案内よろしくね」

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