Novel >  ベイビー、ベイビー >  ビコーズアイラブユー4

4.

 冷めたピザを食べ終え、飲みきれなかったビールはノアに引き受けてもらう。重みを計るように缶を揺すって、それから口元へ運び、彼は缶底に残った少量の液体を一度に飲み干した。
 バスルームの使用権を先に譲り、その間にノートパソコンを起動する。見つかればワーカホリックとの謗りは免れないので、エクセルファイル一つ開くのにも彼の目を盗む必要があるのだった。
 ノアの風呂は長くも短くもなく、目的に応じた時間だけをかけて出てくる。毛先からつま先まで、洗い立てるための時間だ。入れ替わりに風呂へ入り、彼より多少長くかかったかもしれない、軽く水気を拭き取った身体にバスローブを引っ掛けてリビングへ戻る。寛いだ姿勢でソファーに寄りかかったノアは、テレビに向けていた顔をこちらへ向けると、顎を逸らした挑発的な角度で笑った。隣のスペースに身体を沈め、硬く張った彼の肩に、濡れ髪に構わず頭を預ける。特に苦情はない。
「で、どこまで話したっけ?」
「ん?」
 面食らった顔のノアが何か言うより先に、自分で思い出す。マルゲリータの美味しい店の紹介が終わったところまでだ。本題はそこから、と、リモコンでテレビの音量を下げる。それを横から奪ったノアが音量ボタンでなく電源ボタンを押し、部屋には自分の声とノアの相槌しか聞こえなくなった。
 整理して話してみると、案外、あっさりしたものだった。
 礼儀的ですらあるありがちな憶測を、彼女が否定しなかったのが発端であること。いや、発端というなら憶測そのものだろうが、彼女が否定しなかったことによって、展開が変化したこと。噂話の中の曖昧な要素というのは放っておいても、経過とともに淘汰されるか、それに似つかわしい、より具体性のあるエピソードに進化するかのどちらかである。後者の現象がつまり尾ひれがつくというやつで、家まで送ったとか、朝帰りをしたとか、見てきたように囁かれていたというわけだ。
 彼女とその恋人の関係は、これはあくまで憶測だが、現在そう順調ではないのかもしれない。事実はいくつか知ることができたが、実際のところ、安斎の真意はやはり掴みきれないでいる。もちろん、これ以上考察しようとは思わない。噂に関して彼女の意思が働いたのはきっかけの一瞬だけで、今もう糸の切れた凧のようでしかないのだし。この先彼女の期待した効果があるのか、もしくは既にあったのかもしれないが、摂はそれらを神に預けてしまうことにした。
「人の噂も七十五日って言うでしょ?」
「先人の言葉ですね」
「誰が言ったか知ってる?」
 穏やかな微笑の振動が、触れた肩や腕から伝わってくる。
「古典は専門外なので。摂は知ってるの?」
「知ってたら先に言ってる。あ、イエス・キリストじゃない?」
 やれやれ、とでも言うように、くるりと黒目を回しただけで、ノアは何も言わなかった。どんな偉大な先人の言葉かは知らないが、噂どころか事実だって、時間が経てば色褪せ忘れられていくものだから。些細なゴシップ一つなら、七十五日も必要ないだろう。
 摂の肩口を、リズムを取るようにゆっくり撫でていた大きな手が、動きを変え、髪の隙間をくぐって頬を撫で始める。横目に見上げると、漆黒の瞳がライトの光を柔らかく湛えていた。
「拍子抜けしたんじゃない?」
「んー…ちょっと自意識過剰だった部分は、あるかもしれない」
 揶揄する問いかけに、思わず考え込み、口をついたのは自分を省みる言葉だ。すぐに、そーりぃ、と謝罪が届く。
「出来の悪い冗談でした」
 摂が冗談に冗談を返さなかったことを、自分自身の責任と感じたらしい。そうではないと首を振り、ノアの背中に腕を回した。
「そうじゃなくてさ。意外な話もあったけど、でも、それ聞いてて、俺も同じようなこと考えてたなって思ったから」
「どんなこと?」
「ちょうどいいって、思わなかったわけじゃなかった」
「何に、ちょうどいいって?」
 有能な利き手は、摂の言葉を正確に理解し、的確な相槌を打つ。
「俺たちを、守るのに」
 カモフラージュが必要だったと、彼女の言葉がどの程度真剣だったかは疑問だが、摂もまたそう深刻でないレベルで、同じようなことを考えていた。
 隠すことは、守ることだ。自分達を守り、それ以外の大切な人達を守るのにも有効だと、摂は信じている。
「そう…そうかもしれないね」
 深いため息と、深い共感の波動。逞しい腕に抱き寄せられ、摂はゆっくり目を瞑った。
 見事に通った鼻筋に、自分の鼻を擦りつける。唇を寄せ、重ね、吸う。湿った音の合い間から、高くかすれた声が漏れた。
「…ね、ベッド行こ」
 早々と風呂を済ませた理由なんて、一つしかない。長い夜を手に入れるためだ。

 

 ノアがベッドに乗り上げると、そのずっしりとした重みを喜ぶように、一際大きくマットレスが沈む。摂の身体を起こしたり転がしたり、キスの片手間に腕力で易々と扱うくせに、バスローブを脱がせる手つきだけばかに丁寧。
「ノア、すいぶん焼けたね」
 近づいてくる彼の頬を撫でながら言うと、
「誰が妬かせたの?」
 真面目に答えるから笑ってしまう。
「…もう、違うよ、日焼け。こんがりしちゃって、どうしたの?」
 少し見ない間に、本来アイボリーに近い肌色が健康的に焼けていることには、最初から気づいていたけれど。
「ああ、体育祭があったから。言ってなかったっけ?」
「聞いたかも」
「これでもだいぶ、落ち着いてきたんだけどね」
 褐色に焼けた腕は、二の腕の真ん中あたりから抜けるように白くなる。首筋も、同じくその健康的な色合いのおかげで、いつも以上に引き締まって見える。少し目線を滑り落とせば、しかし、胸元は太陽を知らない色を保っている。艶かしい、象牙色だ。体育祭は晴天に恵まれたようで、日焼け止めなんて概念を知らない身体は、服に隠れた部分とそうでなかった部分できれいに色を分けていた。彼の全裸を目の前にすると、そのコントラストがひどく扇情的に感じる。
 ノアの手が首の後ろに入り、慎重に、枕の上に乗せられる。
「どう?まだ痛みますか?」
「…言われるまで忘れてた」
「痛まないってこと?」
「んー、痛むと思い出すってかんじかな」
 整った顔が破顔して、離れて行こうとするから、摂は強引にそれを引き止めた。
「へいき、もうほとんど治ってるから。ドクターのお墨付きだよ?」
「OK、わかった、わかりました」
 背中を丸めて慌てた声を出すのは、引き止める手段が少々強引だったからだろう。無防備に宙に垂れていたパーツをいきなり握られ、先端を指先でくすぐられた男の反応としては、冷静すぎるくらいだ。そのまま悪戯を続けてやると、ため息が漏れ、手の中の生き物が硬くなる。
「摂…」
 形勢はさりげなく、逆転した。
 広い胸に包まれて、一瞬、世界の角度を見失う。背中を滑り降りた手が尻を揉みほぐし、長い指で間を広げるようにして、入念に洗った場所をつつく。
「あ…」
 額を強く押し付けた胸は、それくらいのことでは微動だにしない。少し腿を開いていざなうと、指先が摂の中に侵入してきた。
「っ…あ…ん」
 目をぎゅっと閉じ、指先の通過を堪えると、あとは押し進むようなせり上がるような熱に支配される。横抱きにされたまま中を愛され、久しぶりの感覚に震えた。
「んっ…」
「痛くない?」
 首のことではないだろう。気遣わしげなテノールに、まるでヴァージンに戻ったような気分にさせられる。答える代わりにキスをしてねだると、従順な指先が摂の中でくねる。応じるように、ノアへの愛撫を強める。勃起したそれの先端から、一筋伝うのがわかった。
「――ノア」
「うん」
 ノアの指が去り、改めてベッドに押し付けられる。くちゃくちゃになった前髪をかき上げられ、額が涼しくなった。ヘッドボードの引き出しから取り出したコンドームの、一つめは開封に失敗したみたい。二つめを装着し、三つめを摂に被せると、儀式のような恭しさで、ノアのペニスがあてがわれた。冷たいジェルをまとった熱い塊が、ゆっくり沈み込む。それが迫り来るごとに、泣いているみたいな鼻声が漏れる。最大の質量と熱量が充填されると、妙に可笑しい気分になった。
 んふふ、と笑う摂に、ノアが首を傾げる。
「何ですか?」
「だって、最近ずっと、おあずけだったからさ」
 つまり、その反動としか言えない状態に、自分達は導かれている。
「もどかしいのも、たまにはよかったでしょう」
 そんなふうに、憎たらしい顔をして揶揄うけど。
「たまにならね。永遠にもどかしいままだったら、気が変になってたかも」
「…今だって、変になりそうだよ」
 汗ばんだ肌、脈打つ雄、冷静なポーズは一瞬で、切ない声で恋人が訴える。
「手加減したら許さない…」
 アイウォンチュベイビー、囁くのならタイミングは今しかない。
 脚を抱え上げられる。
 強烈なバックスイング。次の瞬間高く突き上げられて、重力が崩れた。

 

 情欲がかすんで見えなくなるまで、競技のように真剣なセックスや、詩を読み合うようなオーラルコミュニケーションに興じていた。長い夜がいつ終わり、いつ眠りに落ちたのかは、わからない。
 遠くで聴いていた電子音が電話の音だと気づいたのは、一旦途切れたそれが、再び鳴り出した時だ。
「摂…電話」
 正確には、先に覚醒へ近づいたノアが、唸り声に近いトーンで教えてくれた時。
「ん…?」
「電、話」
「いいよ…」
「緊急かもしれないよ。誰からかだけ、見ておいで」
 先生口調に従って、逞しい毛布から抜け出す。眩暈を堪えながらリビングに出ると、ソファの上に置きっぱなしだった携帯電話が、チカチカとランプを点滅させながら鳴っていた。摂が手に取るより先に、また切れてしまったが、残った着信履歴はリターンコールをしないわけにはいかない相手だった。
 コール音を聞くか聞かないかで、電話が繋がる。
 おはよう、と言われるのに、おはよう、と返して。
「…どうしたの、こんなに早く」
 混乱気味に言ってから時計に目をやると、八時を少し過ぎた時刻。休日の朝としては、格別に早い時刻だ。しかし、ごめんね元気だった?と、大して悪びれた様子もなく笑われれば、元気だよ、と素直に答えるしかない。
 ふわり、と、肩に柔らかなタオル地がかけられる。
 首を捻って見上げると、寝ぼけ眼のノアが笑って、バスローブの上から摂を抱き締めた。胸に回されたがっしりした腕を撫でながら、早朝の気まぐれな世間話に付き合う覚悟を決めたのだが。
『ねえ、せっちゃんのおうち、東口側でいいんだよね?』
 不意に尋ねられ、手が止まる。
「…さくらちゃん、今どこにいるの?」
 さくらは華やかな声で、駅、と答えたのだった。

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