Novel >  ベイビー、ベイビー >  ビコーズアイラブユー3

【3】

 労災関係の書類を今週中に提出しなければならなかったのだと、金曜の夕方になってようやく思い出す。ファイルとファイルの間からそれを探し出し、労務課のあるフロアまで行って、自販機経由で帰ってくるまでの所要時間は、せいぜい十五分程度だったろう。席に戻ると、摂の不在を見計らったように、一件のメールが届いていた。  

 差出人:安斎恵理奈/マーケティング部
 件名:【プロジェクト6M】次回ミーティング召集

 未定だった来週の会議予定が決まったのだろうと、紙パックのジュースを啜りながらメールを開く。
 いつものように「表題の件、お知らせします」から始まり、会議の日時と場所が簡潔に書かれている。いつもと違うのは、短い文面の下に数行の余白が取られていて、さらに二行のメッセージが続いていたことだ。読み終えて、もう一度メールのヘッダーに目を戻す。気づかなかったが、TO以下にプロジェクトのメンバー全員、CCには所属部署の課長などが指定されているはずのメールに、「TO二見摂/第一営業部」以外の名前がない。BCCの可能性は捨てていいだろう、このメールが摂だけに送られているものでなければ、余白以下のメッセージはありえないのだから。  

 お疲れ様です。
 突然ですが、今夜お時間頂けませんか?

 顎を掻き、さてどうするか、と思案する。改まって話す機会が訪れる可能性について、ゼロだとは思っていなかったが、今日がその日だとも思っていなかった。しかし安斎の真意を聞くチャンスかもしれないと、誘惑を感じているのも本音だ。返信ボタンを押すと、件名に「Re:【プロジェクト6M】次回ミーティング召集」と表示されるが、内容はその限りではない。  

 お疲れ様です。
 私用があります。今夜でないと都合が悪いことですか?

 同じく二行のメッセージを打ち、送信しかけてやめる。

 お疲れ様です。
 私用がありますが、短時間でしたら作ります。

 書き直したメールを今度こそ送信し、摂は椅子の背もたれに寄りかかった。

 

 手慰みにちらちら弄っていた携帯電話も、地下に降りたところでアンテナの本数がゼロになる。足音で摂に気づいていたらしい、非常階段の入り口付近から、安斎がこちらを見ていた。十九時の約束より五分早く着いた自分より、彼女のほうが先に残業を切り上げたようだ。
「急にごめんなさいね」
「どういたしまして。待たせた?」
「ううん、私もさっき終わったところ。二見くん、デートの先約あったんでしょ?大丈夫?なんて、我ながら白々しいけど」
「俺が帰るまでいい子で待っててねー、ってメールしといたから、大丈夫」
 やーだ、と安斎が明るく笑ったのは、摂の言葉を冗談だと思ったからだろう。あいにく、一切誇張のない事実だ。もっと正確には、急用が入ったことを手短に伝えたあと、夕食一緒できなくて残念だけど、俺が帰るまでいい子で待っててね。愛してるよ。と送ったのだった。
「とりあえず、乗ってよ」
 指に通したキーリングを回しながら、車を停めた方向を指差すと、形ばかりの遠慮も見せずに彼女は頷いた。
 言われたとおりの道順で、市街から少し外れたダイニングバーに車を走らせる。そう広くない店内は混雑していて、テーブルとテーブルの間を縫うように、奥の壁際へ導かれる。
「よく来る店?」
「時々かな。むしょうにマルゲリータが食べたい時」
 今がそれに該当するというわけか。ジンジャーエールとウーロン茶でしばらく雑談するうちに、本命のマルゲリータが運ばれてくる。摂に一切れ取り分け、それから自分の皿に一切れを移しながら、安斎が雑談の続きのような口調で話しだした。
「最初にね、懇親会のあった次の日」
「ああ、うん」
「二見くん、有名だから。周りの子たちに、どうだった?何かあった?なんて訊かれて、何か答えたわけじゃないのよ。ただね、否定しないことがもしかしたら誤解を生むかもしれないって、予想はしてたけど」
 抽象的な言いようだが、その結果を体感している立場にしてみたら、理解できないところはどこにもない。軽く頷いて促すと、安斎は結んだ唇をまた開いた。
「積極的にあれこれ吹聴したわけじゃないのに、人から人へ、広がるだけだった。でも、ちょうどいいと思ったんだよね、それが」
「何にちょうどいいの?」
 そのWhatに答えることこそ、全部に答えることだとわかっているから、彼女は少し困ったように笑うのだろう。摂にしてみれば知りたい欲求は好奇心半分で、詰問する気はないし、以前のように心のどこかで身構えることもない。まだ熱いマルゲリータを齧りながら、自分が今このスタンスでいられるのは、心配していないと穏やかに言ったノアの存在があるからだと思う。電話一本、なんて、何かのコマーシャルみたいに簡単だ。
 伏せていた目を上げた安斎は、ゆくるまとめた髪の、垂らした一筋を払う仕草をした。
「二見くん、うちの課長と面識あるでしょ?」
「ああ…面識っていうか、まあ、こっち来たばっかりの頃、一回仕事したくらいだけど」
 唐突な質問に、答えながら記憶を呼び起こす。
 摂が転勤してきたばかりで、彼がまだ課長でなかった、二年以上前のことだ。仕事の席で受けた注意が何となく印象に残っている。何となくの印象が、そのまま、ぼんやりした彼への苦手意識に繋がる類の経験だ。仕事仲間に対して見切りをつけるのが早すぎると、総括すればそんなことを言われたんだと思った。ネゴを重ねるよりも、「俺がやるから」の一言で済ませるほうが簡単なのはわかるが、それでは他人はついてこない、とか、そんなようなこと。議論好きというか、説教好きなところのある、摂にしてみれば少々煙たいと思わなくもない人物だった。管理職コースまっしぐらの人物でもあり、今の課長職にも異例のスピードで昇進したんじゃなかったっけ。苦手といっても、笑顔という名のポーカーフェイスには自信があるから、ばったり廊下で出くわしたくらいで取り繕えないものは何もないけれど。
 彼がどうしたのかと、この期に及んで尋ねるような鈍さは持ち合わせていない。いくつか想像できる展開はあるが、彼女の口から聞くのなら、想像する必要すらないだろう。
「よく思われてないのよ、二見くん」
「そりゃ、驚かないけど」
 この自分が苦手意識を抱くほどだ、相手にも、少なくとも好意はないだろう。真面目に頷く摂に、安斎は悪戯っぽく口元を綻ばせる。
「若くていい男で、それを思いっきり武器にしてるところがね、いやらしいって」
「あ、そこまではっきり言われるの、久しぶりだなあ」
「あは、打たれてもなかなかへこまない杭だし?でも能力は買ってるみたい、今回だって二見くんを呼んだの課長なんだから。それなのに、男の人って少なからず、二見くんに嫉妬するのね」
 床板が、両足のヒールでコツンと鳴らされたのが、音と振動でわかった。小さく伸びをして、安斎が笑いながら舌を出す。
「あてつけなんだ」
「ん?」
「私、課長と不倫してるから」
「へえ」
 事実はあまりに意外だったが、登場人物が突然増えた理由としては、驚くより納得できるものだった。事実そのものについては、納得よりも、驚きが勝るのはもちろんのこと。
「ずっと年上でしょ?私ばっかり子供みたいで、いつもふりまわされて」
 今まで子供っぽいと思ったことはなかった彼女が、急に、なるほど拗ねる顔が幼く見えるな、などと思えてしまう。頷くだけの摂に、安斎は言葉を重ねた。
「だから、ごめんね、たまたまなのよ。一緒のチームに二見くんがいたから、少しくらいヤキモキさせちゃおうって思ったの」
「誰でもよかったわけじゃないなら、少しは報われるよ」
「あ、嫌味?」
「どっちが」
「だって、二見くんなら、課長も穏やかな気持ちじゃいられなくなるもの。それに…私たち、結構長いんだよね。課長との噂が立つより、ずっといいかなとも思った。社内に恋人、いないよね?もしいたら、謝らなくちゃ」
 謝りたい最大の問題はそれだと言わんばかりだから、笑って手を振るしかない。摂をダシにしたこと自体には、それほど罪悪感を覚えていないというわけだ。これは、才媛と呼ばれる一人の女性の、自信なのかもしれない。
「いないよ、大丈夫。ねえ安斎さん」
 二切れ目のマルゲリータを口に運びながら、上目遣いに安斎を窺う。
「何?」
「二人の時も、課長って呼んでるわけ?」
 一瞬丸くなった目が、快活な三日月形に変化した。
「そんなわけないじゃん」

 

 お互い空腹で、マルゲリータの皿はすぐに空になった。
 手短に、食事でも摂りながら、という当初の予定どおり、食べ終わってすぐに店を出る。安斎を駅まで送り、マンションへ戻ると、期待を裏切ることなく中からノアが出迎えてくれた。
「お帰り」
「ただいま」
 しばらく見ることも触れることもなかった、実体だ。
「いい子にしてたかな?」
「もちろん」
 まず正面から抱き合って、しっかりした胸板とか、逞しいのに優しい腕の力を、じゅうぶんに堪能する。それから、身体をずらして横から肩を抱くノアと、触れるだけのキスを。数ミリ離して、再び、今度は深く重ねる。コンタクトはもう外したらしい、リラックスモードの黒縁眼鏡の奥で、彼はゆっくり目を細めた。
「どうだった?」
「お。心配してくれたの?」
 訊き返してやると、器用に片眉を持ち上げる。
「おかげで、夕食が喉を通りませんでしたよ」
 ごく生真面目な表情と口調のまま、さらりと冗談を言ってのけるのがこの恋人だ。
「ノアは何食べたの?」
「ピザ」
「あ、俺もピザだった。でもちょっと物足りない気分なんだよね」
「偶然ですね。残り物でよければまだあるけど、食べる?」
 巨体に見合う程度には、よく食べる男だ。テーブルの上に置かれた宅配ピザの箱を見て、本当に残したのかと少し驚いたのだが、そもそもメニューに一人前のサイズはなかったことを思い出す。
 半開きの箱を開けると、残っていたのはあと二切れ。ずいぶん食べたものだ。しかしミックスピザのトッピングを見て、思わず、感嘆のため息がこぼれてしまった。
「感激…ポテトとベーコンとマヨネーズと、ごってごてのチーズに俺が呼ばれてるって、いつわかったの?あ、コーンも重要」
 彼にとっても、摂の喜びようは予想外だったろうが。動じるでもなく、やはり生真面目に答えるのだ。
「超能力に目覚めたのかもしれませんよ、俺じゃなくて摂が。それで?何食べてきたんだって?」
「薄焼きの、ちょーあっさりな、マルゲリータ」
「ああ、なるほど」
「食べていい?」
「どうぞ、召し上がれ」
 脱いだ上着を受け取ったノアが、エスコートついでに椅子を引いてくれる。腰掛けた摂の頭上から、さらに魅力的な情報が寄せられた。
「ビールもあるけど?」
「ほんと?飲む飲む、ピザにはビールじゃなくちゃね」

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