Novel >  ベイビー、ベイビー >  ビコーズアイラブユー1

1.

 バラの水替えをしようとして、うっかり利き手でワインボトルを持ち上げてしまった時。捻挫しているはずの右手首に、しかし覚悟したほどの痛みを感じないことに気づく。喜ぶにはあまりにささやかすぎる現実だが、その週明けには頚椎カラーも取れ、そうなると単純なもので、今まで何をするにも痛みに邪魔され憂鬱だったはずが、多少の鈍痛なら平気でやり過ごせるようになる。鎮痛剤の服用に迷信的な罪悪感を感じる性格ではなく、包帯が取れてからも、少しでも痛いと思えば薬を飲んでいるおかげもあるだろう。摂は物質的苦痛に対して忍耐の美学を持っておらず、電話のたび「痛い」「大変」を聞かされていたノアには、途中から薬が砂糖の塊に代わっていたのではないかなどと揶揄われた。どうやら彼はプラシーボ効果について肯定的な見解を持っているらしい、なんて、負け惜しみにもならないけれど。
 誠実な心配性の彼が、摂の怪我をネタに冗談をさらりと口にできるようになったことが、何より回復の順調ぶりを反映している。
 まだあと数回は通わなければならないリハビリに楽しみを見出すのは難しいにせよ、ひどく負担だというわけでもない。三十日間と診断書に記載されていたリハビリ期間だが、程よく期間内で終了してもらえそうだ。若い人は治りが早い、とまあ、これは別に褒め言葉でも何でもないのだろうけれど。
 右手で箸を動かせるようになったし、首筋を掻くのに苦心する必要もなくなった。新しいプロジェクトチームへの召集もかかり、いくら事前に通達されていたことであっても、こういうことは俄かに慌ただしく始まるものだった。
 日常は既に、平均への回帰をたどりつつある。
 異常事態だったからこそ、平日の夜にノアの顔を見られるなんてこともあったし、電話のやり取りも頻繁だった。それが徐々に落ち着き、元のペースに戻ったことも、もちろん摂の回復ぶりを反映した結果だ。恋人が、一番辛い時期、一番親身に支えてくれたことこそが最重要であり、いくら感謝してもし足りない。ただ、その快い体験と、ノアとの最後の電話が金曜の夜である事実や、先週末に彼の実体と会っていない事実は、やはり少し意味が違うのだった。

 

 ムースを広げた両手で、サイドの髪を撫で付ける。指の間から落ちたひと房を、丁寧に耳にかける。
 鏡の中の自分と目を合わせたまま、そろそろと首を上げる。首元の結び目に歪みはなく、シルエットは完璧。カラーが取れてからはじめて締めたネクタイの心地は、懐かしくさえある。この時期社内はクールビズ仕様だが、元々ネクタイは必需品の部署だし、今日のように出張があるとなれば、柄を選ぶにも気合が入るというものだ。
 テレビを点けっ放しのリビングから、明るい音楽が聞こえてくる。
 ワイドショーのコーナー始まりに流れる音楽は、そろそろ出社しないとまずい時刻だと摂に知らせるものでもある。手に残ったムースを洗い流し、慌てて洗面所を出た。

 

 新幹線の時刻に合わせて一時間ほどデスクワークをし、同僚と二人、三駅先の取引企業へ向かう。同僚と言っても大先輩で、そろそろお前の顔を売っておいても損はないだろうと、摂を先方に引き合わせるのが目的の一つでもある。大先輩の彼はおそらく、今年中か遅くても来年までには昇進し、担当が自分にまわってくるのだろう、というのは無理のない予測というやつ。
 昼食を出先で済ませ、帰りの車内で報告書の下書きを終える。十五時からの新プロジェクトチームの会議が始まるまでに、まず、いくつも転送されてきている関連メールを読みきらないといけない。
 会議室変更のお知らせ、次いで時間変更のお知らせ…今見てよかった、予定より三十分遅いスタートになるらしい。お知らせメールに対する了承メールを、そのままTO以下の全員に送っているメンバーもいて、こういうメールはハズレくじみたいなものだ。
 メールに手間取るうちに、気づけば、開始予定時刻十分前になっていた。そうだった、場所も変更になったんじゃないか。営業部のあるフロアから三階上ってから、長い廊下を突っ切らなければならないのだと思い出す。チームの中でも末席側の自分が、まさか遅刻するわけにもいかない。摂は手帳を掴み、腕時計を見て一旦呼吸を整えると、大股に一歩を踏み出した。
 エレベーターで上へ昇り、右手にまっすぐ進む。
 通路と通路のぶつかる場所だと、特に注意を払っていなかったの自分が迂闊だった。不意に横合いから黒っぽい影が現れ、その影が大きく息を呑む。
「――おっ、と。ごめんなさい」
 衝突寸前で咄嗟に向きを変え、相手が女性だと気づき、ファウル回避のために両手を上げる。ステップの振動が首まで響き、思わず声なき声が出てしまった。
「やだ、首、大丈夫?」
 見た目に怪我人の要素のない摂にその言葉をかけられるのは、カラーを巻いていた時のことを知っている上、現在も治療中であることまで知っている人物だ。
「大丈夫…今、全然前見てなかったよ」
「私も、ほんとにごめんね」
 摂の気安い言葉に対して済まなそうに笑っているのは、同プロジェクトチームメンバーの一人。彼女とは同期入社で、よってお互いチームの中で最年少である。
「二見くん、今から会議?」
「安斎(あんざい)さんも、じゃないの?」
「そうよー。遅刻仲間にならないようにしましょ」
 冗談っぽい物言いながら、両手で紙束を抱えた彼女が、あたふたと角を曲がってきたのだろうとわかる。複数部署から成る今回のプロジェクトの中心は、安斎の所属するマーケティング部であり、彼女はその中で会議日程の調整やレジュメ作成などを細かく担当している。量的な面では、一番多く仕事を抱えているだろう。
「それ持とうか?」
「手渡す時間も惜しいかも」
「はは、じゃあ、急ごう」
 言い合いながらも足早に歩く。突き当たりの会議室Cの扉を摂が開け、まず安斎を通して彼女の後から入室すると、既に揃った全員の視線がきれいに集まったのだった。

 

 二時間半の予定が三時間になり、定時を数分過ぎて、会議が終わる。
 スイッチを切ったばかりのプロジェクターが、まだ勢い良くファンを回転させていて、これが止むまでコンセントを抜けない。頬杖を突きながらモーター音に付き合う摂をよそに、メンバーはばらばらと退室していく。
 最後の方の議論を、議事録にまとめきれていないのだろう。
 安斎がパチパチとノートパソコンのキーを打つ音が、静かになった会議室によく響く。
「ごめんなさいね」
 突然の謝罪に、プロジェクターを持ち上げかけた手が止まる。
「何?」
「尾ひれがついてるみたい」
 続く言葉もやはり脈絡のないものだったが、パソコンから顔を上げた安斎の顔は、それが摂に通じると確信しているようだ。
「ああ」
 彼女の確信は正しい。摂は小さく頷くと、一度緩めた手に力を入れ、放熱の余韻を残す機体を持ち上げた。
「こんなとこにいつまで二人でいたら、また豪華な尾ひれがつくかもね」
「あはは、ほんとね」
 一斉に向けられた視線の中に、いくらか混じっていた好奇の色を思い出す。
 明るく笑う同期の彼女とは、共通点があるとしたら本当にそのことくらいだった。新人研修の時に面識を得たものの、摂は本社配属となり、安斎は最初の配属からずっとこの支社なのだと、これも今回のプロジェクトで一緒になってから聞いた話だ。そのマーケティング部の才媛と、どこの誰が、どう怪しいって?噂の渦中にいるのが自分なのだと、不覚にも周囲から聞かされるまで知らなかった。
 先週…いや先々週になるのか。懇親会の帰り、方向が同じだった。確かに安斎は酔っていた。事実はそこまでだ。家まで送ったわけではないし(彼女を家まで送ったのはタクシーだ)、翌朝一緒に出勤したわけでもないし(それどころか摂はリハビリ経由の出社だった)、その後、社内で時々人目を盗んで会っているわけでもない(今この状況が該当するとでも?)
 他愛のない、他愛ないついでに根拠のないゴシップ。日頃それを話題に楽しむ立場でさえある摂にとっては、呆れ半分に笑うしかないレベルではある。安斎にしても同じような気持ちなのだろうと、漠然と想像はしていたが。シンパシーを表明するためか、あるいは別の理由があるのか、今になって直接切り出した彼女の意図については、早急に結論を出すべきではないだろう。
 プロジェクターを片付ければ、居残る必要もなくなる。
「ありがと。唯一の力仕事がなくなったわ」
「少しは役に立ったかな。じゃあ、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
 会釈の安斎に頷き返し、摂は一足先に会議室を離れた。

 

「お疲れっす」
 空席になっているはずの自分のデスクには、まるで悪びれない態度で寛いでいる男がいた。私服でなくスラックスにワイシャツ姿ということは、こちらで会議でもあったのだろうか。
「お疲れ。何しに来たの」
 背もたれを押して退くようにと仕向けると、半回転した椅子から立ち上がった乾が、はたと気づいた顔をする。
「あれ?二見さん、頚椎カラー取っちゃったんだ」
 事故当日から、この後輩には、何度それを揶揄われただろう。乾の仕草につられて思わず自分の首筋に手を当てながら、取り澄ました顔を睨む。
「好きで取ったんじゃない――間違えた、好きでしてたんじゃないんだけど?」
「意外に早かったじゃん」
「若いからねー」
「威張らなくても俺のが若いから。で?まだ痛いの?」
「そりゃ、無理に動かせば痛いよ」
「なるほど。あ、二見さんが呼ばれてるプロジェクトってさ、何?生産と関係ある?つーか、今これ以上忙しくなるの勘弁なんだけど」
「んー、まだ部外秘だから言えないんだよね」
 乾の視線が摂の手元を胡乱に追っているのを感じ、「極秘」と印刷されたレジュメの表紙を折り曲げて、書類と書類の間にそれを差し込む。
「土壇場で至急とか言うのだけは、やめて」
「リーダーに伝えとくよ、開発の乾が言ってたって…じゃなくてさ。お前は俺に会いに来たの?」
「んなわけあるか、今からこっちで会議なんだよ。あと十分あるから、そこ以外のコーヒー奢ってくださいよ、先輩」
 備え付けのコーヒーメーカーを指差してにやつく後輩に、まあそんなところだろうと、摂は鷹揚に頷いた。
 横を歩く乾のノータイの襟元を見て、なんとなく、自分もネクタイを緩める。エレベーターホール横に並んだ数台の自販機を前に、乾が妙に真剣な顔で迷い始める。それを横目に、ダイエットコーラのボタンを押し、落ちてきたペットボトルを取り出した。
「ユーヒくん、決まった?」
「これこれ」
 自販機に小銭を入れてやると、ガタン、と落ちたのはミルクコーヒー。甘味を求めているのは、お互い様ということだ。
 右手首を庇う癖はまだしばらく抜けないだろう、ペットボトルを左手から右手に持ち替え、キャップを開ける。勢い良くガスが抜ける音に、緊張感のない声が重なった。
「あ。そーいやさ」
「なに?」
「あんざいさん?マーケ部の。噂になってんだって?美男美女だと」
「なに、珍しく耳が早い」
「いや、さっき聞いたんだけど。あれって何?」
 営業マンという人種は、多かれ少なかれ、ゴシップを楽しむ性癖がある。たまたまいた部内の誰かが、たまたまいた元同僚に、最新の噂を吹き込んだらしい。あくまで例えだが、これで乾が現場へ持ち帰ればさらに広まる、噂とはそういうメカニズムだ。
「気にしてくれてんの?」
「いや、俺の好奇心を満たしたいだけ」
「可愛くないなあ。ま、俺にもわかんないんだけどねー」
 摂の答えに、好奇心が満たされるはずもない。乾はコーヒーを口に含みながら、ふうん、と気のない相槌を打つだけだった。
「ハニーに知られて、妬かれないようにしなよ」
 次いでかけられた面白がるような言葉は、後輩の思いやりと受け取れなくはない。その上、案外魅力的な内容でもあった。

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