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4.
 廊下に響いた足音に、一度、玄関を見た。固いヒールの音なんかに期待した自分が馬鹿らしかったし、まるでエムを待つために過ぎているような時間にはいつかうんざりした。
「風邪引いちゃうよ」
 不意に聞こえた声に途切れていた意識が戻り、うたた寝に気づかされる。
 カーテン越しにうっすら明らんだリビングと、氷の溶けきったウィスキーと、いつの間にか床に転げ落ちたタブレットと、傷んだピンク色の髪から覗く黒目。床に座り込んだエムがルミナの足元にしなだれかかり、そのくせどこか遠巻きに眺めるようにこちらを見ている。
「おかえり」
 エアコンの風でからからになった喉から、かすれた声が出る。手を伸ばせば足りない距離を縮めるのはエムで、近づいてきた彼の頭を撫でる。
「うん」
「いつ帰ってきたの」
「今」
「あーそ。鼻、真っ赤……耳も」
 髪も、細い鼻筋の先端も、ピアスだらけの耳朶も、寒さに赤らんでひんやりしている。エムはされるがまま、ルミナの手つきを味わうように、グルーミングを受ける動物じみた表情で目を瞑っている。ルミナはやはりひんやりした薄い頬、それから首筋をたどり、ブルゾンの襟元をぐっと広げた。
「カード、使わなかったの」
「んー、だって」
 口角の両側をきゅっと上げて、エムが曖昧に微笑む。
「お前。お使いもさせらんねーな」
 彼から漂う、嗅ぎ慣れないシャンプーのにおいと、こんなに冷たいくせにどことなく火照りの冷めない雰囲気。何より、首筋や鎖骨の上に――きっと身体じゅうにもいくつもついているのだろう血の滲んだ歯形が、彼が一晩何をしてきたのかを、どこかで誰かと寝てきたことを雄弁に物語っている。
「少し出かけただけで、どうやったらそんな(、、、)なるんだよ」
 ルミナにこじ開けられた襟元から覗く歯形を撫でながら、エムはまた笑った。
「ちょっと変な人に引っかかっちゃった」
「……そうじゃねえよ」
 ソファでのうたた寝に強張った身体を起こすと、エムが腰を浮かして後ずさるから、その手首を掴む。
「なんでセックスしてきたの」
 見開いた両目を数度瞬いた彼は、ほんの一瞬戸惑ったように口元をひくつかせたが、結局は笑うことにしたようだ。
「ルミナくんだって、してたんでしょ?」
「お前に聞いてんの」
 彼の手首を握る手に力を込めれば、他人の顔色を窺う笑みがしぼむ。俯いたエムはやがて、ぼそり、と、囁くように言った。
「…………寂しかったから」
 それから、じっと、上目遣いを寄越す。
「ルミナくん、してくれないし」
 伏せるとやけに際立つ切れ長の目が、彼の誘いを拒んだことを責めてくる。ルミナが拒んだせいで、別の男とセックスをしたのだと言う。込み上げる衝動を振り払うように放したエムの手首が、テーブルの角をかすめた音がする。彼はその手を胸の前でさすりながら、また、ルミナを上目遣いに盗み見るのだった。
「怒ってる?」
「……なんで俺が怒るの」
 問い返す自分の声がひどく不機嫌であることが自分でもわかり、ふーっと息を吐いて語気を鎮める。
「いや。理解できないことって、苛々するわ」
 意味もなく、いや鎮まらない苛立ちのやり場を探して前髪を掻き回しながら、吐き捨てる。自分には彼の、彼には自分の、言葉の意味がきっと理解できない。今、彼を責める自分と自分を責める彼の、自分の冷淡さと彼の好色さの、どちらがよりまともでないのだろうか。
 エムが手をさするのをやめ、おずおずと、ルミナの服の裾を握る。
「ルミナくんがだめだって言うなら、もうしない」
「なんだよ、それ」
「俺、なんでも言うこと聞く」
 再び、彼の唇に媚びた笑みが浮かぶ。ああ、この憐れな笑みが嫌いだ、と強く思う。歯形だらけの細い首に両手を伸ばし、ゆっくりと指をかける。彼の瞳が揺らぎ、じっと、こちらを待っているのがわかる。暗い悦びと嫌悪が、ない交ぜになって胃の中を渦巻く。
「今から裸になって、ここに首輪つけて四つん這いで歩けって言ったら、すんの?」
「いいよぉ」
 エムは快げに目を細め、咲きこぼれるように笑った。
「そういうの好きな人もいたしね。俺、なんか、そんな人ばっか引き寄せるんだ。しょっちゅうぶたれるし、こないだみたいに薬飲まされたり、縛られたり、おしっこ飲まされたり――首絞められたり」
 ルミナの両手を、エムの両手が包む。喉仏の振動が、触れた指から伝わってくる。
「あ、でも、優しい人もいたよ」
 薄い目蓋の下から、また、じっと待つようにルミナを見る。
「もう死んじゃったけど」
「お前が殺したの?」
「……そうかも」
 エムの指が、ルミナの指に絡む。力を抜いた両手が、指の絡んだまま宙に導かれ、てのひらが重なってまた指が絡む。
「ルミナくんの手、あったかいね」
「お前が冷たいんだろ」
 彼の身体はまったく、どこもかしこもひんやりしている。
「優しかったけど……束縛する人だった。最後の一ヶ月くらいは、部屋から出してもらえなかったんだ」
「どこが優しいんだよ。そんなんばっかだな、お前」
「うん」
 静かに頷いたエムは、ゆっくりとルミナの脚の間に片膝で乗り上げると、ゆっくりと、肩口に額を押し当てて言った。
「……言うこと聞く。いい子にするから、怒んないで」
 舌足らずに甘える、くぐもった声がする。
「怒ってねーよ」
 頭を撫でてやると、またぐりぐりとルミナの肩口に額を擦りつけて、抱きついてくる。
「ねえ、ルミナくん」
「ん」
「なんでセックス嫌いなの?」
「お前は、なんで好きなの?」
「怖いから」
 ぎゅっと、彼の腕に力が入る。
 誰かといないと生きられないと言って、あの時もこんなふうにしがみついてきた。
「俺も」
 エムの背中を抱き返しながら、明かりの灯らない天井のライトに向かって呟く。
「……俺も、怖い」
 等間隔にライトのついた、やけに高いコンクリートの天井だった。朦朧とした意識の中で、必死に助けを求めた。力の入らない身体に、何本もペニスがねじ込まれた。血に濡れたそこがぬるぬると滑る不快な痛みと、発情した男たちの放つ悪臭と、浴びせられる猥言と、嘲笑と、絶望。夢ならいいと思いながら、最後はただ、時間が過ぎるのを祈っていた。
「かわいそうなルミナくん」
 耳元に息がかかる。
 憐れなエムが、今、自分を憐れんでいる。
 柔らかい感触が耳朶にたっぷりと押しつけられ、また、息にくすぐられる。
「……キスしていい?」
「……もうしたろ」
「くち、に」
「……いいよ」
 冷たい唇が、唇に重なる。軽く啄んで、舌先を隙間に差し込んでくる。
「ん……」

 漏れた息と、滲んだ唾液から、粉っぽい歯磨き粉の風味がする。
 舌の裏を舐められ、それから、ちゅっと先端を吸われる。ピアスだらけの耳を悪戯に撫でると、もっと、と乞うように頭を小さく振る。口の中をうごめく舌だけはやけに熱く、時折擦りつけられる金属の感触に、こんな場所にもピアスがあるのを知らされる。それを追いかけて舐めると、少し苦しそうに喘いで、ルミナの舌をまた吸う。
 はあ、息を吐いて顔を上げたエムの唇が、ぬらりと光っている。どちらのものともわからない唾液を指で拭ってやると、今度はルミナの指を咥えて、音を立てて吸い始める。肉の真ん中を貫くピアスを抉れば、応えるように押し返してくる。それからエムは濡らした指を服の下に導き、臍のピアス、右胸、左胸、と触らせていく。両方の胸にも、そこを貫く金属の硬い感触がある。
「……穴だらけだな」
「みんな、俺の身体に開けたがるんだ」
 ルミナの指を愛撫の道具にしながら、エムが眉間にうっすら快感の色を浮かべる。
「かわいそうなエム」
 切れ長の目が細められ、口角の両側が上がる。
「ずっと、かわいそうって思ってくれる?」
 返事をするより早く、エムの唇が再び落ちてくる。髪を撫で、肌を撫で、脚を絡めて、時々唇を啄んで、ソファの上でくちゃくちゃにもつれあううちに、エムの動きが緩慢になっていく。とうとう小さく欠伸をするから、呆れて笑ってしまった。
「眠いんだろ」
「……んーん」
 ぐずるような生返事をひとつしたきり、今にも寝息を立てそうだ。ブランケットには重すぎる、くったりと力を抜いたエムの身体を抱えなおす。戯れのせいか眠気のせいか、ブランケットには温かすぎるくらいに温まってもいる。
「子供かよ」
 傷んだピンク色の髪を、ぐしゃぐしゃに掻き回す。
 返事さえしなくなったエムを寝室に引きずって、ベッドに落として掛け布団をかぶせる。だめにしたオンザロックが一瞬頭をよぎったが、結局、ルミナが次に目覚めたのは、アラームに起こされたエムに肩を揺さぶられる、いつもの時刻だった。

 いつもどおり出勤し、いつもどおり準備を始める。掃除の最中に出入りのリース業者と酒屋に対応し、それからいつものように氷の仕込みをする。こんな店でも、丸氷くらいはバーテンダーが削って作るのだ。芸は身を助くというにはあまりにお粗末だが、バーテンダーの真似事をさせられていた黒服時代は、まさかこれが職業になるとは思っていなかった。
 ふたつめの氷を削っていると、ドアが開く。
「すみません、まだ」
 開店前であることを告げようと上げた顔の先、入り口には見慣れた男が立っていた。もっとも、彼が店にやって来るのはずいぶん久しぶりだ。
「あれ、タチバナさん、交番に戻ってきちゃったんですか?」
 ルミナの冗談に、男が顔をしかめて笑う。
「そんなわけあるか。捜査だよ、捜査」
「へえ」
 以前はこの街の交番勤務だったタチバナだが、春に昇進して街から去った。いかにも吊るしのスーツは制服と違って彼には大して似合っておらず、物珍しいやらおかしいやらで、ひっそりと苦笑を噛み殺す。
「何か飲みます?」
「捜査だって何回言わせんだよ」
 タチバナが笑いながらカウンターの真ん中の席にどっかりと腰かけ、こちらを見上げる。
「ハヤシから聞いてない? 北天会のシマで商売してた売人が死んだ」
 単刀直入に告げられた久しぶりの来店の理由はまさにハヤシから聞いたばかりの出来事で、ルミナはあの時と同じように、ただ肯定でも否定でもない相槌を打つだけだった。
「……殺人事件なんですか?」
「だったら俺の出番じゃねーな」
 言いながらタチバナは背広の内ポケットを探って眉をひそめ、それから腰を浮かして尻ポケットから数枚の写真を取り出すと、皺になったそれらをカウンターに並べる。映っているのはどれも不明瞭な人影や、拡大のせいで荒くなった横顔ばかりだ。その中で、ピンク色の髪だけがくっきり見えた。
「フジシマエムっての。この店に来たんだって?」
「顔ははっきりおぼえてませんけど。ピンク色の髪してましたね、ちょうどこんな感じ……こいつ、何なんですか?」
「死んだ売人のイロ」
 やはりハヤシから聞いたとおりの話に、フィクションのような偶然の一致に、へえ、と再び打つ相槌が上の空になる。
「ニワ――売人の名前な」
 タチバナが指差したのは、ふたり写った写真の中の、エムでない短髪の男だ。
「前々から目はつけてたんだよ。用心深いやつで、全然尻尾を掴ませてくれなかったけど。死んでから一週間は経ってるそうだが、冬場だから、マンションの住人にも気づかれなかったんだろうな。仲間が訪ねた時には、まだほとんど腐ってなかったらしい。まったく、逮捕する前に死んじまったよ」
 面白くなさそうにぼやいて、タチバナはニワと言った男の顔から、その横のエムに指を滑らせた。
「死因はけったいなもんだぜ。ぶっ飛んで死んだか、腹上死か、その合わせ技ってとこ」
「いいんですか、俺にそんなことまで喋って」
「今俺から聞くか、あとでハヤシから聞くかの違いだろ」
 彼らがどのような利害関係にあるのか、そんなものはないのかも知らないが、年頃の近いふたりの付き合いが十年に及ぶらしいことは聞いている。だから彼は、きっと幾人も自分のような役割の人間を見てきたのだろう。
 タチバナがここへ通っていた頃にキープしていた森伊蔵はもう棚になく、安い水割りを作ってカウンターに出す。片眉を上げてグラスを見た彼だが、口に出しては何も言わず、やおらそれを飲み始める。カラン、氷を鳴らして、彼はひと息に半分ほど減らしたグラスをカウンターに置いた。
「ニワのやつ、部屋に何も残してないの。フジシマに聞くしかないんだよ」
「参考人ってやつですか?」
「それもあるが、まずは保護が目的だな」
 タチバナの無骨な指が、グラスの縁を叩く。
「ハヤシも血眼だろ」
「さあ」
「――ま、いいけど。どっちに見つかるほうがフジシマの不幸かは、お前ならわかるよな?」
 彼の言葉は、事実でありまやかしでもあると思う。ハヤシと対等に付き合うような男が、心優しいだけの警察官であるわけがない。まして、彼にはそれを敢えて口にする理由などないのだから。
「悪いようにはしねーよ」
「怖いなぁ」
「よく言う」
 にやりと笑ったタチバナが、残り半分の水割りをひと息に飲んで立ち上がる。吊るしのスーツの似合わない後ろ姿を見送りながら、ルミナはざわつく胸の内でため息を吐いた。

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