Novel >  KEITO >  ドレスコードノススメ2

2.

 アパートまで行くよと言われていたので、取り敢えず外出できる服に着替え、約束の六時半までの残り数分をベッド上で待っていた。下で車の音がしたかもしれない、しばらくするとチャイムが鳴る。コンポの時計は、ジャスト18:30。因みにこの時計は、一分早い。
「おす」
 軽い挨拶が飛んでくる。
 慧斗は出迎えようと腰を浮かしたまま、彼に掛ける言葉を探し、結局は見たままのことを言うだけになった。
「珍しいですね…」
「ん?」
「スーツ」
 ふっ、と乾が口元をほころばせる。細身のシルエット、黒っぽいダークスーツに白いシャツ、ネクタイは渋めのドット柄の、ややクラシカルなコーディネートだ。営業部署にいた頃はともかく、技術開発部に戻ってからは、ここまできっちりとスーツを着る機会は減ったはずの彼だ。
「今日、何かあったんですか?」
 出張とか、会議とか。乾はやはりにやりと笑うと、
「今日、これからあるんだろ?」
 大きな紙袋を掲げてみせた。
「ここに、コスプレグッズが入っています」
「えっ…」
 固まる慧斗に構わず、ガサガサと中身を取り出す。ベッドの上に並べられたのは、しかし、ごくノーマルなスーツの上下だった。
「…びびった」
 正直な感想が、これ。
「メイド服かと思った?」
「や、まあ…どうやって拒否しようかなって、一瞬」
「メイドも捨てがたかったんだが」
「捨ててください…」
 心から言ったのだが、乾は面白そうに肩を揺らすだけだ。それからスーツに視線を落とし、生地を手のひらで撫でた。
「ドレスコードにひっかかるでしょう、メイド服は、たぶん」
「ドレスコード、って」
「スーツ着てなきゃ食えないメシ、食いに行くよ」
 やはり黒っぽい、ストライプの入ったスーツ。それだけではなく、紳士服のセット販売よろしく、シャツにベルトにネクタイ、タイピンまである。ただし、「お値打ち価格」のスーツと明らかに違うことくらい、自分にだってわかる。だって、生地、厚いし。
「…まさか買ったとか、言う?」
「言わない言わない。時間なくてさ」
 時間があったら買っていたような、危険な言い方だ。
「中村くん、この手のスーツ持ってないだろ?」
「あ、うん…チャラいやつしか」
 友達の結婚式の二次会レベルだったら、モッズスーツで十分。慧斗にとってそれ以上のレベルに応じたスーツが必要な機会は、この瞬間までなかった。
 ジャケットを広げながら、乾が頬だけで笑う。
「ある意味買うより高くついた気が、今さらながらしてるのも確かだけどねえ」
「え?」
「これね、提供、二見さん」
「え」
「オーダーメイドのブツ」
「…まじ?」
「体格大して変わんないから、いけるでしょ」
 と、いうわけで。とか、しれっとした口調で言って。
「あれだ、誕生日プレゼントはきみって言ったろ?」
 そう言われてしまえば、逆らえないのだった。
 シャツを着て、ジャケットに袖を通すと、やはり重厚な着心地。既成サイズならともかく、オーダーメイド品を果たして着られるのか不安を感じたが、どうやら重大な問題はないようだ。重大でない問題点はいくつかあるが、腕も脚も、視覚的なごまかしは効くだろう。ネクタイを結んでもらい、最後にタイピンをつける。
「感想は?」
「なんか、変」
 スタンドミラーに映った、見慣れない自分に呟く。サラリーマン経験もないし、高級スーツなんてなおさら着心地が悪い。
「変じゃないって。あ、髪の毛上げてく?」
 言いながら既に、乾は手のひらでワックスを伸ばしている。大きな手が触れ、長い指が髪に入る。額や頬にかかる髪がなくなり、急に涼しくなった。
「はは、これは試練だな。却下」
 前髪を上げていた乾の手はすぐに離れ、再び視界に髪の毛が入る。前髪を流すように指先で払われ、あとは自分で適当に直す。
「さて、行きますか」
 ふと見たカーテンの向こうはもう真っ暗、夜の始まりを告げていた。

 

 駅へ向かっているのだろうかと漠然と想像していたが、車は駅前まで行かず、途中の信号で曲がる。高速の下をくぐり、五分ほど走ると、左にウィンカーを出す。ゆっくりと地下駐車場に滑り込み、エンジンが切れた。
「…ここ?」
「ここ。来たことある?」
 用もないのに高級ホテルには来ない。慧斗が首を横に振ると、乾は両目を細めた。
「俺も」
 車を降りると、カツン、ヒールが澄んだ音を立てて響く。
 身に着けているものほとんどが借り物だが、靴だけは自分のものだ。手持ちのスーツに合わせてごくたまに履く程度の、エナメルレザーのシューズ。少し浮いているかもしれない。
 映画やドラマの舞台みたいに眩い、正面玄関。通りがかったことはあっても、入るのは初めてだった。ロビーを抜け、エレベーターで上昇を続ける。開けたホールから見えたその店構えは、確かに、Tシャツにジーンズで入るような雰囲気ではなかった。
 ギャルソンに導かれて席に着くまでに、ちらちらと周りを見たが、カップルもいればビジネスマン同士の客もいる。たぶん自分達も、一見したらビジネスマンの二人連れなんだろう。特に実際にビジネスマンの乾は、板についている。
 脇見から我に返ると、思い切り乾と目が合う。
 いつから見られていたんだろう。テーブルに肘を着いて、組んだ指の上に顎を置いたまま、じっと。
「何…ですか」
「目蓋の裏に焼き付けてるとこ」
 何言ってんの…反論は、口の中でこもって消えた。
 ややあって、ワインが運ばれてくる。赤ワインが苦手な慧斗に合わせた、ロゼワイン。いよいよ誰のための席なのかわからない。
「言ってんじゃん。俺のしたいようにさせるのが、今日のきみの役目」
 乾はあっけらかんと笑って、グラスを持ち上げる。
「乾杯しますか」
「…うん。誕生日おめでとうございます」
「はい、ありがと」
 グラスを小さく鳴らし、冷たいロゼを喉に流し込んだ。
 コース料理を、ゆっくりと時間を掛けて食べる。詳しい料理名は右から左に流れてしまうが、子羊の背肉は美味しかった気がする。あと、デザートの、洋ナシの何とか…。どこか夢見心地で、今、目覚めたらベッドの中でも驚かない。
 最後のコーヒーを飲み終え、どっしりと落ち着いた空気の中を、もがく気分で席を立つ。この場で割り勘を主張するのは、Tシャツジーンズでこの店に入るのと同等の罪悪だろう。大人しく乾にカードを出してもらい、店を出た。
「最上階に、バーがあるけど?」
 慧斗の心を見透かした上で揶揄う、のんびりした声。
「ギブアップ…です」
 縋る気持ちで告白すると、軽く頷いた乾は、明快な口調で言ったのである。
「じゃ、部屋行くか」

 

「ダブルを取る勇気はなかった」
 含み笑いと、彼の手に背中を押されて、部屋に入る。ゆったりとしたツインルームには、ベッドが二台、大きく取られた窓からはお決まりの夜景が見える。歩み寄り、窓ガラスに張り付いて眺める景色はだけど、おもちゃみたいだと思う。おもちゃみたいに、きれいだ。
「あんまり金のこと言うのもあれですけど…」
 息でわずかにガラスが曇り、すぐに晴れる。
「やっぱ、こんなことまでしてもらうのって」
「あのさ、中村くん」
 ガラスに映り込んだ乾が、識別できないくらい間近になったと思うと、背中から腕が回される。
「結構しんどかったろ」
「え?」
「つーか、進行形か。緊張するばっかで、メシも酒も味なんかわかんねーし」
「…ん」
 ゆるく組まれていた腕が、徐々に、力強くなる。
「高いスーツはうかつにソースもこぼせないし」
「うん」
「おまけに煙草は吸えないし」
「はは、うん…」
 頬にかする鼻先。少し首を捻って、唇を重ねる。ちらりと舌先でつつきあって、離れた。
「誕生日プレゼントも、楽じゃないだろ?」
「…楽じゃないけど、嫌じゃないですよ、全然」
 もう一度、重ねる。
「こういう窓ってさ」
「ん?」
「案外、外から見えたりするんだよな」
「乾さん…言ってることと」
「やってること、反対?」
「うん」
 また、唇が。
 コツ、後頭部がガラスに当たる。唇の間に舌が挿し込まれ、ゆっくりと吸いながら、動かす。くちゅ…音が頭の中で反響し、膝から少し力が抜けた。酔うなというほうが、無理だろう。ワインにじゃなくて、もっと複雑な色々に。
「乾さん…」
「うん?」
「ぬぎたい」
 背中を抱く乾の手が、ぴくりと動く。
「うわ…すげえ攻撃力」
 押し付けられた腰の、明確な一部分の硬度は本物だ。それだけで、息が上がる。もつれ合いながら、手前のベッドに倒れ込む。まず、スキューバのごとく慧斗がダイブし、すぐに乾が覆いかぶさった。
「ね…脱いでから」
「脱がなくてもできるだろ?」
 乾はやんわり笑うと、慧斗のジャケットのボタンを外し、ベルトからシャツの裾を出そうとする。
「待って…じゃなくて、や、待って」
「スーツの心配ならしなくていいよ」
「するよ」
 普段伸ばしっぱなしの前髪をまとめて、視界がいつもより広くなっているせいだろうか。穏やかな眉とか、すっきりした目蓋とか、長い鼻筋とか、それらがトータルして作る彼の表情を、見ていられない。
「しなくていい。許可もらってるから」
 不意打ちで、硬くなった慧斗を撫でる。
「んっ」
 じわりと集まる感覚に、背中が浮いた。
「きょか、って…」
 反問は既に、うわ言の域を出ない。脇腹を撫でられて、また声が出る。
「遠慮なく度を失っていいわけだ」
「あ」
「俺たちは」
 そんなこと言って、まだ余裕があるのが憎らしくもある。睨みつけると、ほら、潜めるようなにやり笑い。
「目と手、どっちがいい?」
「わかんない」
 乾の腿を蹴る。
 笑いながらバランスを失った彼は、すぐに立ち直り、指先で慧斗の顎をくすぐり始めた。そう思ったのは一瞬で、ネクタイに指を入れられているのだとわかる。手品のようにするりと解き、一本の布になったそれを、やはり手品のようにわざとらしく伸ばしてみせた。
「目と手、どっちがいい?」
 もう一度訊かれて、ネクタイが、首元を飾るものでなくなったことを知らされる。熱い身体をさらに熱くさせるような想像。
「…選ぶの?」
「順番だけね。どっち、先にする?」
 耐え切れず瞑ってしまった目が、彼にとっての答えになったよう。なめらかな生地に視界を塞がれ、底なし沼のような闇に突き落とされる。乾を求めて掲げたはずの両腕が空を切った、それだけのことで、絶望に近い混乱を味わうことができる。
「あっ…」
「いるよ」
 上から降ってくる声を手繰るように、もう一度手を伸ばす。やがて彼は、確かな重みとなって慧斗を組み敷き、確かな動きで慧斗を愛撫し始めた。肌で追ういくつもの感触。次第に膨大になり、何か、とてつもない存在に抱かれているようにも感じて。
「ふっ、ぁ…」
「すごいな、ケート」
「はっ、あ、ゆーひ、さん」
 それが彼だと、名前を呼ぶことで確かめる。
「いい?」
「あっ、ん…っ」
 いつか、きりきりと痛みを伴う挿入を受け入れていた。

 

 台風のようなセックスが、やがて小休止を迎える。
 熱のこもったベッド、湿ったマットレス、よれよれのネクタイは右の手首に絡みついたまま。
 はあ、はあ、はあ…。
「これって」
「ん…?」
 むせ込みながらの呟きに、やはり苦しそうに呼吸しながら乾が応える。
「これって…意外とわかりやすく、男のロマンですね」
「お…批判的?」
「や、共感してる。してるから、なんか、こんななってんだろうなって」
 お互い、一糸纏わぬ姿になっている。一糸纏わぬ代わりに、白く濁ったデコレーションが、へそや腿や、唇なんかにもべっとりとあしらわれている。首を動かすと、散らばった衣服が、ベッドや床に波のような模様を描いていた。
「こんな、どろどろにな」
「うん…」
 長い腕が伸びて、髪を撫でられる。
「そういや…今、何時だ」
「えっと…まだ十二時前」
「少し寝よっか?」
「少し寝て、またする?」
「ロマンだからねえ」
 言いながらまた腕と腕を絡め、身体を入れ替えている。ちらりと見た窓の外は、きらきらの夜景。やがて白んで明ければ、魔法も解けるだろう。

END
乾さんの誕生日を一度も作品で祝っていないと気づき、なんだかとっても申し訳なくなって、急ごしらえですがアップしました。「プレゼントはわ・た・し」の応用編とでもいいましょうか。またの名を、男のロマン編とも。一応、「ジェミニの憂鬱」⇔「泳ぐ鳥」の間の、十月という時間設定です。さくっと短いものですが、お楽しみいただけたら幸いです。
遅くなったけど、乾さん、おめでと。ってことで。
(2007.10.22)
Category :