Novel >  KEITO >  ドレスコードノススメ1

1.

 親指の先が、脈打っている。平常より強く鼓動している心臓の影響だ。たった一行の短い文章を打つだけなのに、この、指先まで伝わる動揺に邪魔されている。

『no subject
誕生日おめでとうございます。』

 送信ボタンを押すと、あっさり、送信完了のメッセージが現れる。画面の左上に小さく刻まれた送信時刻23:32がシンメトリーだなんて、心の中で冗談めかしてみるけど。一日が二十四時間のサイクルで一カウントされる真理に、自分のような矮小な生き物が逆らうことはできない。十月十九日が残り三十分を切っている現実は、変わらなかった。
 絶対に忘れないように、何日も前から繰り返し唱えてきたのに。
 彼の誕生日を忘れないように、ではなくて、彼の誕生日を祝うのを忘れないように、だ。強調してみたって、言い訳する相手はここにいない。
 ――あ。手の中の携帯電話が震える。
 素早い返信…いや、返信とは限らない、これが何かのシナリオであったなら、まるで期待していない着信に肩透かしを食らわされることもありうる。ほんの一瞬、くだらない不安が頭をよぎったが、慌てて開いた画面に現れた乾雄飛の文字に、それも掻き消えた。

『RE:どうもありがとう
できれば肉声を希望します』

「だって」
 思わず、心の声が口から出る。一人で呟いたって意味がない、慧斗は通話ボタンを押し、コール音に耳を傾けた。
『はい』
 すぐに繋がった電話の向こうの、笑い出しそうな声。
「だって、もう遅いし、急に電話したら迷惑かなって思…」
『うんうん』
「あ、こんばんは」
『こんばんは。って、そんな焦んなくていいよ』
 笑い出しそうな声から、笑い声に変わる。携帯電話を握る手のひらが熱い。
「…遅くなってすいません」
『忘れてた?』
「や、忘れてたわけじゃないけど」
 勢い込んで否定したら、また、笑われた。
「なんか俺、ほんと、こういうのだめで…」
『おーい、なんで落ち込んでんの。それで?肉声のおめでとうは?言ってくれないの?』
 さらりと催促されるのにつられて、
「あ。おめでとうございます」
 さらりと、音声になる。失笑の息みたいなかすかな気配に右耳をくすぐられると、複雑な気恥ずかしさが遅れて追いてくる。こういうのも、だめ、なんだ。慧斗は袖口で頬をこすりながら、もう一度、声を潜めて言った。
「誕生日、おめでと」
『うん。ありがと。中村くんこそ、時間平気?』
「あ、うん、だいじょぶです」
 事務作業の合間に電話しているというか、電話の合間に事務作業をしているというか。狭い事務所に一人きりの自分を見張っているのは、パソコンの青白い画面の中、売り上げデータの羅列くらいだ。この分析・発注業務は、腰を据えてやらなければならない仕事の一つである。
 レジ番を久保に任せ、立ちっぱなしの接客に区切りをつけたのがついさっき。パイプ椅子に腰掛けた瞬間に、日付と時刻、それが意味することを思い出した。正確に言えば、思い出したのは煙草に火を点けてからで、一口も吸わないままのそれはくすぶり続け、先端の数センチを灰にしている。吸い口を指先で持ち上げると、ぽろりと崩れた。
「乾さん、何か…欲しいものとか」
『プレゼント?』
「うん」
 去年の誕生日祝いは、映画のチケット一枚で済まされたんだ。済まされた、って、ふつう祝う側が感じることじゃないと思う。その年の慧斗の誕生日プレゼントは指輪で、クリスマスに合わせて同じデザインのものを贈ったことで等価交換となったが、むしろそれだけが例外で、日ごろ慧斗に財布を出させない恋人だった。
『そうだなぁ。き、み』
「…もうあげてるじゃん」
 ――マサカソンナコロシモンクガキケルトハ。
「ごめん、なに?」
『何でもない。じゃあさ、今度の休み、どっかメシでも食い行こうか』
「それ、いつもと同じじゃないすか」
『ん?いつもと同じじゃないことのがいいか』
「え、そういう意味でもないけど」
 うっかり等価交換について思いを馳せていたら、いつものペースになっている。つまり、イニシアチブを取るのは乾。
『いつもと同じじゃないことね。考えておきます』
「や、言ってないって。つーか、俺が考えますよ」
『ちょーがつくほど苦手じゃん、きみ、そういうのも』
 図星を突かれた時、人は、黙る。
『まあ、また電話するよ。仕事中にありがとね』
「…ううん、全然」
 慧斗の仕事を慮ってだろう、乾は手短にまとめると、通話終了の合図を送る。途端にトーンダウンしてしまうのは、身勝手というものだ。もっと早く電話していれば、もう少し長く声を聞いていられたかもしれないのに。
『じゃあ、朝までがんばって』
「はは。乾さんも、明日、がんばって」
 穏やかに電話が切れた。

 

「中村さーん」
「え、わ、なに」
 思いがけず背後から呼ばれて、コントのようにパイプ椅子からずり落ちた自分。ドアから首だけ伸ばした久保が、しげしげとこちらを見ている。
「中村さんがオーバーリアクションした」
「…悪かったよ」
「貴重な映像っすね」
 おかしそうに笑うバイト店員から目を逸らし、慧斗は身体を起こした。
「何?レジ?」
「便所行く間だけお願いします」
「了解」
 事務所を出て、レジに入る。店内の客は四、五人で、誰も彼も、通路を巡りながらレジに来そうで来ない。レジの中でやることはないのだが、離れることもできない、一種の膠着状態だ。
 慧斗はぼんやりと片手に体重を載せながら、見るともなく、監視カメラのボディーを見上げた。

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