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5.

「馬鹿じゃないの」
「見たまま言っただけだろうが」
「その手の冗談、弟に言って楽しい?」
「馬鹿はお前だ、いいから見てこい」
 つまらない押し問答の果てに奥の扉を指さされ、それでも少し渋ってから崇は席を立つ。
 狭いトイレの狭い洗面台の前に立つと、濃いオレンジ色の明かりに照らされた、鏡の中の自分と目が合う。見慣れた平凡な顔。丈がそうしたように、Tシャツの襟元を引っ張ると、左側の鎖骨の下、ちょうど窪んだところに、確かにうっ血があった。
 思わず息が止まった――気がする。
 風呂場では裸眼だからとか、そういう現実的な事情を抜きにしても、まさか自分の皮膚にこんなものが残るなんて想像しないだろう。自慢でも自虐でもないが、今まで付けたことも付けられたこともない。しかし、そうであっても、なるほど見間違いようのないものなのだと初めて知る。虫刺されとか、知らずに掻いていたとか、そんなところだと思いたかったのに。指で押してみるが、痛くも痒くもなく、鏡から目を逸らしてしまえさえすれば存在を認識することもできないというのに、見えないからといってなかったことにはもうならない。
 見たのはほんの数秒、もしかしたら一瞬だったかもしれない、たったそれだけで脳裏にこびりついたイメージ。血判のようにそこへ押された、赤い跡だ。
「お帰り、色男」
 失笑と揶揄で震えた声に出迎えられる。崇は丈と目を合わせずカウンターの定位置に戻り、つるりとしたテーブルの木目に額をついた。
「何もなかったって言ってた」
 くぐもった自分の声が、頭蓋骨に響く。
「へえ」
 いや違う、彼は一度もそれを断言しなかったのではなかったか。正確には何と言ったっけ――そうだ、信じるか?と訊いてきたんだ。あったと言ったら信じるか、と、他愛のない言葉遊びをしかけるような調子で、歌でも口ずさむように笑って。それから、こう続けたのだ。
「俺はぐっすり寝てただけって」
「寝てたのはお前だけなんじゃねーの?」
 この兄の言葉は、いつでも精密な部位を打ち抜く。
「そうなんだろうか」
「俺が知るかよ。憶えてないのか?」
「酔ってた」
「なるほど。ま、本人に聞いてみりゃいい」
 それができれば悩みなどしない。
「甲斐性ないな、お前」
 甲斐性の塊のような男にはわからないだろう。顔立ち、体つき、性格、何一つ似ていないたった一人の兄。兄の存在はいつでも、羨ましくもあり誇らしくもあり、腹立たしく苦々しくもある。
「ばんわー」
 ガラリ、戸の開く音と同時に、陽気な声が店内に響く。
「よう、いらっしゃい」
 二人目の客が誰かは、顔を上げなくてもわかる。常連客には各々指定席があり、彼は少し離れたそこに腰掛けると、
「とりあえずビール!」
 と一際陽気に言った。
「崇さん、もう酔ってるの?」
 投げかけられた無邪気な問いに片手を挙げることで、肯定も否定もせずうやむやにしようと試みるも、カウンターの中で吹き出した兄に台無しにされる。
「なになにどうしたの?俺も混ぜてよ」
「丈」
「なんだよ、何も言ってないだろ」
「えー、なーにーなーにー、何話してたの?」
「――人魚姫の話」
 なにそれー、という声を手で払って、崇はのろのろと顔を上げた。目線の位置や角度からおそらく兄にしか見えないだろうと思いつつも、なんとなく襟元を隠したまま。
「お前もビールでいいのか?」
「……ウーロン茶」
「崇さん休肝日?」
「ん、まあね」
 吹き出しこそしなかったが、店主の口元は相変わらずにやついている。ビールジョッキ一つ、氷にウーロン茶を注いだグラスが一つ、それぞれの手元に置かれた。
「つまむもんは?」
「一番まずくないものから順に、三つくらい」
「あははは、俺も同じのでいいやー。じゃ、かんぱーい」
 兄弟間に険悪な空気が漂うのに構わず笑ってジョッキを掲げるので、同じようにグラスを掲げて応え、崇はウーロン茶を一口飲んだ。どこにでも売っているペットボトルのウーロン茶だ、うまくもまずくもない。
「……エディは、フジマルユキって知ってる?」
「知ってるに決まってんじゃん」
「決まってるのか」
「うん。商業デビュー前からファンでした。すっごい絵上手いんだよー、もう神だね神」
 金髪碧眼のスウェーデン人ハーフ、福来エディはその碧い瞳を輝かせた。人種的な要素を除いても、これほど整った容貌の男を自分は知らない――いや、知らなかった。藤丸のことを彼に尋ねたのは、その好奇心を満たしてやる前振りではない。エディが自他共に認めるオタクという種族で、ジャンルはミリタリーとアニメ漫画全般だということに期待しての質問だ。予想通りというか予想以上に、嬉しそうに語り始める。
「最初はキャラ絵で惚れたんだけど、キャラ以外の背景っていうかデッサンそのものがやばいんだよね。とんでもないアングルとかも平気で描くし、描く絵描く絵、ラフでも表紙レベルっていうか。さすがガチ美大出身者ってかんじでさ」
 いかにも詮索好きそうな男だが、彼には作家だということ以外は明かしていない。訊かれなかったから、というのが理由ではあるが、その神絵師と同じレーベルの作家だと知れたら、今は保たれている馴染みの呑み屋の常連客同士という距離感は変わってしまうかもしれない。読まれていないならいい、でももし高獅子ののめはつまらないとか思われていたら、少しばかり傷つくだろうし。
「――てかなんで?まさか会ったことあるとか?」
「……いや、噂聞いたから」
「あー、はいはい」
(まただ)
 この反応は、昨夜も何度か経験している。好意的とはいえない、苦笑だったり揶揄だったり。エディもやはり口角をほろ苦そうに上げて、でもさあ、と珍しく歯切れの悪い調子で言った。
「まあ、生主とか歌い手とか、絵師もそうだけど。ネット発信で一般人にもファンがつく時代でしょ。てか逆に、手の届く存在だからこそファンが群れるっていうか。人気ある人はほんと、ちょっとした芸能人並みだよ。その中でずば抜けて才能あってその上超絶イケメンだったら、そりゃあ周りはほっとかないだろうし、ご自由にお持ち帰りくださいっていうか、なるようになっちゃうっていうか」
 こちらに目線を寄越したことに他意はないとわかっていても、反射的に襟元を握った手から、すぐには力が抜けない。
「って、俺も噂で聞いただけだから、信憑性は全然ないけど」
 彼のジャッジが公平であってもなくても。くすぶり出した当事者意識に燃料がくべられ、ちりちりと焦げ付いているのがわかる。たとえば、終電を逃したエディを部屋に泊めたことは何回あったろうか。決まってお互い泥酔していたが、二日酔いとともに迎える朝は、頭痛や胸やけを除けばごく平和なものだった。普通そうだろう。今朝の目覚めもまた、さっきまではそうだったのに。
 コトリ、目の前に小鉢が出てくる。
 さっきから煮返していたのは、この大根と鶏肉の煮物らしい。次に、同じく煮返したさつま揚げと青菜の煮物、そして、キャベツと魚肉ソーセージのカレー粉炒め。
「ほらよ」
 促されるより前に箸を伸ばしていた。彩りを失った煮込み過ぎの青菜は、歯ごたえもなにもあったものではなく、しみじみと兄の手料理を噛み締めさせられる。
「ファンを食う有名人の話か?」
「身も蓋もないってば、丈さん。合意の上だし、たぶん」
 今まではそうだったかもしれない。と、皮肉っぽい気分になる。
 いや、まだ藤丸と決まったわけではない――なんて、酌量の余地は思いつく限りなくて。

 

 世間話を上の空で聞き流すのはいつものことだが。いつもなら執筆に最適なBGMも、今夜はどこか神経に障る。襟元を気にするのにも疲れた。
「丈」
「帰るのか」
「ん」
「なにしに来たんだよ」
「結果的には腹ごしらえだね」
 ウーロン茶一杯と濃い味ばかりの酒肴を少し腹に入れて、崇は早々に店を出た。

 

 真っ暗な玄関で靴を脱ぎ、手探りで廊下のスイッチを押す。パチン。崇を出迎えるリビングは当たり前に無人で、ほっとするのと同時に、奇妙によるべのない気分になる。リュックから取り出した端末の中の原稿は一行たりとも進んでおらず、無為に過ごした時間とその原因を思う。しかし、思うばかりで、感情の終着地点はぼんやりと見えないのだ。
 ふと思い出し、もう一度リュックに手を突っ込む。手のひらに収まる小さな塊、携帯電話は、電車の中で電源を落としたきりだった。用があるのなら、今頃固定電話の留守電ランプが灯っているはず。確認というより儀式的に電源をオンにすると、予想に反して、メールの着信があった。
 差出人名は、藤丸幸貴。件名は――
『藤丸です』
「知ってるよ」
 思わず声が出る。
 送信時刻は、世の中が昼から夕方に変わるあたり。ぐっすり眠っていた時間だ。
 メールを開くと、たっぷりした文面が現れた。

『昨日と今日、ありがとうございました。
 無事に帰れましたか?また乗り過ごしませんでした?笑
 こっちは帰りにちょっと回り道して、あの桜並木を歩きました。
 めっちゃキレイだった!そろそろ見納めかも。
 今年は花見あんまりできなかった~。
 写真送るので、一緒にエア花見しよ。笑笑
 ののめ先生とまた会えて、話せたことが夢みたいで、
 明日起きたらやっぱり夢オチなんじゃ。。。とか思ってます
 違うって言ってください!!!』

 そして、緑の葉が混じり始めた桜の樹から、ひらひらと花びらの落ちる写真。画面端には、形の良いピースサインが映り込んでいる。
 既に波紋の広がった水面に、もう一滴、粒が落ちた感覚。
 テンキーに親指をかける。
『夢だって言ったら、どうなる?』
 少し考えて、末尾を数文字消す。
『夢だって言ったら、信じる?』
 こんな、即興的な、まるで会話みたいなフレーズ、送った瞬間後悔するとわかっているのに。事実、送った瞬間後悔し、その気分ごとソファにでも放り投げてしまおうとしたが、制するように携帯電話が震える。早いにもほどがあるだろうと、差出人は疑わずに開く。
『信じないし夢じゃないし返事来たし』
 続けざまにもう一度震える。
『嬉しい』
 さらに一滴、だ。水たまりに、次々と雨が降る。
 鎖骨の下が熱い。
 崇は眼鏡を外してごしごしと顔を擦り、今度こそ携帯電話を放り投げた。

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