Novel >  ベイビー、ベイビー >  ジェミニの憂鬱4

4.

「仕事、辛くなかった?」
 カウンター越しに見える、腰から上の後姿に話しかける。既製サイズのキッチンは彼にとって全体的に低く、今も背中を丸めるようにして食器を洗っている。勢いよく出していた水を止め、ノアが振り返った。
「たまになら悪くないよ、睡魔と闘う一日も」
 鷹揚に笑う彼より、自分のほうがよほど眠そうな顔をしているんじゃないか。ふわ、と漏れた小さな欠伸を、クッションに押し付ける。
「なんか。ノアの分まで俺が寝てるみたい…」
「あはは、そうかもね」
 もしそうだったら少しは彼のためになるけど。実際は、寝不足のノアを差し置いて、一日中うとうとしていただけだ。再び流れ出す水音と、小ボリュームでかけたテレビの音をBGMに、たとえ皿洗いをしていても抜群のバックショットを鑑賞する。
「明日は休みなの?」
「うん、まあね」
「まあ、って、どうゆう意味?」
 摂の疑問に、カットソーの両肩を震わせたみたい。
「まさか一秒で自白させられることになるとは…」
「勘は良いんだ、俺」
「それは、よく知ってます。実は明日、バスケ部の練習試合があったんだけど。休んだんだ…もう取り消せないよ」
 ノアだってじゅうぶん、勘の良い男だ。先回りして摂の言葉を封じるくらいには。
「…平気?」
「俺は副顧問だから。顧問の先生に、ちゃんとお願いしました」
「そんなこと心配してないよ。堀込先生、生徒からのポイントは下がらない?」
「ちょっとくらいサボったほうが、ポイント上がるんじゃない?」
 この優等生然とした人物に、おっとり笑って言われたら、もしかしてそうかもなんて思えてしまう。バスケ部副顧問を土曜出勤させたい理由なんて一ミリだってない自分にとって、それ以上追求する必要はどこにもなかった。
 水音が止む。今度のそれは、皿洗いが完了した合図だ。タオルで拭いた手を、さらにチノパンの太股で拭きながら、ノアはカウンターを回ってリビングに戻って来た。
「さて、次は何を?」
 すっかりロールプレイングを楽しんでいる顔つきで、部屋を見回す。摂は少し考え、ノアの背後を指差した。
「じゃあ、お風呂のスイッチ入れてきてもらっていーい?」
「ええ、もちろん」
 頷くノアの顔に、理解の色が浮かぶ。ドクター命令により昨日は入浴を禁じられていたことを、彼は知っているのだ。自分のこと潔癖だと思ったことはないが、現代人として、一日一回くらいは入っておかないと落ち着かないものらしい。
 スイッチを入れてから十分程度で湯は溜まり、アラームが鳴る。
 摂の首からカラーを外し、右手首から包帯と湿布を外す大きな手は、家事には不慣れだが、職業柄か包帯の扱いには馴れている。手首に薄っすら赤くついた湿布の跡を、ゆっくりさすりながら微笑む。
「一人で平気?」
「平気じゃないって言ったら、一緒に入ってくれる?」
 ノアは冗談で言ったのだろう。対する摂の言葉が冗談かどうか判断するのは、彼でいい。短い目瞬きのあと緩んだ口元が彼の意思であり、委ねた自分はそれに従うだけだった。
「失礼」
 芝居がかった口調と手つきで、摂のTシャツをたくし上げる。力加減に従って自由な左腕を抜き、次に、慎重に右腕を抜く。彼はルームパンツの紐をほどき、摂の前に跪くと、
「つかまってて」
 肩に手を置かせて、左右の脚からそれを抜き取ってしまった。
「ねえ、複雑な気分」
「うん?なぜ?」
「どっちかってゆうと、介護されてるような気がしてきた…」
「はははっ」
 案外本気の想像は、盛大に笑い飛ばされる。けれど、しつこく肩で笑いながら、彼が下着のゴムに指をかければ、やはり気分は少し変わってくるのだった。
「カラーの時より慎重なんじゃない?」
 揶揄ってやると、
「お互いね」
 肩に置いた手に手を重ねられ、指に力が入っていたことを指摘される。あっさり逆襲されたってわけ。この首とこの右手が完全だったら、無理やり唇でも奪ってやるのに。逆襲の逆襲で肩口をつねると、彼は苦笑がちに…そう、それでもなお笑いながら、摂の下着を下ろした。左手を軽く持ち上げたエスコートのかたちのまま、バスルームのドアを開け、摂を通す。ノアはというと、チノパンの裾を膝まで上げると、靴下だけ脱ぎ、悠然とした顔で入ってくるのだ。
「なーんだ。全部脱ぐかと思って期待してたのに」
「…俺を野獣にしたいの?」
「……うん、悪くない」
「ぷりーず。挑発は、ほどほどに」
 生真面目に懇願され、椅子に座らされた。
 コックを捻ってシャワーの温度を調節すると、適温の湯を摂の身体に浴びせる。
「目を瞑って」
「息も止める?」
「んー、そのほうが安全かもしれない」
 真面目くさって答えるので、目を瞑って息を止める。頭からシャワーがかかり、何しろ俯くことすらできないので、湯は顔じゅうを伝って落ちる。シャンプーで洗う最中もきめの粗い泡がぽたぽたと目蓋の上や頬、時々耳にも伝ったが、それ以上の危機的状況は訪れず、コンディショナーまで終了。
 一度シャワーを止めると、ノアはスポンジでボディーソープを泡立てる。右肘を掴まれ、持ち上げられると、ふわふわと盛り上がる泡が触れた。
「あはは」
 弱々しいくらい優しい、イコール、くすぐったい。思わず笑ってしまう。腕、肩、胸、背中。太股、ふくらはぎ、足は指の間まで丁寧に。一つ一つパーツを磨くみたいに真剣で慎重、呼吸すら殺しているようだ。時間をかけて丁寧に丁寧に洗われるほど、いまだ触れられていないパーツに意識が集中していく。こうなってみて、今までの全部が準備だったんじゃないかって思えてしまうほど。
 泡まみれのノアの手が、摂の両腿の間でほんの少し硬度を高めていたものに添えられる。鑑定品にそうするような、うやうやしい手つきだ。もう片方の手で、側面を撫でられて。
「ん…」
 鼻声が、ぼんやりと浴室に反響する。もう一度側面を撫で、先端を指でなぞるから。
「ねえ…ノア?」
 求めるように腰を揺らし、彼の中の野獣に訴える。
「だめだよ、摂」
 野獣より、紳士の方が勝ったらしい。ノアは摂から手を離し、再びシャワーのコックを捻った。強めの水勢で泡を洗い流されながら、しかし摂は猛抗議する。
「待たない。発情期の猫じゃあるまいし、水かけたって治まらないもん」
 抗議を言葉で終わらせず、シャワーを強奪する。
「――Stop!」
 ノアは事態を察して小さく叫んだ。顔をそむけようとする彼に向けて、放出する。
「Please stop,Seth」
 困っていたって、リスニングテストのテープみたいにクリアな声。
「No way!」
 その最高にハンサムな弱り顔が面白くて、お願いされたって嫌だと、さらにシャワーヘッドを近づける。場面が一転して、シャワー合戦になったのは仕方ないことだろう。笑い合いながら、二人してびしょ濡れになった。
 結局ノアも衣服を脱がなければならなくなり、二人でバスタブに浸かる。プロポーションはスマートではあっても、キッチン同様、マンション既製サイズのバスタブには規格外の恋人だ。恐ろしく窮屈になるのだが、逞しい胸板は、摂の背中から首にかけてを支えてくれるクッションとしては最高級だった。それ以外にも、最高の感触を与えてくれてる。
「…ぁ、は」
 バスタブの下のほうで、大きく湯が揺れている。
 ゆっくり扱かれて、たぶん少しずつ出てると思うんだけど、そのねっとりした液体も何百倍…何千倍にも希釈されてしまえば感じられない。
「んっ、あ、ふ…」
 うっとりと、熱を集める快感を追いかける。尾てい骨より少し下、なんて際どい部分に当たっている彼のペニスも、すごく硬い。
「摂?」
「…ねっ、いく」
「うん」
 人差し指で引っ掻くように刺激され、
「んんーっ…」
 声と一緒に出した。

 

 眠くなるまでの時間、DVD鑑賞の続きに付き合ってもらう。昼寝をしすぎた摂にはいつまでも睡魔は訪れず、ノアのかすかな寝息を聞きながら、彼をクッションに深夜まで一人で観ていたというのが正確だけど。
 翌日、修理費の見積もり金額が電話で伝えられ、予定通り新車を買うことに決める。ノアの運転でディーラー店を訪れると、当然ながらカラーを指摘され、ついついストーリー立てて話してしまう自分がいた。以前から買い換えるならこれと漠然と思っていた車と、契約を済ます。車種も色も内装も、何から何まで自分好みにしたのだが、摂の相談を受けてノアが一点一点賛同するという過程が重要だった。土曜の半日はディーラー店で潰れ、あと半日は療養にあてざるを得ない。新たに別シリーズの海外ドラマを借りて、ひたすら鑑賞。字幕なしの副音声を、なかば聞き流しながら。
「ノアがいてくれてよかった」
「うん?」
 突然の呟きと、その内容に、休日モードを表す黒縁眼鏡の奥で目を瞬かせている。
「俺、この部屋に一人でいたってやることないもん。自分の無趣味と直面して、今頃すごーくストレスを抱えてたと思う」
「なるほど」
 少し茶化すような表情で、けれど穏やかに頷いてくれる。
「俺でも少しは役に立ってますか?」
「すごく、役に立ってる。ありがと」
 深く微笑んだノアが、額にキスを落とす。
「早く良くなりますように。毎日お祈りしましょう」
 Tシャツの中から取り出した十字架に口付けるから。唇が引き寄せられ、十字架を挟んだキスになる。当の神様は堪ったものじゃないと思うけど、効力がありそうな気がした。

 

 日曜の昼下がり、俄かに客を迎えることになる。
 彼の恋人がそうしたような遠慮がちな気配はなく、玄関に無遠慮なほどの靴音が響く。
「二見さーん」
「んー、聞こえてるよー」
 摂の気のない返事にも慣れたものだ、乾が勝手知ったる顔で上がりこんでくる。
「あ、どうも、お邪魔します」
「いえいえ」
 人見知り皆無の男が、ノアとも友好的に挨拶をしたことだけは褒めてやろうと思う。
「何しに来たの、ユーヒくん」
「いや、五体満足な俺を羨ましがらせようと思って。今日も頚椎カラーが麗しいですね、二見さん」
「…ムカツクなあ、特に敬語が。どうしよう、ノア」
 話を振られて、ノアは心底戸惑った顔になった。
「まあそれは置いといて。うちの子を顎で使ってくれてありがとう」
 口ぶりこそ変わらず冗談じみているが、乾が金曜の一件を面白く思っていないのは明白。もちろん、その程度で恐縮する理由はない。
「どういたしまして。慧斗くんだって楽しそうにしてたよ?」
「あの子にはあの子の言い分があると思います。な?」
「ん?」
 ひょい、と玄関を振り返る乾につられてそちらを見ると、靴も脱がずに立っている青年が一人。
「なんだ、慧斗くん。上がってよ」
 どこか居心地悪そうに肘をさすっているのは、自分が思い切り話題の中心になっているからだろう。あ、はい、とぼそりと呟いて、慧斗がリビングにやって来る。乾以上に背の高い第三の男に見下ろされ、無表情ながら戸惑っているのがわかる。
「乾、どこまで話してくれてる?」
「だいたいのことは」
「OK.慧斗くん、紹介するね。俺の恋人…どうぞ、ノア」
「ああ、うん。はじめまして、堀込です」
「あ、えっ…と、中村です」
 慧斗が言い終わるかどうかのタイミングで、堪えきれずといった様子でノアが吹き出した。横を向き、口元に拳を当て、空咳なんかして。
「失礼」
 笑われたり謝られたり、どちらも彼には身に憶えのないことだ。
「なに?」
 代わりに疑問を呈したのは乾で、自分達は二人がかりで、去年のクリスマスイブの出来事を説明することになった。
「あー、俺憶えてる。中村くんが、ハーゲンダッツ全種類とー、ゴム買った客がいたって。堀込さんだったんだ」
「まじで?ユーヒくんが憶えてて、慧斗くんは憶えてないんだ」
「や、そのお客さんのことは何となく憶えてるんですけど…顔とかは、全然」
 乾がずばりコンドームに触れたのに対して、言いにくそうな慧斗。とことん対照的なカップルだ。片手を挙げて、気にしないで、のジェスチャーをしたノアが、慧斗に笑いかける。
「憶えてなくて当然だと思うよ。あの日、遅くまで雪が降ってたでしょう。俺、帽子にマフラーにコートだったから。顔はほとんど出てなかったんじゃないかな」
「…あ。あ、そうですよね、なんか思い出してきた、かも」
 曖昧な答えに、やんわり頷くノア。少し、先生と生徒みたいな雰囲気がある。乾とノアだと、もっとわかりやすく「友達の恋人」っぽいスタンスが見えるかな。乾と自分は公私混同の先輩後輩だし、摂は慧斗相手だと親戚の兄みたいな気分にもなる。
 リビングに会した、自分を含めた四人の男。希望が理想的な形で叶ったことに、摂は満足のため息を吐いた。

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