Novel >  ベイビー、ベイビー >  ジェミニの憂鬱3

3.

 痛みと、それを抑える薬の効き目が、肉体でせめぎ合っている感覚。とでも言えばいいのだろうか。遠く断続的な痛みに眠りは浅いまま、早朝に一度目覚める。早朝、と言い切る根拠はなかったが、ぼんやりとした直感に任せて再び眠りに落ちたのだ。それから果たして何時間後か、それとも数分程度の時間経過だったのか、携帯電話の着信音が鳴る。サラリーマンとしての条件反射が摂を跳ね起きようとさせて、現実がそれを邪魔する。気持ちと身体の言い分に折り合いをつけながら、摂はゆっくりと上半身を起こした。
 ディスプレイに表示されていたのは、予測していなかった名前。仕事モードの起動を中止し、通話ボタンを押す。
「…もしもし?」
『あ。お早うございます…すいません、寝てました?』
「平気、平気。どうしたの?」
『乾さんから聞いて、事故ったって。だいじょぶですか?』
 ぼそぼそと喋る素っ気ない声色からは、彼の心配が伝わりにくいとはいえ。わざわざ電話をかけてきてくれた事実が、何よりの確証だ。
「心配してくれたんだ、ありがと」
 このタイミングで感謝されるとは思っていなかったのだろう、慧斗は少し戸惑ったように黙り込み、
『…や、全然』
 ややあって返ってきたのは、曖昧などういたしましてだった。
「乾から何て訊いたの?すっごいガセネタとか、掴まされてない?」
『え?あ、どうだろう…むち打ちと、右手の捻挫って。けっこうひどいんすか?』
 慧斗を経由しての意趣返しを疑ったのだが、症状に関して誤報はないようだ。勘が外れたとは思わない、乾はきっと、何かどうしようもないことを吹き込んでいるんだろう。ただしその恋人には罪のないことであり、摂は彼の質問にだけ答えることにした。
「とりあえず、月曜日にもう一度病院行くまでは、安静にって。週末全部つぶれちゃったよ」
 金、土、日、の三連休と言えば、素晴らしいフレーズにも聞こえる。休暇があって、自分があるならば。しかしその逆、療養のためだけに与えられた休暇で喜べというほうが無理な話だった。スピーカーの向こうで弾けた失笑に、ふとしたひらめきを得る。その控えめな音声が、退屈な一日の彩りを予感させる華やかなBGMのようにも感じられたのだ。
「慧斗くん、仕事明け?」
『あ、はい』
「これから何か予定ある?」
『や、別に、ないですけど』
 そう答えたことで、彼の運命は決定したのである。

 

 一時間ほど経ったろうか。
 それでも尚、テレビのプログラムは午前のワイドショーで、芸能人の結婚会見VTRをぼんやり眺めているこの病欠感といったらない。コメンテーターの声にかぶさるようにインターホンが鳴り、来訪者をエントランスへ通す。鍵は開いてるから、と言われていたって、戸惑うことに変わりはないのだろう。まるで忍び込むように物音を殺しながらドアを開き、
「お邪魔します…」
 囁く声がリビングまで届いた。
 声より遅れて現われたのは、緑と黄色のポロシャツに、浅い色のジーンズ、早くも初夏をイメージさせる軽装の青年だ。両手にビニール袋をいくつかぶら下げている。ソファーにもたれた摂と目が合うと、慧斗の涼しい表情に小さな笑みが浮かんだ。
「いらっしゃい。迷わなかった?」
「だいじょぶでした…相当痛そうですね、それ」
 顔をしかめて自分の首を撫でるので、摂もつられてカラーを撫でる。
「はは、これのせいで、余計痛そうに見えるよね」
「そうかも…でも痛いですよ、やっぱ」
 何故か決め付ける口調だ。本人もそれに気づいたらしく、ふっと目瞬きをして補足説明をする。
「あ。俺も、むち打ちやったことあって」
「えっ、そうなの?だいじょぶだった?」
「いや、全然大したことなかったんですけど、それでもしばらく痛かったから…」
 痛かったから、の後、まだ続きそうだったが、結局口にするのはやめたようだ。沈黙に繋がる余韻を引き取って、摂はテーブルの上に置かれたビニール袋に話題を移した。
「何買ってきてくれたの?」
「とりあえず食い物を…」
 袋を覗き込みながら呟く彼に、中身を質す。
「どんなのがあるの?」
「えーと、サンドイッチとか…ドリア、パスタ」
 言いながら取り出される、完成形の食品たち。彼の職場と同じマークのビニール袋だ。
「片手で食えるほうがいいかと思って。スプーンかフォークなら、左手でも楽だし」
 買い揃えられたメニューはどれも紛うことなき既製品ではあるが、チョイスの基準は理にかなっている。繊細かと思えば大雑把な、彼のキャラクターらしい。
「ありがと。優しいねえ、慧斗くん」
 ここでまた、答えあぐねたように口ごもる。もともと他人のペースは気にならないから、喋りにくいわけでは決してないけど。何となく、乾の気持ちを味わえるような気がするのは、こういう時だった。
「あ、そっちは?」
「飲み物と…あと、DVD、これでよかったですか?」
 摂が紅茶党であることを憶えていてくれたのだろうか、ストレートティーとミルクティーのペットボトルが、それぞれ一本ずつ。同じ袋に、レンタル屋のビニールケースを入れていたらしい。差し出されたケースのマジックテープを開けると、海外ドラマのDVDが数枚。ケーブルテレビで新シーズンが始まってから時折観ているドラマの、旧シーズン分だ。ミッションに忠実で、抜け番もない。
「色々お願い聞いてくれて、ありがとね」
「いいですよ、通り道だから」
「…あ。えっちなやつも頼めばよかった」
「ははっ、借りてきましょうか、今から」
 この手の冗談には強いみたい、あっさり笑って切り返された。
「慧斗くんは、ご飯食べた?」
「一応…軽く」
「また付き合ってくれる?」
 軽く頷いた慧斗に、テーブルをセットしてもらう。
 今比較しているのがそれぞれの典型だから、余計先入観が働くのか。箱入り息子がセットすればどことなく一家団欒のテーブル風に、一人暮らしの男子がセットすればどことなくワンルームアパートのテーブル風に見えてくる。なんて、文字通り見ているだけの身分なくせに、不謹慎なことを考えてしまった。
 乾との冗談が頭を過ぎらなかったと、欲望がうずかなかったと言えば嘘になるが、温めたドリアを自分の左手で自分の口に運ぶ。サンドイッチの角に噛み付きながら、慧斗が目を上げた。
「二見さん、車のフロント全壊だって聞いたんですけど…修理中ですか?」
「まだ見積もり出てないんだけど、修理するかは考え中。たぶん修理代だけで、軽の新車くらい買えちゃうと思うから」
「うわ…」
「どうしようかなあ。どうせ相手持ちじゃない?新車買う資金にしてもいいかもね。慧斗くんの好きな車買おうかな、何好き?」
 とか、また困らせて。
 食事を終え、念のためこの後の予定を尋ねたが、何もないと言うので。社交辞令は通用しないぞと、そのままDVD鑑賞に付き合ってもらう。二本目の途中で正午の鐘を聴き、収録された二話を見終わったところで、タイムアップ。深夜勤務を控えた慧斗には、これから睡眠が必要なのだった。
「あ、お金払わなきゃ」
「や、いらないです」
 曖昧な返事の多い彼が、こんな時だけはっきりした否定形で答えるから。
「じゃあ、変わりに乾に払ってもらおっか」
「…それとこれとはー」
「別?だと思うなら、俺からもらって?」
 居心地悪そうに視線を泳がせたが、抵抗を諦めたのだろう、摂の押し付けた紙幣を財布にしまった。
「お見送りできなくてごめんね」
「そんな、全然。ほんとお大事に」
 ちらりと目を伏せて笑い、慧斗は帰っていった。

 

 身体も頭も使わない状況ではカロリーもブドウ糖も減らず、空腹感は全く感じないのに。関係なく、痛みは強くなる。菓子パンひとかけらで鎮痛剤を飲み、DVD鑑賞再開を決め込もうとしたところで、携帯電話が鳴り出す。今度のそれは会社からで、摂の仕事を臨時で引き受けている同僚からの、確認の電話だ。その後も営業部、総務部、取引先と立て続けに何度も電話があり、ようやく携帯電話を手放したと思えば、保険会社の担当者が見舞いに現われる。玄関先だけでの応対で済んだが、それが終わる頃にはぐったりと疲労感に支配されていた。たかがこの程度で、この疲労感。まだ一日と休んでいないのに、社会復帰が不安になるではないか。自分を茶化すようにそんなことを考えていたのだが、弱っているのは事実、知らず知らずにうたた寝を始めていたみたい。
 ――ぼんやり聞こえる物音。
 一人でずっと部屋にいると、かすかな家鳴りにも敏感になり、やがて副作用的に鈍感になる。覚醒の向こうで響く音を突き止めようとする意思は湧かず、背中のクッションに深く身を沈めた時。消えかけの洗剤のような匂いが鼻先をかすめ、一瞬で摂の目を覚ました。
 アップで映るハンサムな顔が、驚いたように目瞬きをしている。
「…ノア」
 寝ぼけた声でそれだけ発した摂に、うん、とだけ答えて。彼の唇が頬に触れた。
「来てくれたの?」
「もちろん。来るって言ったでしょう?」
「うん。早かったね」
「そう?そうだね、まあ、遅くはないかな」
 ノアは言いあぐねたように笑って、壁掛け時計を振り返る。つられて時計を見ると、七時過ぎ。驚くほど早くはないが、遅くもない時間だった。ただ一つ言えるのは、ずいぶん長い間うたた寝していたということ。
「…また寝ちゃった。俺ってこんなに、いぎたなかったかなあ」
 思わずこぼすと、寝乱れた摂の前髪を指で払い、ノアが微笑む。
「スリーピング・ビューティーだね、今の摂」
「…オーロラ姫は包帯してないけど」
 他愛もない言葉でここまで気分が良くなるのは、そのための要素を有しているのが彼しかいないから。少し突き出した唇に唇が当たり、何十秒か密着して、離れた。
「一日じゅう大人しくしてましたか?」
「してた、してた」
「…その顔に、俺は騙されるべき?」
「あはは。あのね、午前中から慧斗くんが来てくれてたんだ」
「I see」
 摂の上機嫌を理解した相槌だろう。お気に入りのコンビニ店員の話を、彼は何度も聞かされている。二人に顔見知りと呼べるほどの関係性はないのだが、奇妙な偶然で、ノアは慧斗の働く店に客として入ったことがあるのだ。去年のクリスマス・イブの出来事で、サンタクロースが買ったのはカップアイスの全フレーバーと、紳士のたしなみ。その時レジにいた店員は、特徴から照らし合わせて慧斗本人で間違いない。後になってそうと知ったノアはただ笑っていただけだったし、実際、自分達にとっては笑い話でしかない。もちろん慧斗には、預かり知らないことだった。
「楽しかったのはわかるけど、無理してない?」
「してないよ」
「痛みは?」
「酷くはないけど…」
 その後を濁して笑うと、大きな手が慎重な動作で、摂の右手を持ち上げた。
「今夜は泊まるよ」
「…ほんと?嬉しい」
 週末の療養に、こうなったら感謝すべきだと思う。明日が土曜日でなければ、ノアからこんなせりふは聞けない。思わず緩んだ唇が、スマイルの形になる。彼も同じように唇で、小さく笑い返した。
「明日もね」
「んっ?」
「明日も、泊まります、そのまま」
 文節を区切って伝えられた言葉はやはり、聞き返すほど難解なものではなくて。
「…ご両親には、何て?」
 つきっきりで看病を、と、ふざけて言ったのは自分だけど。
 嬉しい、と即答できない理由は色々あって、その筆頭が彼の愛する…彼を愛する両親のことだ。摂がそうである以上にノアはクローゼットで、そんな彼が週末を留守にするための口実って、何があるんだろう。
「摂が困ってるからって。ただ、それだけ」
 摂の心を読んだような、シンプルな響き。
「さんきゅー、べいびー」
 不自由な右手でシャープな頬を叩くように撫でると、彼は喉の奥で笑った。

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