3.
またね、と、別れ際の挨拶は確かそんなふうだったと思う。翌日に店を訪れた時の、慧斗の顔は印象的だった。二度と来ないと言った憶えはなかったが、彼がそうは考えなかったからといって、もちろん責められるものではない。驚きや疑問が錯綜しつつ、それを抑える努力をしているといった感じ、総括すると表情に困った様子で、慧斗はレジの中で肩を縮めていた。
彼が、前日の光景とそれに伴ういくつかの事実について、少なくとも乾に対して引け目を持つ必要はない。しかし、気にするなとか気にしていないとか白々しく言ったところで、気休めにもならないどころか、言葉にした分だけまた彼が傷つかないとも限らない。乾の意思を表明する方法、つまり慧斗を敬遠するような変化は何もないのだと表明する最も直接的で効果的な方法は、実際に変わらず来店を続けることだった。
翌々日も顔を出し、今夜は慧斗の定休日なので、コンビニへは寄らずに帰宅した。
ワンルームマンションの手狭なユニットバスで、手短にシャワーを浴びる。バスタブの横にトイレという空間レイアウトに最初から拒否反応はなく、狭さ以外への不満を持ったことはない。首にタオルを引っ掛け、スウェットのズボンを履いただけの格好で、冷蔵庫の前に屈み込む。缶ビールとミネラルウォーターがほとんどを占める、我ながら生活感に欠ける冷蔵庫だ。それもそのはずで、転勤して来てからまだ一度も、まともに自炊をしていない。
缶ビールを一本抜き出し、プルタブを開けつつ、入り口を塞ぐようにあったダンボールを足で退かす。ガムテープこそ剥がしてあるものの、箱には衣類が詰まっていて、現時点ではそこから直接衣服を取り出している。他にもいくつもダンボールが残っており、見た目何となく整然と積んではあっても、それが最終形態ではないことはよくわかっている。自炊はおろか、引越し後の荷解きも終わっていないのが、現状。夏までにはなんとかしようと、漠然とは考えているのだ。
テーブルから煙草を拾い上げ、そのままベランダへ。引越し経験が重なる中で自然と、喫煙場所を換気扇の下とベランダに限定するようになった。ヤニで室内が汚れたり、臭いが染み付いたりすると、引き払う際に余計な面倒が多くなる。だったら煙草やめたらとの諫言は、受け付けないことにしていた。
裸の上半身を、生ぬるい風が撫でる。乾はまずビールを一口飲んで、それから、煙草に火を点けた。
気にするなとか気にしていないとか言うつもりはないのだが、気にしていないわけではないのも事実。気になるという感覚に理屈をつけるのは簡単で、どれもお気に入りの店員に常連客が感じることの範疇を出ない。ただ、理屈のつかない部分については――そんな部分があるのかどうかも含めて、二、三日考えただけでは答えが見えない。彼の恋人とのことや、目線の意味のこと以前に、もっと単純に慧斗自身のことを考える。それも彼の人格そのものではなく、自分から見た慧斗のことが、たとえば煙草を吸う一瞬に浮かび、尾を引いて残るのだった。
翌朝目覚めると、気だるさを感じる。風邪を引いたというか、悪化させたというか。きっかけは数日前の土砂降り、決め手はおそらく、昨夜風呂上りに裸で夜風に吹かれたせいだろう。
「ちょっと前もそんなこと言ってなかった?体調管理ができないねえ、お前」
具合悪い、とこぼすと、二見からは苦笑混じりではあったが厳しい一言が返ってくる。
「…だって、風邪引いたもんはしょうがないじゃん」
時間が経つにつれて体調はゆるやかに、しかし確実に悪化している。テーブルに突っ伏しながらため息を吐くと、頭を小突かれた。
「だってじゃない。そうならないように気をつけろって言ってんの、俺は。今日は早く寝て、ちゃーんと土日で治してこいよ?」
小突いた頭を今度は撫でて、
「送ってあげようか」
やはり笑いながら二見が言う。仕事には厳しくても、基本的には後輩に優しい男だ。
「ん、いい。ぶらぶら帰るわ」
あと三十分くらいならどうとでも潰せるだろうと、考えているのはつまりそういうことなので。
「OK、じゃ、出よっか」
当たり前の顔で伝票を拾い、二見が会計に向かう。しょっちゅうこうやって飯を食べたりする間柄なのだが、乾に割り勘の経験はほとんどない。奢り癖とでも言ったらいいのか、この男を前にして財布を出すのが不可能に近いほど困難であることは、何年か付き合えば嫌でも納得するしかなかった。
店の前で二見と別れ、彼は店の裏のコインパーキングへ、乾はまっすぐ駅の方へ歩く。駅へ、ではなく駅の方へ、なのは、目的がそこを通り過ぎたコンビニにあるからだ。
ぶらぶら歩いてもやや早く到着し、週刊コミック誌を読みながら、関係者以外立ち入り禁止の扉から慧斗が出てくるのを横目で発見する。雑誌を戻し、一番高い栄養ドリンクを一本取ると、レジに向かった。
そう簡単に消える屈託ではないのだろう、どこか考え込むような慧斗に声を掛けて、注意を引く。
「接客してよ、接客」
「あ、すいません」
長い前髪の奥で、我に返ったような目瞬き。
「元気ない?」
「そんなこと、ないです」
言葉と裏腹の硬い微笑、それさえすぐに引っ込めて、慧斗はレジ台の栄養ドリンクを一瞥した。風邪引きました?とぽつりと訊かれ、肯定すると、バーコードチェッカーを当てながらさらに呟く。
「つうか。栄養ドリンクで風邪治んないっすよ…」
乾が風邪を引いたという理由で栄養ドリンクを買うのが初めてでないことを、どうやら憶えていたようだ。
「虚弱体質なんだよねえ、すぐ風邪ひく」
「熱は、だいじょぶなんですか」
「計ってないもん。煙草はー、やめとこう。中村くんは?平熱どれくらい?」
「…三十五度ちょいくらいですけど」
なぜ訊かれたのか釈然としない、といった顔で、それでも律儀に慧斗が答える。あまりにイメージどおりの低体温に思わず感心しながら、質問の理由を明かすべく、左手を自分の額、右手を慧斗の額に当てた。
「――うーん、わからん」
結論から言うと、そういうことではあった。
慧斗の体温を基準に比較してみようという試みだったが、伝わる温度は全て温かく、手のひらの温度なのか額の温度なのかもまるで判然としない。わかったのは、慧斗の額のさらりとした感触と、触れた後の純情な反応が仮定を裏付ける種類のものであることくらい。風邪のせいと済ませるには、あくどい手口だったかもしれない。
「ごめんごめん」
謝罪する乾に、しきりに額を擦りながら慧斗が首を振る。
「じゃなくて…たぶん、すごい熱。手、熱かったんで」
「そう?」
指摘されても実感できず、手を握ったり開いたりしてみる。
「休んだほうがいいと思います」
「人から言われると、ほんとに辛くなってくるよね」
気遣う慧斗に笑いながらそれだけ返して、ビニール袋と釣り銭を受け取る。じゃあ、と片手を挙げ、乾は店を出た。
夜の気温が、頬に心地よい。
いよいよ具合が悪くなってきているのも、感じる。歩きながらでも栄養ドリンクを飲もうかとぼんやり考えていると、背後から夜風のように涼やかな声に呼び止められた。
「乾さん」
振り返った先には、コンビニの明かりが逆光になった慧斗。駐車場の隅を指差している。
「あの。原付の後ろでよかったら、乗ってきませんか。送りますよ」
指先の示す場所には、言葉どおり原付バイクが一台停まっていた。
送ってあげよう、という鷹揚な言い方もあれば、乗ってきませんか、なんて誘い方もある。
一度目は断る理由があり、二度目にはそれがなかった。しかしまさかこんな展開があるなんてと、可笑しいような驚くような気分だ。
当然ながら一人分しかヘルメットはなく、どちらか一人が装着するという選択は却下する。それ以前に原付バイクの二人乗りという時点でアウトなのだし。ノーヘルの二人乗りを、慧斗は見つからなければ平気だろうとあっさり言ってのけた。
「家、どの辺ですか?」
エンジンをかけながら背中で尋ね、乾の答えに頷くとバイクを発進させる。手を乗せた肩はやはり骨ばった華奢さであったとか、髪から煙草の匂いがしたとか、憶えているのはそんなことばかりだ。ああ煙草を吸うのかと、少し意外に感じもした。
ぼうっと意識が遠のこうとするたび、努力して引き戻し、アパートまでのナビをなんとか終える。時給分として出した千円札を固辞した彼は、その場で病人の世話から解放されるチャンスを逸したとも言えるだろう。
「うちにコーヒーある、缶の。せめて持ってってよ」
「や、ほんとに…」
「タクシー代、どっちか選んでね」
現金支給が嫌なら物資を受け取れと半ば強要したかたちではあるが、口ごもっていた慧斗は促されると、諦めたように乾の後に続いたのだった。
ドアを開け、ネクタイを解きながら部屋の電気を点ける。体温計は、どこだったろうか。
「薬とか、ないんすか」
奥へ入って来る気はないのか、玄関あたりから慧斗の声がする。冷蔵庫の扉のポケットが薬箱代わりになっているのだと返事をして、発見した体温計を脇に挟む。ベッドに腰掛けて待つことすぐに、デジタル音が鳴った。
「熱、計りました?」
いつの間にか、目の前に慧斗が立っている。見上げると、居心地悪そうに視線を左右に揺らした。
「三十八度二分、死ぬかも」
「死なないですよ…薬、これでいいすか」
子供の頃以来見ることのなかった数字に、自分ではかなりショックを受けているのだが、慧斗の応えには同情のかけらもない。ただ、弱っている時、冷静に対応されるとそれはそれで気分が楽になるらしい。乾は差し出された風邪薬を、多少ぬるくなった栄養ドリンクで流し込んだ。
同じく冷蔵庫から出してきてくれたらしい、一応、と言いながら慧斗がミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置く。
「こうゆうの、馴れてるかんじだね」
「…全然」
彼にはどうやら、謝礼や褒め言葉を否定(それも全力で)する癖があるようだった。
「そ?あ、コーヒーあった?」
招いた理由を思い出した乾に、こくりと頷く。
「寝てください。俺、電気消して帰りますんで」
「…今ごろ気付いたんだけど、うつったらごめん」
これには噴き出す寸前の顔で笑い、もう一度小さく頷く。同じように頷き返して、乾は遠慮なくベッドに潜り込むことにした。身体はとにかく休息を必要としていたらしく、圧し掛かるだるさに押さえつけられるように横たわる。眠りへの導入は重くも短く、頭の回転はすぐに止まる。だから、それから再び目を開けるまでにどれくらい時間が経っていたのか、それとも一秒足らずのことだったのか、実のところよくわからない。
夢を見ていた気もする。
突然鳴り響いた携帯電話の音が、乾を無意識の行動に駆り立てた。慌てて枕元のシーツを手探るのだが、定位置周辺で硬い物体にぶつかることはなく、そういえば帰宅するなり何の仕度もせずに寝たのだったと目を開ける。
部屋の天井が見えるだけのはずの視界いっぱいに、慧斗の顔があった。
驚いて見返すと、しばらくそれを受け止めていた深い色の目が、ふいっと伏せられる。逃れていくと思ったのだが、予想は、真逆の方向に裏切られた。
近づく睫毛、近づく息――触れた唇。
アクシデントではあり得ない、意思に基づいた行為だということは、触れたあとも離れずに角度を探すような動きや、やがて探り当てた角度からゆっくりと吸い付く力が雄弁に語っている。
濃厚なキスを知っている唇だ。
そう思わせるだけの施しをして、ゆっくりと、離れていく。
「…すいません」
「…うん」
「すいませんでした」
ひどく動転したトーンで繰り返しながら、唇を、手の甲に押し当てている。
「あの、お大事に」
最後、早口にそれだけ言って、慧斗は部屋から駆け出した。
掴もうとしたものを失って、空を切った自分の手。あと一瞬早く立ち直っていたら、きっと、この手の中に慧斗の腕があったろう。掴まえて、どうするつもりだったというのか。
理屈ではなかった。自分をそれに突き動かしたのは、たぶん、衝動でしかなかったから。