1.
「あとね、煙草、いつもの」
追加注文にこくりと小さく頷くと、無造作に下ろした長めの前髪が揺れる。彼が背後の陳列棚から、いつもの、マイセンライトを一箱抜き取る仕草を眺める。軽めの煙草だが、常用するにはこれくらいがちょうどいい。レジで必ず注文する煙草は、その内に、銘柄を言わなくても取ってもらえるようになった。
「昼間、外暑かったなあ。知ってる?」
「や。寝てました」
「だよね。でも寝てて正解だよ、中村くん」
「正解ってか…いつもですけど」
ややうねるように緩く癖づいた前髪の隙間から、髪の色と同じく深い黒色の瞳が覗く。宿っているのは、どこか面白がるふうな光。しかし彼は、わずかに和ませた表情を、最初からなかったもののように惜しげもなく消して、素早くレジを打つのだった。
「…420円のお返しです」
居酒屋帰り、誘蛾灯に惹かれる虫のように夜のコンビニに立ち寄る行為自体は、まったく珍しいことではない。珍しい事実を挙げるとしたら、駅前にいくつもあるコンビニのうちでは、初めて入った店だったということくらいだろう。
重ねた運搬用ケースの陰にしゃがみ込んで、黙々とジュースを補充していた店員に呼びかけると、胡乱げに顔を上げた。新発売の紅茶の味について問うと、わずかに考え込んだようだったかもしれない彼は、その後淡々と、飲んだことはないが女性客には人気であると答え、結局は自分で確かめるしかないという結論を乾に抱かせたのだった。
制服の胸元に「中村慧斗」の名札を付けた、一言で言って愛想のない、二十歳そこそこの店員。現在営業職にある自分からしてみれば不安にさえなる接客態度だったが、手さばきが非常に手馴れていたのは印象深かった。
紅茶と煙草を買う間、彼にあれこれ話しかけたのは、酔いのせいよりは持ち前の性格によるところが大きい。見知らぬコンビニ店員に話しかけるくらいのことには抵抗がない、生まれつき人見知りとは無縁の性格だから。差して来た寿命間近のビニール傘を彼に譲渡したのは、しかしながら、おそらく酔いのせいだろう――小雨の中を濡れて帰るのは、酔いざまし以上の効果があった。
四月の終わりに、関東圏の支社から、副本社とも言える本社に次いで大きな支社に転勤してきた。
技術系志望で入社したものの営業部に配属され、入社から三年で三回目の転勤だった。就職まで地元を出なかった自分だが、この三年で、生活環境の変化への順応能力も相当上がった。今回は全国屈指の地方都市とあって、生活に関する不便はないどころか前より便利になったくらいだ。転勤から二ヶ月弱、既に馴染んだ気さえする、暮らしやすい街だった。
「こないだ言ってた…中村なにくんだったっけ、名前」
向かい合って座る人物が、ビールジョッキに口をつけながら首を傾げる。
「慧斗。けいと、の、けい、が難しい」
「どーゆー字?」
「いや、難しくて書けん」
ぞんざいに答える後輩を咎めるでもなく、ふうん、と、やはり笑ってビールを呷るのは、新人研修後に配属された本社の営業部で教育担当者だった、二期上の先輩だ。四分の一アメリカ人という周囲との差異を除いても美形の部類、その上エリートを地で行く営業マンという、性格以外は申し分のない人物がこの二見という男である。先輩であり友人でもある彼が、慣れない職場にいてくれたのは、面と向かって言うリスクは冒したくないものの幸運だったと思う。
「いつも夜勤なの?」
「みたいね。バイト四年目だってさ。九時から朝まで。んで、水曜定休」
「…よく聞き出すよねえ、お前」
「話しかければ答えてくれるんだよ。つーか、俺から話しかけなきゃ、ほんとに何にも喋んないんだけど」
中村慧斗は、学生時代に始めたバイトが今は本業という、駅前のコンビニ店員だ。その存在が動機となって、彼のいる店を、残業帰りに立ち寄る指定コンビニとして決定してから約一ヶ月。今も第一印象からそう変化のない無口さと無愛想さが、彼独特のキャラクターだ。ただ、無口というより口下手、無愛想というよりはむやみに媚びないだけ、ということに気づいた一ヶ月でもある。そのクールさがサービス業において適正かどうか、は、ともかく。
「すっかりお気に入りだね」
「まあね」
社屋もまた駅前の高層ビルにあるのだが、純粋に帰りがけに寄るには、実は微妙に無駄な経路が発生する位置関係でもある。とは言えほんの数十メートルのレベルで、その程度のロスを気にする理由がないのは、総括すればまさに二見の言うとおりだから。計算どおりにいかない、当たり外れのわからないくじ引きのような楽しさが、慧斗にはあると思う。
軽く頷いた二見が、微笑をフライドポテトに落とす。
「突然話しかけて、名前聞いて、傘とか貸してあげちゃって」
「ん?」
「それとなくシフト確認したかと思えば、いつの間にか定休日までチェック済み、と。しかも、仲良く話してるみたいな言い方じゃん」
ちらりとフライドポテトから上げられた目には、人の悪い揶揄の色が浮かんでいる。
「それって結構、真っ当な、恋愛のステップじゃない?」
思わずがくりと頬杖が折れるような揶揄に、思わず、反論から力が抜けてしまった。
「――あのなあ。あんたと一緒にしないでくれません?」
「誰も”俺と一緒”だとは言ってないだろ。”普通の男”はさ、そうやって、手順踏んでお近づきになってくもんじゃないの?って言ってんの」
二見は乾に対して、自らのセクシャリティーを打ち明けている。いや、打ち明けたというのは当時の状況と少し違う。自分は偶然それを知り、彼の恋愛の清算に手を貸した経緯が過去にあるのだ。この手の冗談は、だから、この男が言った場合単なる冗談の範疇を超えるような気がしてしまう。
「で?次は?たまたま手に入った映画のチケット?いつマドンナに渡すの?」
古典的なセオリーを踏襲するならば、と、けしかける二見の瞳が悪戯っぽく輝いている。そう、この性格、これが彼の欠点だった。
「はいはい。もしくはライブのチケットね。洋楽詳しいっぽいし、音楽好きにはそっちのがいいかもなあ」
オアシスが好きだと、今日知った最新の情報だ。
「あれ、ほんとに渡す気?」
「んなわけないだろ。乗っかってあげたんじゃん、二見さんの冗談に」
「なーんだ」
「あ。ステップと言えば、あんたはどうなんですか。M電との取引」
「んー?まあ、ね」
曖昧な返事一つで、二見は再びビールを呷る。彼はつまり、それを武器にしないほうがおかしい、美貌の営業マンだから。取引相手の役職者と、このまま行けば必要以上に親密な関係になるであろうことを、今までの第三者的立場としての経験が漠然と予想させている。
「ま、俺のことはいいじゃん」
「言ってることとやってることが、違いすぎ」
批判してやっても、あはは、と彼は悪びれずに笑うだけだった。
遅い晩飯代わりの酒席を、零時を回ったのを理由に切り上げる。
駅までぶらぶらと並んで歩き、後は、二見はタクシーで、徒歩通勤の自分はターミナル駅を突っ切って西口側のアパートへ戻るだけだったのだが。慧斗の顔が見てみたいという二見のしつこい要望に応じて、自分にとっては本日二度目のコンビニへ寄ることになった。
レジの中ではなく外に目当ての店員はいて、ヴィンテージ風のジーンズを褒めると、さっさと引っ込んでしまう。表情のレパートリーが少ない彼だが、目にかかるほど伸ばした前髪が、そう思わせる原因に一役買っている気がする。その前髪に隠れた目が、ちらりと、乾の横に立つ男を不審そうに窺った。
「…どうしたんすか、また」
端的な質問に、一緒に呑んだ帰りなのだと二見のことを説明する。黙ったままにっこりと慧斗を見ていた二見だったが、黙ったままでいてくれた時間は短かった。
「マドンナ?」
「……はい?」
「ユーヒくんのお気に入り?」
「あの」
続けざまに身に覚えのないことを訊かれ、慧斗から困惑のオーラが立ち昇ったよう。
「困ってんじゃん、中村くんが」
呆れて二見の肩を押しやると、
「ユーヒくん、アイス食いたい」
さらに乾を呆れさせる、酔っ払いの我がままを繰り出す。酒が好き、という部分は共通だが、乾自身は弱くも強くもなく、二見の場合はどちらかと言えば弱いのだった。
「はいはい、好きなの選んでおいで」
もう一度二見を押しやり、ゆっくりとアイスコーナーへ歩いていく彼の後姿を見送ってからレジに向き直ると、慧斗は二見ではなく乾を見ていた。ただ見ていたというより、もう少し意思があるように感じたのは一瞬。深淵をイメージさせる、意味を探りたくなるような視線はあっけなく、レジが鳴らした小さなアラーム音に遮られた。慧斗はふと顔を逸らし、別の店員に何やら指示を出し始める。N便撤収。
「ユーキって、言うんですね」
どうやら弁当の回収のことを指す用語らしい。そちらに気を取られていたせいで、ぽつりと下方から呟かれた声に反応が遅れた。
「んっ?」
我に返って慧斗を見下ろすと、
「…あ、名前」
少し居心地悪そうに言って唇を結ぶ。ああ、そうか、彼にはそう聞こえたのか。違うよと答えてやると、さらに居心地の悪そうな顔をするから。
「ユー、ヒ、と言います。雄に、飛ぶで、ユーヒ」
「よかったね」
棒アイスをタクトのように小さく振りながら、二見が振り返る。車道から届いたヘッドライトに、口角の持ち上がった完璧な笑顔が浮かんで消えた。
「下の名前、憶えてもらえて」
…わざとだったのか。わざとらしく、人の名前を呼ぶとは思っていたが。
シャク、駄菓子のアイスに噛み付くと、氷のざらついた食感と、柚子のほろ苦い甘味が、口の中にひんやりと広がる。
「感謝してくれてもいいよ?」
「何にだよ」
ふっと笑って、もう一口噛む。
大股に一歩踏み出し、二見と肩を並べると、同じようにアイスに噛み付きながら横目で見上げてくる。
「でもあの子、可愛いね。俺に話しかけられて、ちょー困ってたよ」
「だろ。つい構いたくなるんだよな。最初に比べれば、ずいぶん心を開くようになったんだぜ、あれで」
二見に向けた、迷惑そうで鬱陶しそうな困惑顔と、そのあと自分に向けた、ほっとしたような顔。一瞬見えたテリトリーの外と内の線引きは、ただそれだけのことだが、今までにない手応でもあった。
「なにげにSだしねえ、お前」
「そうそう」
その、時折向けられる意味ある視線の中に、かすかなひたむきさを感じるようになったのは、一方的な受信ミスなのだろうか。
本編での慧斗の、せっかくなのでできるだけあずかり知らない部分を中心に(笑)、ざっくりとした構成にはなりますが、お送りする予定です。
(2008.8.13)