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6.

 ジーンズのファスナーを上げ、ベルトの金具を嵌める。左の人差し指に指輪を通して、手首にはブレスレット。鏡を見ながら、一つずつピアスをつける。最後のホールに挿し込んで留め、携帯電話を取り上げた。
 数回のコールで繋がる。
『何?』
 第一声から、用件を促すような言い方。聞く側の気持ち次第で、素っ気なくも温かくも感じるトーンだ。
「会いたいんだけど」
 緊張してしまったせいで、怒った声になる。電話の向こうで、信広が苦笑した。
『今、人と会ってんだけど?』
「女?」
『まぁね』
 日曜の昼間に会ってるくらいだから、気に入ってる女…本命なのかも。ワックスで揉んだ毛先を鏡の中で動かしながら、尋ねる。
「どこにいるの?」
『お前、俺の話聞いてた?』
「話したいの。ねー、どこ?」
 一方的に用件を押し通す水兎に、信広が軽いため息を電波に乗せて届ける。ややあって告げられたのは、駅から程近いコーヒーショップだった。上手くいけば、三十分くらいで着くだろう。電話を切って、もう一度、毛先を直す。黒のジップアップパーカーに袖を通しながら、水兎は部屋を出た。

 

 電車を降りて、人でごった返す構内を、目的の出口の方向に抜ける。外もやはり混雑していて、どちらか一瞬迷ったが、横断歩道ではなく歩道橋を渡ることにした。交差点の一角にあるビルの、一階にそのコーヒーショップが入っている。遠くからでもコーヒーの匂いが漂っていたが、中に入ると強烈なくらい。オーダーはせずそのまま、奥に向かった。
 窓際に連なるカウンター席が、彼の座るそのごく一部だけ、雑誌の一ページみたいになっている。連れの女も、いつでもそうだけど、この人もハイレベル。信広は水兎に気づくと、吸いさしの煙草を挟んだ手を軽く上げた。
「で、何の用?」
「二人になりたい」
 質問には答えず、それだけ言う。かすかに渋い顔をし、引かない水兎を持て余すようにしばらく押し黙った彼が、隣の女の背中に手を当てた。
「悪ぃ、ちょっとこいつと話すわ」
 彼女は完璧なメイクの眉をひそめて、その信広の腕を両手で掴む。
「ちょっとって…映画は?」
「一本ずらすか。俺から連絡するから、外して?」
 甘えるような言い方だが、実際ほとんど命令形。
「…わかった。早くね」
 物言いたげな視線を水兎に送り、それでも暴言を吐くわけでもなく女が席を立つ。彼女の後姿を横目で見送っていた信広が、わざとらしい口調で呟いた。
「お前サイテー」
 水兎は構わず、彼の隣に腰掛ける。
「俺怒ってんだけど」
「俺だって怒ってるよ。ドアへこませやがって」
 一瞬で、水兎がブーツの底でドアを蹴りやった場面まで時間が巻き戻る。そう、あの後も会話を続けたなら、きっとこんなふうだったろう。
「ノブヒロさんが悪ぃんじゃん」
「何でだよ」
 信広が少し苛立ったように笑うので、水兎もむきになる。
「キスした、俺に」
「お前がしろって言ったんだろ?」
「言ってねえよ。そんなこともわかんねーの?」
 テーブルの下で彼の足を蹴ると、信広は大げさに顔をしかめて、片手で額を覆った。
「うわ…お前めんどくせー」
「あんたが無神経なんだよ」
「そうゆうお前の、さっきのアレは無神経じゃねえの?」
 言っているのは、追い払った女のことだろう。確かに今も水兎の前にはトレイがあり、少し泡の残った白いカップと、クッキーが置かれたままだけど。
「ねー俺の言ったこと憶えてる?俺、好きって言ったよね?俺には妨害する権利があるし、ノブヒロさんには妨害される義務があんの」
「お前なぁ」
「俺本気だから。こないだはぐらかせたと思ってんなら、なかったことにしようとしてんなら、無駄だから」
「ミト」
「何?」
「うるさい」
 突然。ひょい、と、小粒クッキーを摘んで、水兎の唇に押し付ける。思わず受け入れてしまい、歯を立てると、シナモンの味が広がった。
「この曲好きなんだよ」
 急に何を言い出すんだろう。ざわめきに紛れたBGMに耳を澄ますと、洋楽…音の感じが九十年代前半の、R&Bが流れている。ミディアムテンポに乗っていた女性コーラスに続いて、予想外にラップが始まる。こちらも女声で、しかも結構可愛い声、まくし立てるようなごり押しのラップだ。スピーカーの方を向いて頬杖をついていた信広が、
「このラッパー、もう死んでんだけどさ」
 またふと、口を開く。
「付き合ってた男とこじれて、そいつの家…アメフトかなんかの選手の、豪邸だぜ?火ぃつけて燃やしたの」
「…ふぅん」
「お前もなんか、そうゆうとこありそうだよね」
 にやりと笑うと、頬杖の姿勢のまま、首を傾げて水兎を見上げてくる。
「で、何?」
「何って」
「話の続き」
 ――ああ、話を打ち切りたかったわけじゃなくて。ただ単に、それより店内BGMが気になったってだけなのか。急激な安堵と、脱力。不安定に呼吸が揺らいだと自覚した時には、もう、泣けていた。
「…嫌われたかと思った」
 ぬるい感触が頬を伝わるのを、パーカーの袖でこすり上げる。もう片方の目からも落ちるので、またこする。すぐにそんな作業では追いつかなくなり、水兎は袖で両目を押さえた。
 肩で小さく嗚咽する水兎の頭に、手が伸ばされる。
「…お前、めんどくせーな」
 ふ、ため息にも失笑にも聞こえる息遣い。
 馬鹿みたいだ。
 精一杯の行動は最低呼ばわりされる種類のもので、彼の些細な言動と行動に、自爆的に怖気づいて喋れなくなって。今、髪型を乱さないよう軽く頭を撫でてくれる仕草が…シンと同じ、とか、気づいてしまって。
 少なくとも彼らは、お互いの身体を知っている。感じるているのは敗北感だろうか。それとも、疎外感。
「帰る」
 急に立ち上がった水兎に、信広が声を上げる。
「ミト」
「言うことないなら、呼び止めないでくんない」
 そう、驚いて思わず名前を呼んだだけだろうから。水兎にとって、それほど意味のないことはない。図星だったようで、彼は軽く肩をすくめると、スツールの肘掛に片肘を乗せた。
「また電話しな。話そうぜ」
「またっていつ?」
「…わかったよ。今夜。十一時頃には身体空いてっからさ」
 こくり、と頷いて、水兎はコーヒーショップを出た。充満していたコーヒーの匂いとか、舌に残るシナモンの辛味が、電車に乗っている間もずっと消えなかった。

 

 十一時頃と言われたのだが。実際に通話ボタンを押せるまでに、あと三十分必要だった。コール音に耳を傾けていると、かなり待たされて、それでも留守電に回される前に繋がる。ガリ、と、携帯電話を持ち直すような雑音が聞こえる。
「ノブヒロさん?」
『ミト悪ぃ』
「え?」
『今から出ないといけなくなってさ。時間ねえんだわ、悪いけど切る』
 切る、と言った瞬間には切られていた。
 ツー、ツー、ツー、通話終了の画面を呆然と見つめてしまう。呆然としていたのはほんの数秒で、慌ててまた掛け直すと、またかなり待たされてから繋がった。
『――おいノブヒロ』
 応答ではなく、電話の向こうで電話の向こうに呼びかける声…慎の声だ。ノブヒロどうすんの。ちょっと無理だわ、また掛け直すけど、車ん中は切っとくって言っといて。またじゃわかんねえだろ、ちゃんと言ってやれって。俺だってわかんねえんだよ、あーでもたぶん、今夜は無理だな。遠い二人の会話を、受話器が拾う。
『今の聞こえた?』
 慎の声が明確になる。
「うん」
『悪いな』
 涼しげな謝罪。しかも、慎が謝ることじゃない。水兎はそれ以上答えずに、電話を切った。

 

 カーテンの隙間から入る薄っすらした光で、目が覚めてしまう。
 早朝、ふと起きては寝直すなんてことを繰り返していたから、いつにも増して寝起きの気分が悪い。枕元の携帯電話を手繰り寄せ、薄目でディスプレイを確認すると、アラームより十分ほど早い時刻だった。
 寝て起きたんだから、そりゃ、月曜日に決まってる。一限何だっけ。学校、行きたくない…よじれた毛布をかき寄せて、顔を埋める。
 らしくない。最近夜遊びもしてないし、あー、なんで、毎日家で寝て家で起きてんだろ。自分の部屋の自分のベッドだというのに、他人のベッドより、よそよそしく感じる。重い身体で、落ちるようにベッドから抜け出す。一刻も早く洗い流したいものがない限り、風呂は朝入ることが多い。狭いユニットバスでシャワーを浴びて、タイルに敷いたバスタオルの上で、鏡を覗きながら髭を剃る。ほとんど生えないので、思い出した時に剃刀を当てるだけだ。
 昨夜の信広の言葉を思い出す。今夜は無理って言っていた。昨夜の延長線上にある今朝も、まだ、無理だろうか。そんなこと考えてる自分の存在が、虚しい。
 鏡に映る自分の胸像を、ぼんやり見返す。
 アクセサリーという名前の目くらましを解いた左手首を、ライトにかざす。
 生々しく目立つような傷跡は、ないんだ。
 だけど光の具合で何本も白く浮かび上がるのは、失望を数えた線。今、新たな一本を加えるのは、とても自然に思えた。
 剃刀を当てて、押して、引く。溢れ出てくる温かい液体に感慨は沸かない。水兎は足元のバスタオルを身体に巻きつけて、部屋に戻った。ベッドの上から携帯電話を取り上げて、リダイヤルの一番先頭、信広の番号を押す。
『ミト?』
「…うん」
 案外あっさり通じてしまい、
『早ぇな。あ、お前学校か』
 揶揄い半分の含み笑いが耳をくすぐる。それを遠くに聞きながら、水兎は億劫な唇を動かした。
「てくびきった」
『はぁ?』
「血ぃ出てるもん、今…お願いだから、来てよ」
 信広が何か言っているかもしれないが、何を言われているかまでは聞き取れない。あ…玄関閉まってる。玄関に下り、ドアのロックを上げると、そこで気を失った。

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