2-5.
外車は燃費が悪いっていう俗っぽいイメージがあるけど。信広いわく、特に石油の高い欧州車は、燃費が悪かったら売れないご時勢らしい…確かに。こんな夜にアイドリングを停止させていなければならなかったのは、彼の車がアメリカ産だからだろうか。車内は寒く、フロントガラスのワイパーを大きく往復させて、車が前進する。信広の横顔を盗み見て、目を伏せ、水兎は無意識に唇を触っていた右手を下ろした。
「…怒ってないの?」
「何にだよ。つうか、どれに?」
突き放すようなトーンが、彼の言葉通り、いくつかの罪悪感を疼かせる。いくつかあるうちの、信広の言わせたいことと自分の言いたいことが果たして合致するのか自信がなく、ごまかすようにぽつりと答える。
「全部」
ふ、と鼻で笑って、それから肩で笑う。それ以上、彼からの返事はない。水兎は両膝を睨みつけたまま、呟いた。
「でもメモリのこと…ケータイの。メモリのことは謝んない」
「…へぇ」
少し首を伸ばすようにして道路の先を見ながら、行き先に気を取られているんだろうか、素っ気ない相槌。シャープな頬のラインは、笑わないととても冷たい。
「あんたにとってどうでもいいメモリもいっぱいあったと思うし、でもそんなのわかんねーから全部消さなきゃおさまんないし。今度からロックしといてよ…俺には思いつかない暗証番号で。もう絶対しないとか、言い切れねーから」
「ミトさぁ」
「何…」
「それじゃ、謝ってんのと一緒」
小馬鹿にした言い方で水兎を黙らせて、信広はさらに薄ら笑いを浮かべた。
「ガキ」
手のひらが伸ばされる。煙草臭い指先が、ごく軽く水兎の頬を叩いた。
「慎に説教されたんだぜ、俺が。逆だろむしろ。性質悪ぃんだよ、あいつ…」
「逆なの?」
はっと顔を上げて追求しようとすれば、
「ま、どっちかっつったらな」
少し目を細めて、信広は小さく肩を竦めるだけだった。
その仕草も、声も顔も匂いも現実だ。どこか夢心地だった自分が、ようやく馴染む感覚。赤信号でほんの短い間停まっていた車が、青に変わるとすぐ走り出す。ルームミラーをちらりと上目遣いで見た信広が、パネルのスイッチを操作しながら話題を変える。
「成人式出たって?いつ以来、帰省」
「はじめて…」
「あぁ。お前あれだろ、あんまり出たくなかったんじゃねーの」
不意打ちに理解されてしまった。
「…うん」
たったそれだけの返事が、揺れる。
思わず握った左手首は、すぐに信広に見咎められた。
彼の手はステアリングに戻らず、水兎の手首を持ち上げて、ジャケットの袖をずらす。現れるのは白い包帯で、それは彼にとってもただ一つの象徴でしかなかった。力を入れて抗おうとしても、がっちり掴まれていて動かせない。
「いつやった?」
「…今日。電話する前」
上ずる声で答えると、左手が膝の上に戻される。隠すように、いや、隠すために、袖を引っ張ると、隣から深いため息が聞こえた。
「それも、俺のせい?」
「違う。成人式で、昔の友達とかに会って。ちょっと話して…」
彼のせいじゃないのなら何のせいなのかと、説明しようとすれば、核心を探して答えあぐねてしまう。声を詰まらせる水兎に、信広はやはりため息混じりに言った。
「どうせ胸クソ悪ぃ話なんだろ…聞きたくもねえな」
言い方は乱暴だけど、逃げ道を用意してくれたことに変わりはない。うん、と頷きかけたが、水兎はそれを打ち消すように首を横に振った。
「話したい。いい?」
意外だったのかもしれない、信広が前を見たまま眉を持ち上げる。
気づけば、インターチェンジが目前に迫っている。県道から高速に乗り、車がスピードアップする。ちら、ちら、と一定のリズムで窓の外を流れるライトの残像。しばらくその加速に身を任せて、水兎は少しずつ話し出した。昔のこと、それから、昔のことが水兎以外の人間にとってどんな形の過去になっていたか。恐る恐るご機嫌伺いされることにも、まるでなかったことにされることにも、失望させられたこと。一度口を閉ざした水兎に、信広はあっさりと言った。
「バカなやつ。嫌なら行かなきゃいいだろ。義務でもねえのに、つうか、義務でも」
この、傲慢でさえあるパワーは。終わってしまったことに対しても、こんなに効力がある。もっと早く聞きたかった、そんなふうに思ってしまうこと、それが後悔でしかないことは、自業自得なんだろう。
「だって。何か、いっこでも清算できるかもしれないって思ったから。俺がこんなだからさ、ノブヒロさんのこともイラつかせるし。俺がこんなになったの、過去のせいって思うのがそんなに悪いのかよ。つーか、そんなに俺だけが悪いのかよ」
言葉で表現できない感覚と感情が、フラッシュバックする。大岡の顔、淳の声。水兎は袖口を指先まで引っ張って、左手首を胸に抱いた。
「昔…あと、前、ノブヒロさんが来てくれた時とかも。リスカって自分のためにやるんだけど、やっぱ誰かに気づいてほしいとこあって。でも今日…てか昨日は、やっちゃった感のほうが全然強くて…リアルな話だけど、普通、切った時ってもっと眺めたりするんだよね。わざと洗面器に浸したりとか、昔なら普通に。でも今日…てか昨日か、ほんと、すげー焦って。そんな気なんてなかったのに…」
コツ、ガラスに頭を当てて、寄りかかる。
「最悪…」
外を流れる単調な景色の向こう、光の具合によって、ガラスに映り込む自分の顔が浮かんでは消える。透き通るガラスの世界の信広がこちらに手を伸ばし、水兎のピアスを弄り、髪を撫で、肩を抱き寄せた。ステアリングが微妙に動いてしまったらしく、軌道が一瞬ずれて、また直進する。
「危ないって」
ひやりとしたのは自分だけだったみたいだけど。身じろいで、重い腕を外す。信広は、素っ気ない表情で前を見ているだけだった。
「普通に運転させたきゃ、そんな顔してんじゃねえよ」
頬が熱くなる。
どこに残っていたのか、まだ涙が盛り上がってくる。目瞬きでごまかそうとして上手くいかず、袖をこすり付けて拭った。
ひたすら高速道路を走る。
途中でかけたCDが、聴き取れるかどうかの小ボリュームの演奏をやがて終える頃。高速を降りて数分走ればそこはもう、見慣れた、水兎にとってむしろ暮らし慣れた街だった。今も青白い街並みに、寒々しい印象の雨が降っている。
街と街を往復する間、結局、一度も雨は止まなかった。