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2-2.

 翌日からスノボ、友達が皿回すクラブのパーティー、カウントダウン・ライブと、年末年始はほとんどアパートで過ごすことがなかった。正月休みに限らず、休暇前には実家から、帰って来くるようにと電話がある。その度に繰り返す、時間がない、金がない、電車がない。取ってつけたような言い訳は拒絶の意思そのものだと、伝わっていないわけないと思うのに。それでも何度も帰省を迫られて、最後には口論寸前で一方的に電話を切るのがパターンだった。
 ピーッ。最後のメッセージが終わる。留守の間、毎日のように部屋の電話に吹き込まれた母親の声を、ようやく全て再生し終える。気分がそうさせるのだろう、毒々しいとさえ思えるピンク色の留守電ランプが消えたことに、ほっとしてため息を吐いた。
 嫌な目にばかり遭って、やり場のない感情が自傷行為に直結していた自分を、置き去りにしてきた場所だから。今でも家族にとって水兎は、電話越しでも腫れ物に触るように扱わなければならない存在で、会いたくないし、帰りたくなかった。その上水兎を憂鬱にさせるのは、今の自分が二十歳だってこと。つまり、母親からの留守電メッセージから挨拶や当たり障りのない話題を除くと、地元の成人式に出てほしいというのが本題なのだ。いつだって、そういう思いやりとかが、水兎にストレスを与える。帰宅してすぐに再生する気になれなかったのは、直感的というより習慣的な拒否反応だった。
 憂鬱な気分だ。
 携帯電話を手繰り寄せて、開く。着信履歴を辿ったのだが、いくらさかのぼっても彼の名前まで辿りつけずに途中でやめる。腹立ち紛れに部屋を飛び出したきり、会っていないどころか電話もしていない。電話くらいしてくれたっていいと思う、おかげで信広からの着信は既に、かなり後ろのほうにまで追いやられてしまっている。待ち受け画面に戻した携帯電話を睨んで、しばらく考え込む。あけおめメールなんて送ったって絶対返って来ないに決まってるから…やっぱり電話にしよう。アドレス帳から信広の名前を拾い、通話ボタンを押した。一回一回重なるコール音に耳を傾ける。
『よぉ』
 鼓膜を小さく振るわせる、低い声。
「…ノブヒロさん?」
『お前、他の誰にかけてんの?』
 疑うような間が可笑しかったんだろうか、失笑の息がノイズになって届く。携帯電話を握り締めて、水兎は思わずベッドから腰を浮かせた。
「ノブヒロさん今どこ?」
 尋ねておいて、答えを待たずに続ける。
「会お?」
 もう一度、今度ははっきりした笑い声が聞こえて、あっさり居場所が告げられた。
『シンの家。お前場所知ってるよな』
「…知ってるけど。つーか、来いって言ってる?」
『飲んでるから運転できねーの』
 機嫌を取るようなトーンだが、水兎が何に対して文句を言いたいのか勘違いしてる。もしかして、勘違いしてるふりをして、論点をすり替えたいだけかもしれないけど。別に、迎えに来てもらえないことを不満に思っているわけではない。だけど――
『来ないの?』
 呼吸の隙を突くようなタイミングでダメ押しされれば、答えるしかないのだった。
「行く」
 通話が終わった携帯電話を置いて、部屋着のTシャツを脱ぐ。安物のスタンドミラーの前でちらりと自分の姿を見て、目を反らす。背中を向けて着替え終えた後、やはり鏡を見てしまう…見た目に変化なんてないとわかっているのに。水兎はダウンを着込むと、部屋を出た。

 

 セントラル駅でローカル線に乗り換える。正月休みの駅や道路は、がらがらに空いている。古びた、レトロモダンとも言える外観のアパートの一室に慎は住んでいて、ブザーを鳴らすとすぐに内側からドアが開いた。
「いらっしゃい」
 ドレッドヘアの一房が目の前で揺れる。それを避けて彼の背後を覗き込もうとすると、
「おい、危ねーな」
 即座に押し止められた。慎が持っていた煙草に、顔が近づきすぎたらしい。彼はその煙草を咥えて、やや不明瞭な発音で言う。
「入れば?」
「うん。あ、シンさん今日店は?」
「年始くらい休ませろ。つうか、うち、三が日休みだから」
 慎の店は明日まで休みらしい。昼間の内に彼と顔を合わせるのは、何となく妙な気分だ。ブーツを脱いで上がると、テーブルの上には確かに酒のボトルや皿があるものの、部屋は無人だった。
「いるってゆうから、来たんだけど」
 振り返った先の慎は、肩を竦めてあっさり頷く。
「さっき煙草買いに行くっつって、出てった。会わなかった?」
「…会わなかった。つーか、吸ってんじゃん煙草」
「セッターが良いんだってさ。ま、待ってなよ、すぐ戻って来るから」
 慎は椅子を引きながらさらりと言うが、胃から込み上げてくるのは失望感だ。水兎はポケットの中で拳を握り、舌打ちした。
「来るわけないよ…くそ、逃げられた」
「バーカ、逃げる理由なんてねえだろ」
「シンさんにはわかんないよ」
「噛み付くじゃん、ミト」
「大体さ。何であの人ここにいたの?」
「何疑ってんの?」
 何を言っても泰然と切り返す彼に比べて、これじゃ自分はただ滑稽なだけだ。言葉に詰まって反論できないでいると、煙草を揉み消した慎の指先が急に迫り、ピアスを引っ張られる。そのまま耳のラインを撫でられて、鼻から息が抜けてしまった。小さく笑い、指先は顎をくすぐる。また、ん…鼻声。睨みつけても、効果なんてなくて。
「どれくらいしてない?」
「いいじゃん、そんなこと…どーだって」
「よくねえだろ、身体は」
 今日の天気でも述べるみたいに落ち着き払った指摘は、正しい。顎に気を取られていると、不意に反対の手で脇腹を撫でられ、堪えきれずに声が出た。
「…ゃ」
「な?」
 涼しげに言う男の胸を思いきり突き返す。
「バカ、最悪っ」
「言われなくても知ってる」
 後ずさることもなく、眉一つ動かさず首肯すると、慎は水兎のTシャツをたくし上げる。素肌に触れられて、混乱しながらも制止する。
「マジで…やだ…俺こーゆーの、ちゃんと抵抗できないから」
「ははっ、よくわかってんのな」
 笑うけど。本来セックス本位の自分のことは、自分がほんとに一番わかってる。背中、脇、腹、胸元、線を描くような動きに、次第に、抵抗するために突っ張っているはずの手がふと、ただ彼の胸に添えるだけになる瞬間が生まれる。すぐにまた押し返すのだが、どのみち力が足りない。慎の服、コットンのざらついた生地に額を押し付けて、ため息を殺す。どれくらいしてないか、だなんて、言えない。だって、数字で表すなら最初からゼロだもの。
 慎の手がある部分をかすめ、一瞬驚いたように止まると、確信的な仕草に変わる。
「これ。いつから?」
「…っ」
 答えなかったんじゃなくて、答えられなかっただけ。胸の飾りを左右に動かすそれは飢えていた刺激に違いなくて。きつく目を瞑ったのは、耐えるためより、享受するためだったかもしれない。分厚い鉄板が軋むような音の意味に、だから、気づくのが遅れた。
 玄関からの短い距離をゆっくり歩いて来た人影が、止まる。はっとして見上げた先に、信広のしらけた顔があった。水兎を見下ろす視線は取り付く島もなく、視線以上に素っ気ない声で、一言。
「尻軽」
 信広は財布と携帯電話をテーブルに置くと、キッチンに入っていった。
「ごめん」
 袖口を水兎の両目に押し当てて、慎が苦笑がちに謝罪する。泣き出す寸前の顔は、彼にしか見えない。それからすぐにキッチンに向かったのは、信広をフォローするためだろう。
「ノブヒロ」
 無愛想にそう呼びかける声が聞こえる。水兎はもう一度、自分で涙目に袖を押し付けると、テーブルの上の携帯電話を取り上げた。同じ会社の、バージョン違いだけど同じメーカーの機体だ。ロックがかけられているでもない信広の携帯電話を、勝手に操作する。アドレス帳の、膨大な登録件数。女の名前を…紛らわしいのも含めて、一人一人消していく時間はない。ほら、ペットボトル片手に戻って来た信広に早速見咎められる。
「何やってんだよ」
 伸ばされた手を避けて、奪い返されないよう床にしゃがみ込み、機体を胸に抱く。
「ミト」
 水兎に誕生日を知られていることが、彼にとっての不幸になるかどうかが、今決まる。勝算は五分。メモリオールクリアで決定ボタンを押すと出現する、暗証番号確認画面。四桁の数字を入れると、ビンゴ、本当に消去するかどうかをYES、NOで問う簡単な画面に切り替わった。
「おいミト」
「尻軽はどっちだよ!あんたこそフラフラしてばっかなくせに、ムカツク!」
 携帯電話を高々と上げ、信広に誇示する。
「…おまっ」
 事態を悟った信広が手を出すより早く、YES、決定ボタンを押した。次の瞬間、痛いくらいの力で右手をこじ開けられる。信広はカチカチと親指を動かし、その結果にちらりと眉根を寄せると、携帯電話を閉じた。腕を掴まれ、強引に引っ張り上げられる。
「痛い」
「だから?お前ふざけんな」
 投げ捨てるように腕を放され、関節が軋む。肘を押さえて俯く水兎の頬を掴み、上向かせるから、叩かれると思ったんだけど。割って入ったのは慎の手で、信広は浅いため息を吐くと、無言のまま部屋を出て行った。バタンッ、と、クッションが効かないのだろうドアを派手に鳴らして。
「泣かねーの?」
「泣かねーよ」
 反駁しながら、こぼれそうになる涙を拭う。
「まぁ。あいつ、そんなに尾引く性格じゃないから」
 何でもなくそう言う慎に首を振って、水兎も部屋を出た。履きかけのブーツにもたつきながら、階段を一段ずつ下りる。アパートの入り口に寄りかかる長身に気づいて、一階の踊り場で足が竦んだように立ち止まってしまった。上下にわずかに顎をしゃくる信広に従って、残りの階段を下りる。
「泣くくらいならやるんじゃねえよ…」
 赤い目に気づかれ、うんざりした顔をされた。
 ゆるく遊ばせている髪をかき回し、ポケットから一度煙草のケースを出したのだが、そのまま戻す。
「言っとくけど。お前の番号も消えたんだぜ?」
 皮肉たっぷりの言い方。でもその通りだから言い返せない。
「お前、俺のことどうしたいの?」
 彼の横顔ではなく、ブーツのつま先を睨みながら水兎は答えた。
「…そんなこと、決まってんじゃん。ちゃんと付き合ってよ、俺と」
「どうしてほしいか訊いてるわけじゃねえの。好きになって、付き合いたいって、求めるばっかでさ。じゃあお前は俺に何してくれんだよ…ケータイのメモリ消す以外に」
 不快感を隠さないあてこすりに、怖気づいたわけじゃない。ただ言葉の意味を理解しあぐねて戸惑っていると、信広が左右に首を鳴らした。
「意味解ってねーか」
 黙りこむ水兎の表情を正確に読んで、言い含めるような口調になる。
「なぁミトはさ、俺に何かしてやりたいとは思わねえの。って訊いてんの」
 知らない場所とか、暗闇とか、そんな空間に放り出されてしまったような気持ちで途方に暮れる。やはり答えられない水兎に、信広は高い鼻筋を掻くだけで、それ以上何か言おうとはしなかった。ややあって、ゆっくりと、もたれていた壁から離れる。
「お前。一人で帰れ」
 置き去りにされた水兎は、力強く大股で歩く彼の後姿を、ぼうっと見つめていた。

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