Novel >  KEITO >  アンダースタンド1

1.

 あと何時間かで八月が終わる、水曜日の夜だった。
 なんとなくチャンネルを回し損ねたまま観ていたナイター中継では、コンスタントに失点する先発ピッチャーが早々に交替させられていたのを憶えている。
「…乾さんどっち?」
「ベイ。地元だもん」
「あ、そうなんだ…」
 感心したように瞬きをした青年の、無頓着な性格を非難する理由は特にない。知り合ってから、個人情報の収集に与えられた時間はふたり平等だったが、成果にはずいぶん差がついていた。
 弛みそうになる唇を煙草を持つ手で隠しても目元までは隠せず、気付いた慧斗が決まり悪そうに俯く。さらりと分かれた後ろ髪の間からうなじが現われたので、浮き上がったその頚椎に向かって話しかけた。
「中村くんは、中華好き?」
 上目遣いの慧斗が、うん、頷いて、どちらともなくまたナイター中継を眺める。解説と、その向こうに流れるホーンセッション。
 しばらくして、身じろぎの気配の後、細い腕がローテーブルに伸ばされる。ニコチンが切れた中毒者のそれだと思い遣って見ていると、その手は水色のケースではなく、もっとスマートなケースを取り上げた。チャリ、軽い金属音を立てて彼の手のひらに収まったそれは、イギリスのパンク文化を象徴するブランドのキーケースだ。
 赤地に白と黒のチェックが入ったケースには、鍵が三本付いている。その三本のうちの一本は原付バイクの鍵で、残りの二本はまるきり同じ型のものだ。
「あの、これ…」
 言葉を選んで選びきれなかったように、口ごもる。彼がクールな表情に少し色味を注して、よかったら、と最後に付け加えて差し出したのはアパートの鍵。マスターキーと合鍵を両方持って歩く、無用心なところが少し心配だった。
「ありがと…預金通帳は隠しときなよ?」
「…狙わないでください、俺の薄給を」
 表情に困った様子で微苦笑する慧斗に笑い返しながら、存在感を確かめるようにぎざぎざの側を指の腹で撫でる。
「うん、茶化さないで言います。ありがとう」
 それは金属でできたゴーサインだった。

 

「で?なんでやってないの?」
「二見(ふたみ)さんサイテー」
 容姿を裏切る下世話な言い方に、煙草の煙を吹きかけて抗議する。嫌煙家は心から不快そうに顔をしかめて、白煙を払った。
「だって合鍵もらったんでしょ?中にチョコとか入ってるやつじゃないんでしょ?」
「チョコって…」
 大して吸っていない煙草を灰皿に押しつけて、ビールを一口呑む。乾の態度を素っ気ないと思ったのかもしれない、全体的に色素の薄い西洋人形みたいな男が華奢な首をちょこんと傾げた。
「やりかた、教えてあげよっか?」
「またそうゆうことを…いい歳なんだから、そんなポーズ可愛くないよ」
 答えながら、向かって右側に傾斜した顔に手を伸ばして、くい、角度を直す。直された二見は、額にかかる癖っ毛を払いながら愉快そうに笑った。
「どきっとしたね、今」
「してません」
「うそ。俺こんなに可愛いのに」
「初対面なら通じるけどね、何年付き合ってると思ってんの」
「なまいき、ユーヒくんのくせに」
 甘い美貌と愛嬌の両方を併せ持つこの男は、トップクラスの営業マンだ。兼任で営業職に就いていた技術屋の乾と違い、生粋の営業マン達にとって、彼の努力に拠るところのない資質というやつは妬ましいものだろう。二見は三分の一ほどビールを呷って、結露に濡れた手をワイシャツで拭う。
「真面目な話さ…もしかして、ほんとは、こだわってる?」
 モツ煮込み、冷やしトマト、モツ煮込み、迷い箸を繰り返して、結局箸先に付いたモツ煮込みのスープを舐め取りながら、乾はひたむきな目を見返した。
「…なにに?」
「男と付き合ってたってことに。付き合ってたっていうか、彼も、俺とおんなじでしょ?」
「あー、たぶん。でもそうじゃないよ、全然」
「…じゃ、なに」
 人声で溢れる居酒屋でも、デリケートな話はやはり小声になる。二見と赴任地が一緒になったのは今回が二度目で、一度目は本社勤務の時だった。そこで、彼と彼の恋人の、控えめに言っても修羅場、というやつに関わったことがある。二見の当時の恋人は総務職の男で、彼の認識では美しい恋人が乗り換えたのは、入社一年程度の経験の浅い技術屋ということになっているはずだ。あの時、考えもしなかったカムアウトを受けた二十四歳の乾にとってそれは多少の驚きではあっても他人事で、いつか自分が同性に惹かれる時が来るなんて想像できなかった―――駅前のコンビニ店員の中で最も魅力的な人物が、恋人になることも。
「俺の問題、かな」
 それだけ答えて、乾は鶏軟骨の皿の半分だけに、種を落とさないよう注意しながらレモンを絞る。果汁のついた指を舐めてそのまま軟骨を一つ摘み、こり、奥歯で噛み締めた。
「びびったんだ」
「…ん?」
「慧斗くんに合鍵渡されて、びびった?」
「ん、なんで」
「びびってないんなら、してあげなよ。もしできないなら、ちゃんと言ってあげなよ。このまんまだと慧斗くんが可哀相だよ」
 乾の答えを、弱気から出たものと理解したらしい。彼がよりシンクロできるのがヘテロの後輩でなくその恋人なのは、仕方のないことだった。
 怒ったように睨みつけてくる二見の鼻先に人差し指を突きつけて、
「あのさ、ケートって呼ぶな」
 まずは呼称の訂正を求める。それから不満げに唇を尖らせる相手に、からからになったくし型レモンを摘み上げて見せた。
「…たとえばなんだけど。たとえば、レモン。あの子ね、自分の食べるとこだけにかけるんだ」
 くにゃりと曲がったレモンに顔を近づけるように、二見が頬杖を突く。
「お前だってそうじゃん、いっつも」
「それは俺が、二見さんはレモン苦手ってこと知ってるからだろ?」
「うん、俺は苦手だねえ」
「こうゆうのって、習性じゃん。俺が二見さんにするみたいに、あの子は自分の陣地だけにレモンをかける。それって好き嫌いの問題だけど、だけ、ってわけじゃなよね」
 好きと嫌いは、ほとんど全ての事物を二分できる大テーマだ。どちらに転ぶかの確率は二分の一で、偶然のそれを下回らない。でも―――
「そう習慣付けられるには、相手が必要でしょう。この場合、レモン食えない誰かが」
 目の前にいるレモンを食べられない男が、頬杖の姿勢を解く。
「そりゃ、でもさ」
「あ、別に、あの子を疑ってるとかいうわけじゃない。そうじゃないんだけど、あの子の向こうに彼がね、見える時がある。それは、俺の問題だから」
 たった一度対峙しただけの、慧斗のかつての恋人。言葉さえ交わさなかった男の名残を、ふとした仕草に感じる。
「俺は、待ってるんです…俺を」
 冗談っぽく語尾を濁して、目線を上げる。噴き出しそうな顔つきをそれでも数秒保った二見はけれど、次の瞬間、弾けるように笑った。
「ははっ、ユーヒくん、嫉妬できたんだね」
「なにそれ…」
 白い手が、優雅な手つきでレモンのかかっていない軟骨を摘み、口元に運ぶ。
「はほひひんはほふひょう?」
「うるっさい」

 

 夜勤明けの午前十時、既に古巣の感覚さえある営業部に顔を出す。広いフロアはがらんと人気がなく、ほとんどの営業マンは出払っているようだ。事務員の女性のひとりが、乾に気付いて首を伸ばす。
「あ、乾さんだー。お久しぶりです」
「お久しぶりです…焼けたねえ」
「今年はたくさん海行けたんですよお」
 最年少の彼女が嬉しそうに言いながら、立ち上がる。
「俺、今年一回も行ってないんだよね…久々に波乗りたいなあ」
「乾さん波乗りするんですか?」
「んー、でも大学以来やってない。あ、これ、本社に押印依頼お願いね。ここ丸印で、こっち角印」
「了解です」
「よろしく。じゃ、帰ります」
「あ、コーヒーくらい飲んでってくださいよ。外暑かったでしょ?」
「いや」
 お構いなく、と言い終わるより先に、別の事務員によって黒いホルダーに白いカップがセットされる。セルフサービスが基本の社内で、手ずから、それも女性社員にアイスコーヒーを淹れられてしまえば断わりようがない。小さめの使い捨てカップに注がれた液体を喉に流し込んで、この後別件が、などと適当な言い訳をつけて退出した。
 通勤ラッシュからずいぶん経った時刻でも、駅前の大通りは混雑している。自動車の車体を抱えての効果的なショートカットルートは存在しないので、十分と少しかけて自宅マンションに戻った。汗と煙草の臭いが染みついた服を脱ぎ捨てて、ほとんど水のシャワーを浴びる。脱いだばかりのジーンズと新しいTシャツを身に着けて、再び駐車場に戻るまで、きっと二十分とかからなかったろう。
 クーラーを切ってからそれ程経っていない車内はけれど、すっかり常温を越えてしまっている。エンジンがかかるのと同時に起動するカーナビを手動で停止して、乾はナビゲーションの必要ない方向へハンドルを切った。

 

 エントランスの前を通過して、段差に片輪を乗り上げる。50CCバイクのオーナーは駐車スペースを持っていないので、アパートの横に車をつける。今日のように先客がある日は、縦列駐車で。
 キーを抜いてドアを開いた瞬間、また、むっとするような熱風が全身を撫でる。到着の合図に携帯電話を鳴らそうかと、ポケットを探りながらベランダを見上げて、思わず笑いが漏れた。
 いつからいたのだろう。手すりから空中に乗り出すような恰好で、咥え煙草の恋人が声もかけて寄越さずにこちらを見下ろしている。
「こらこら、落っこちるよ」
 片手をメガホン代わりにして言ってやると、額や頬を隠す髪を揺らして慧斗が笑った。
 三十度、マイナス、五度。九月の残暑を一気に冷ましてくれるような、涼やかなスマイルだ。

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