8.
…っくしゅ。
くしゃみで目が覚める。強烈な洗剤の匂いのせいだ。
のろのろと身体を起こしながら、ソファーではなく、ベッドで寝ていたことを思い出す。見渡す部屋の様子が、視点の差の分だけいつもと少し違って感じた。
ソファーの上で、仰向けに、腕組みをしたまま寝ているのが永久だ。
その、ソファーのサイズに合わせてわずかに曲げられた脚の間に、アオ。
壁掛け時計の数字盤を見る。六時を一分過ぎたか過ぎないか、やはり大して寝ていない。眠気はなく、碧は慎重にベッドを降りた。足音を立てないよう気をつけてソファーを横切り、キッチンへ。やかんに水を入れ、コンロのスイッチを押す。
チチチ…しばらく押して離すと、火が点く。
蒸し暑いキッチンの、明かり取り用の窓を全開にする。食料用のラックを漁り、探しているのはティーバッグだ。カップの中に包装を剥がしたそれを入れて、沸騰したお湯を注げば、完成だった。
隅に置かれたホーローの赤いスツールに腰掛けて、熱い紅茶を啜る。輸入品と思しきパッケージの、何度か飲んだがしみじみ不味い紅茶で、気付けにはちょうどいい。
「おはよ」
思いも寄らない挨拶に驚いて身じろぐと、スツールの脚が軋む。キッチンの入り口から永久が首を伸ばし、こちらを覗き込んでいた。
「あ…おはよ。早いね」
「こっちのせりふだって。碧、またその不味いやつ、飲んでんの?」
この紅茶が不味いってことは、統一見解だ。永久は眠そうに笑いながら、薄っすらひげの浮いた口の周りを撫でた。永久が眠る前に自分が寝ついてしまったので、結局彼があの後いつ寝たのかを碧は知らない。
「もしかして、俺に起こされた?」
「や。バイオリズムだな」
彼はさらりと解り難いことを言って、けれど堪え切れないように、くあ、小さく欠伸をした。
自分用の不味い紅茶を淹れて、永久がキッチンから出て来る。
所在無くソファーに凭れている碧と何かコミュニケートする素振りはなく、永久はテレビのスイッチを入れた。聴き取れないくらいの小ボリュームを調整すると、パチパチとチャンネルを送る。早朝のワイドショーを探し当てると、そこでストップ。幾つかあるワイドショーの中で、一番ポップな番組だ。
「観てるんだ」
質問ではなく、確認のトーンで呟く碧を振り返り、永久が揶揄うように笑った。
「観てねぇよ。だって、映るかもしれないじゃん」
「映らないよ」
目的語を抜かしたままだが、それでじゅうぶん。碧の答えに一瞬思案するような顔になった永久は、その後、思案の仮定を言葉で表現した。
「無名?なわけないよなぁ…少なくとも一人、俺の周りに知ってるやつがいたし。あ、テレビ、出てないのか」
「うん…」
曖昧に頷き、心の中で付け加える。
――今は、ね。
当たり役の付いたドラマの後、数本は連続ドラマへの出演もあったが、この頃では映画の仕事しかしていない。主義なんていう、立派な名前の理由はないけど。採算とか打算とかの次元があまりに自分に近すぎる、テレビの世界は苦手だった。話題作りのために、まともに喋ったこともない女優とのスキャンダルが流れるなんてことが、平然となされる世界。主役じゃないからって、駒にされない訳ではないと思い知らされた。
佐伯が観て、碧のことを憶えていた作品。あの映画を撮った戸村監督は自主製作映画出身で、セミプロ時代のハングリーさとクリエイターとしてのプライドが同居する難しい人だ。映画業界が決して商業主義に走りにくいというわけではなく、予算面ではむしろ厳しく、採算面では赤字が目立つ。ただ、現場の雰囲気は全然違う、と思う。純粋に作品に対峙することが許されるというか、そうしなければ演じ切れない作品が多い。撮影時間も待ち時間も長く、そこに雨とか雲とか太陽とか、自然界のファクターも交じり合って。少なからず、作品に没入することが求められるのだった。
がむしゃら、というほど全力だったかどうかは自分でわからない。けど、自分で自分がわからなくなる程度には、忙しかったし、文字通り我を忘れていたんだろう。
テレビ業界から離れたことが、俳優としての碧の価値を上げた。結果論ではあるが、舛添の予定通りだった部分もある。モデル・エージェントから譲り受けた(これは彼女の言いまわしだ)碧を、役者としてステップアップさせていくのが彼女の仕事だから。一時的にテレビ業界から離れるのを後押ししたのは、舛添だった。
そして。三年ぶりのドラマ出演。
勝負だよ。
張りのあるアルトでそう言われて。
何となく、取り巻く世界を繋いでいた糸が、ほどけてしまったように感じたんだ。
「不味ぃ」
苦々しい声が合図だった。無意識に遮断されていた雑多な音声が、再び流れ出す。
「つうか。不味いって言うために飲んでるような気がしてきた…」
テレビ画面に視線を集中させたままぼやく永久の顔を横目で見て、碧もぬるくなった紅茶の残りを啜った。
「同感…」
昼過ぎ、太陽が一番高い時刻に、写真家が部屋を出る。
企業の広告ポスターの仕事だって。
「師匠のご威光、ね」
悪びれない彼だが、嬉々として仕事に向かうという様子でもない。企業広告は、写真家としての彼の本来的な仕事でないだろうから。
「まぁ、夜逃げは嫌だからさ」
「うん、孤高だけが美学じゃないと思う」
感覚的すぎる碧の言葉にフェイス・ピアスを弾けさせ、敏感な男は破顔する。
「きみは、魔法の使い方を知ってるよ。でも夏が終わる前には、羽根つけて飛んで行きたいと思ってんだ」
目を細め、夢見るように笑う。
「海外に行くの?」
「んー、考えてないけど。鈍行乗って本州うろうろすんのもいいな」
大きなバッグを担いだまま器用にスニーカーの紐を結び直すと、永久は部屋を出て行った。
しばらく、空気の流れの余韻に身を任せる。
碧は立ち上がると、部屋の隅に隠すようにして置いてあるリュックを引っ張り出して、中を覗き込んだ。財布と、死んでいる携帯と、レモン味の喉飴。それと、一冊の台本。
何度か…何度も目を通してページのばらけたそれを、ぺらぺらとめくる。
クランク・インをすっぽかした。
キャストの一人が開けた穴はもう、塞がれているだろう――感情が生まれてしまいそうな予感に、開いた台本を閉じ、物語を閉じ込める。
台本をリュックに押し込み、ソファーによじ登る。寝煙草の灰を、ふっ、息を吹きかけて飛ばすと、碧はクッションに身体を沈めた。床で丸くなっているアオをこっそり盗み見ていると、通じたのかもしれない、彼女がそばにやって来る。黒くつやめく体を抱え上げ、胸の中で抱きしめた。
ラジオを点け、DJがメールを読み上げる声を、ぼんやり聞き流す。
ふと首を巡らせ、見遣った窓に異変を感じる。咄嗟には、何のピースが欠けているのか判らなかったのだが。
「あ」
思わず、声を上げてしまった。
アオを解放し、慌てて窓枠を掴み上半身で外に乗り出すと、上下のバランスを失ってくらりと眩暈がする。地面の色彩のごく一部が、確かに、ハンガーに掛かっていなければならないTシャツのものだった。風で落ちたんだろうか。
スニーカーにつま先を引っ掛けて、部屋を出た。
狭くて急な階段を下り、アパートの外に出ると、一瞬方向感覚が鈍る。左右を確認して、右手側に落ちているTシャツを発見し、慌てて拾い上げた。見た目に汚れはわからないが、鼻先を近づけてみると、洗剤に混じって熱されたアスファルトの臭いがする。
「小田島さん」
聞き慣れないトーンで名前を呼ばれた。
「小田島碧さん、ですよね」
返事をしない碧に、強く確認する語尾。
目を上げると、目の前に、ベースボールキャップに黒ぶち眼鏡の男が立っていた。傷んだ茶髪がはみ出している。
「ビンゴ――ほんとに真っ白じゃん」
彼はジーンズの尻ポケットから平べったいケースを取り出すと、そこから抜いた一枚の紙切れを、
「はじめまして」
ナイフのように碧のみずおちに突き立てた。思いも寄らないことに息を呑み、結局は、その紙切れを受け取る恰好になってしまう。縦使いの名刺には、フリージャーナリストという肩書きと、その男の名前が書かれていた。フリーとは、新聞社や雑誌社にとっての遊軍って意味だ。ああ、以前にスキャンダルの当事者になった時も、何度か、こんなシチュエーションには陥っている。
「…何か」
「ドラマ降板の噂、ネットあたりじゃ普通に流れてますよ」
ずばりと核心に触れているようで、自分自身のニュースソースは全く言明しない。碧の返事を待たずに、彼は話し続けた。
「いえ、一つの方法として。ネット検索とか掲示板とか、あるでしょう。あなたを見かけた、という程度の情報は簡単に得られるんです。誰からも声を掛けられないからって、誰にも気付かれてないわけじゃない、ですよね。ただ、小田島碧が何処にいるのか、それは雲を掴むような話でした。でも今朝くらいかな、あるブログの中で、あなたの名前を見つけました。フライング・ソーサーズのライブに来てたって、荒くて見られたもんじゃないですが、携帯で撮った写真も載せてあったんですよ」
携帯電話で写真を撮る時の手振りをしてみせて、さらに続ける。疑問形にはならず、確信的に下がる語尾が、碧の心をざわつかせていた。
「ライブスタッフから、連れがいたという話を聞き出せました。奥寺永久という写真家のアトリエを探すのは、簡単でした」
ここ。人差し指で足元を指す。
「奥寺さんに会うつもりで来たんです。でも、ラッキーだったな」
「大した値段にならないでしょう…俺なんて、売ったって」
口を挟み損ねては、喘ぐ寸前のようにただ口を開閉させていた碧はけれど、ただ弱々しく反論することしかできなかった。もちろん、一笑されて終わる。
「はは、謙遜しますね。でもそれについて分かっているのは、あなたではなく僕です。お時間は取らせませんから、インタビューに応じていただけませんか。次クールのドラマの中じゃ、一番話題性がある作品ですよね。演技派を揃えたって。何故出演拒否を?小田島碧の三年振りのドラマ出演ってことも、話題性の一部だとは思いませんか」
手の中に、じっとりと汗を掻いている感触。無意識に、名刺を握り締めていたことに気付く。碧は重い頭を、ゆるゆると横に振った。
「…帰ってください」
拒絶の意思表示は、相手に通じたよう。
彼は饒舌を止めて、小さく笑った。
「正式に降板となったら、大々的に流れますよ。常に不安定要素があって、あなたはどこか、センセーショナルな俳優だ。あの、おっかないマネージャーさん。彼女にも、よろしく」
言外に、舛添とも接触していることをほのめかして。軽い会釈を残して、彼は去って行った。