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7.

「僕が奥寺君の個展を見に行ったのが、知り合ったきっかけと言えばそうなるかな」
 永久が顔見知りのスタッフと話している間に、佐伯から少し、写真家について聞くことができた。アーティストとしては、どちらかというと優等生。大学院在籍中に発表した作品が大きな写真展で入選していて、卒業後渡米、このほどの帰国に合わせては個展も開いている。そこでフライング・ソーサーズのチーフ・プロディーサーである佐伯と知り合い、アルバム製作に参加することになったらしい。
「グザヴィエ・サジュマンって知ってる?」
「…永久の、先生ってことしか」
 本人の口から何度か聞いた名前だ。ファミリーネームは、初めて知ったけれど。
 碧の答えに、佐伯は髭を撫でて可笑しそうに笑った。
「普通は、逆。建築写真の大家で…僕は、学生時代に図書館で偶然、こんな、分厚い作品集見て以来の大ファンなわけだ」
 多少オーヴァーだろう、両手で三十センチほどの厚みを作ってみせて、彼は「大ファン」の部分を強調する。
「奥寺君は嫌な顔するけど、グザヴィエ・サジュマンの直弟子っていう触れ込みでね。色んな大学で長らく教鞭も取ってたから、サジュマン氏のレクチャーを受けたって意味では何千人どころか何万人の生徒がいるんだろうと思う。でも弟子と言えるアーティストは、少なくとも二十一世紀では奥寺永久だけだろうな」
「詳しいですね」
「俺にじゃなくて、グザヴィエに、だよな」
 背後からその、建築写真の大家の直弟子、が混ぜ返す。佐伯は永久を振り返り、生真面目に頷いた。
「奥寺君にもかなり詳しくなったぜ」
「はは、そんなフォローいらねぇ」
 永久は鼻先で一笑するだけで、取り合わない。気にした様子もなく、佐伯は肩を竦め、一言評したのだった。
「そう。そういう男だってこととかさ」

 

 フライング・ソーサーズのライブは、壮観だった。
 十名近いバンド編成と、いくつもの音響機材。彼らの音楽の迫力はもちろん凄まじいくらいだったが、碧の心を終始占めていたのはスクリーンのビジョンだから、その点では佐伯達の思惑通りにはならなかったと思う。青白く、黄色く、赤く、ライトに照らされては沈む自分を、ごく内面から俯瞰しているような錯覚。意識とか空間とか、存在とか、超越していた。
「碧」
 擦れたハスキーヴォイスに、揺り起こされる。
「…何?」
 彼の声も自分の声も、渦まくBGMの一部となって紛れる。声帯を震わせている実感が持てず、
「何?」
 碧は確かめる為にもう一度同じフレーズを繰り返した。
 永久の唇がぱくぱくと動く。声を聞き逃し、マペットのような口の動きに目を凝らしていると、ふいと耳元に唇が寄せられた。
「出ようぜ」
「どうして?」
「もう終わるから。混まないうちに出よう」
 返事を待たずに、永久は歩き出した。

 一足先にライブ会場を出る。
 会場の外はまだあまり人気がなく、ひっそりとさえしている。フルボリュームの音楽と無数の色彩に慣れきった身体には、どこか精彩を欠いたように感じる世界だ。けれど永久の身に着けたアクセサリーが金属音を鳴らすのに気を引かれ、見上げた先に茶金の毛先が揺れているのを意識すると、世界はすぐに元通りになる。
「どうだった?」
「音楽のこと?」
「それでもいいけど?」
 とぼけた振りをする碧に、永久が笑いながら冗談を重ねる。よくないよ、碧は首を横に振って、質問に答えることにした。
「飛んでるみたいだった」
「ふうん」
「あ…ちょっと違う。飛んでる自分を、見てるみたいだった。あなたの撮った映像の中に俺がいたってゆうか、いたいって思ったってゆうか……だめだ、はっきり、どうとは言えない」
 言葉が空転を繰り返すのにギブアップして、碧は胸の前でホールドアップする。吟味するような沈黙の後、永久が顔を上げた。
「正直、思い通りにいかない部分も多かったんだ。作品としてのアイデンティティーだけを追求しても、気に入ってもらえなければ意味がないって言ったら…乱暴だけどね」
 アーティスト同士ではあるが、またクライアントとフォトグラファーという一面もある彼らの関係に、ストレスが生まれないはずはないのだ。内容の重要度でトーンを変えることのない彼の口調は、その真摯で簡潔な吐露をも、通りざまの看板の色でも述べているような印象にする。碧は思わず、反発する気分で口を開いた。
「わかるよ、でも」
「そう。でも」
 けれど、言葉は永久に素早く封じられ、乗っ取られる。
「きみが、夢見てるみたいな目ぇして、スクリーンに吸い込まれてっちゃいそうなくらい背伸びしてさ…気に入ってくれたのが判ったから」
 まるで先回りするみたいに碧の言いたいことを自分で言ってのけると、
「自信はあった。間違ってたとは思わねぇよ」
 内緒話を終えた顔つきで笑うのだった。
「…うん」
 碧は小さく相槌を打ち、足元のコンクリートに視線を落とす。永久のせいで言葉を呑み込んだ碧には、それ以外に、自分の気持ちを伝える方法はなくなってしまったからだ
 信号機に引っかかり、歩みが止まると、会話も止まる。
 ――まだだ。待っているけど、まだ。
 横断歩道の向こうにそのショーウィンドウを見つけたのは偶然であり、救いだった。発作的に、単語が飛び出る。
「ドーナツ」
「何?」
「ドーナツ食べたい」
「何だよ、急に」
 苦笑しながらも彼は、碧の視線の方向を正確に察知しているよう。
「衝動だから」
 答えにならない答えを返すと、碧は信号が青に変わるのと同時に、小走りで店に向かった。自動ドアをくぐり、甘ったるい匂いとコーヒーの香りの充満する店内に入る。入り口に置かれたトレイとトングを持つと、すぐに背後から注文が入る。
「俺、ハニーディップとダブルチョコレート」
 状況を楽しむ人の口調だ。他にもフレンチクルーラーとエンゼルフレンチとオールドファッションを二つトレイに乗せて、キャッシャーまで運ぶ。素早くキーを押した店員に会計金額を告げられ、碧は尻ポケットから財布を引っぱり出した。カード入れから使い慣れた一枚のカードを抜き出すと、また背後から、声。
「碧、俺が払う」
「何で?」
 聞き返す間に硬貨を出して、永久が箱を受け取るので、役目がなくなった碧は手ぶらで店を出ることになった。
 ふっ。突然吹出した永久に不審を感じて見上げると、いきなり頭を小突かれる。
「ミスドでクレジットカード出した奴、初めて見た」
「え?」
「やっぱり王子様だ」
 まだ可笑しそうに笑ってる。ずれた帽子を直しながら、碧は自分自身に、ようやくアクションのサインを出すことができた。小さく息を吸って、吐く。
「…黙ってて、ごめんなさい」
「うん?」
「金がないなんて、嘘」
「うん。それくらい慎重であるべきだと、俺は思うぜ」
「あと」
「まだあんのかよ」
「ほんとのこと…俺の、仕事」
 余韻を残さないよう、語尾を短く切る。
 永久は鼻先を掻いて、やっぱり軽い調子で言うのだ。
「そりゃ驚いたけど、実感はねえなぁ。俺は、生身のきみしか知らないからさ。実際のとこ、納得する気持ちのほうが大きいんだ――碧がすげえきれいな色してる理由が、少し解った」
 横目でちらりとこちらを見て、一人勝手に頷く。
「ずっと引っかかってたんだけど。色って」
「帽子じゃないぜ?きみの周りの、空気の色」
 また無意識に握っていた帽子の縁から、はっとして手を離す。
 初対面でいきなり紫色を褒められた時は、この帽子の染色のことだと思ったんだ。もっと霊的な意味だったのだと理解してしまえば、不思議はなくなる。それが少し、不思議だった。
 紙箱を開けた永久が、中から取り出したドーナツをこちらに差し出す。
「ほら。ご所望の」
「…ありがと」
 砂糖のべっとりついたフレンチクルーラーを、シャク、一口齧る。眉をしかめたくなるくらい甘かった。

 二人にとってタブーに等しい事実は、昨日の夜から、カレーとカレーの残りしか食べていないことだ。もちろん今夜もカレーの残りで、しっとり味のなじんだそれをスプーンですくいながら、ドーナツと交互に食べる、奇妙な晩餐だった。
 碧が少ない食器を洗う間に永久がバスルームを使い、交替して、碧がシャワーを浴びる。髪を乾かし終えて戻ると、スタンドの電気とノートパソコンのモニターを残して、部屋の照明は落とされていた。Eメールを読んでいた永久が振り返って笑う。
「碧ー、洗剤入れすぎたな」
「何?」
「シーツ、すげえ洗剤の匂い」
「あ、ごめん」
「いいよ…好きだから」
 小さく首肯して彼は、指先をマウスの上から離し、ベッドを指差した。
「碧、ベッド使いな。洗いたてのシーツを味わう権利は、きみにある」
「はは、何の権利?」
 冗談だと思い笑う碧に、けれど彼は生真面目な表情で、今度は軽く首を傾げて見せる。
「いや。きみ、うちに来てずっと眠りが浅いだろ?」
「あぁ、でも…元々だから」
「うん。ソファーがだめならベッドってこともないだろうけど、試してみたら」
 悟られていたことに驚き、口篭もる。少しは慣れたと思うのだが、毎晩の眠りはそれでも浅い。そのせいで、昼間にうたた寝してしまうことも多いのだ。
「俺まだ寝ないからさ。お休み」
 碧がベッドで寝ることで、既に決定しているよう。意固地に断わる理由も思いつかず、少し躊躇したが、ぱさぱさに乾いたシーツにつま先を滑り込ませた。確かに、むせ返るような洗剤の匂いだ――でも、嫌いじゃない。目を閉じると、カチャカチャ…キーボードの音が存在感を増す。
 だんだんと冴えてくるのは聴覚で、時計の針の音とか、些細な衣擦れの音、それから時々電車の音。じっと目を瞑って耐えていたのだが、結局は繰り返しの寝返りでシーツがよれただけだった。
「…永久」
 呼びかけに、どこか動物じみた仕草でぱっと顔を上げて、永久が眉毛をハの字に下げる。
「んっ。眠れないか」
「永久。煙草を、吸ってくれませんか」
「うん?俺が?」
「うん…」
「そりゃ、いいけど」
 彼の手先が一瞬さ迷った後、煙草のケースを引き寄せる。
 カチ、着火の音がして、初めはかすかに、そしてすぐに、きつい匂いが辺りに充満した。鼻で深く空気を吸い込むと、洗剤の匂いに混じって煙草の匂いがする。足りなかったものがようやく手に入った気分で、碧は再び目を瞑った。

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