5.
ゴウン、ゴウン、ゴウン…。
全身に共鳴するような、鈍くて低い振動。
どこからか流れきた甘い匂いが、鼻をかすめる。切れていたスイッチが突然入った感じ、むくりと起き上がると、擦れたテノールが空気の一部をを引っ掻く。
「起きた」
状況を見失ったまま首を巡らせる。作業台に腰を下ろした永久が、咥え煙草で笑っていた。
認識は、後から遅れて碧を追いかけてくる。甘い匂いの正体は、彼の愛好する煙草。地鳴りを想像させる音はボロの洗濯機の稼働音で、どうやら洗濯が終わるのを待つ間に寝てしまったらしい。
「本能なのかね。床のさ、一番冷たいとこ選んで寝てんだよ」
指で摘んだ煙草の先端をこちらに向けて、永久は楽しそうに肩を揺らす。
その口調に、直感的にアオのことを言っているのだと思ったのだけれど。黒猫の姿を探す碧に、彼は平然と言ってのけたのだ。
「いや、きみ」
開けっ放しの窓から入る日光が、床板に強烈なコントラストで窓枠模様を描いてる。無意識に、その焼き網を避けて寝ていたらしい。今日も三十度を越える真夏日とラジオの天気予報で言っていたから、日陰で昼寝していたからってそれほど快適というわけじゃない。碧は汗ばんだTシャツの襟を引っ張りながら、寝相について弁解することにした。
「そりゃ、わざわざグリルされる趣味はないもの」
「Grille de Midori、旨そうじゃん」
「ふ、どこが」
フランス料理のメニューみたいな名前で呼ばれて、笑ってやる気はなかったのについ吹出してしまった。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
きっかり三回のアラームの後、洗濯機が嘘のように静かになる。
「寝てていいよ。柔らかい場所に移動することをお勧めしますが」
永久はそう言うと、灰皿代わりにしている欠いた陶製の片口に煙草を押しつけ、作業台から降りた。煙の余香に、くしゅっ、小さくくしゃみをした拍子に、碧は言い忘れていたフレーズを思い出す。
「あ、おかえり、なさい」
おー、間延びした返事が、バスルームから聞こえた。
居候生活、三日目。
毎日がひどく単調なサイクルだ。寝て、起きて、食って、洗濯して、ラジオを点けて…この小さな部屋が、碧にとってのほとんど100%。けれどたとえば今日が何曜日なんだろうかとか、今が何時なんだろうとか、この人と会うのは何度目か果たして初対面なのかとか、主観さえ覚束ない感覚に陥ることはない。何時間も前に聴いたラジオの天気予報と、寝汗をかいた自分の存在が確かに線で結ばれている、感動的な気分だった。
写真家は、アトリエを離れていることが多い。
最大の理由は、彼が建築写真家であるという事実。ライフワーク、というけれど、商業的でなければ収入になりにくいのが実際らしく、”商業的な仕事”はクライアントの元に出向くことが優先されるようだった。写真家はローテクな人物ではなく、連絡はほとんどe-mailで取っている。今も作業台の上にノートパソコンが開かれていて、朝起きて一度メールチェックをしているから、それから外出していた午前中の分を読んでいたんだろう。
「――不良娘はどこ行った?」
ひょい、と碧の脚を跨いだ永久が、洗濯かごを床に下ろす。
「箱入り娘の間違いじゃなくて?」
「…悪い虫が付いてたりしてな」
苦々しい顔をしてぼやくので、やはり我慢できずに笑ってしまった。
「そこにいる」
くい、永久の片眉が上がり、ピアスが揺れる。何か反論しようと思ったのかもしれないが、彼は結局は黙って窓を全開にするしかなかった。柵の内側で丸くなっていたアオが日向ぼっこを邪魔されて、するりと身軽に飛び降りたのだから。
「信用したら?」
彼女は時々黙って散歩に出かけることがあるらしく、その点では永久に信用されていないのだ。
キッチンには明り取りのための小さな窓があるのだが、それ以外には一つしか窓がない部屋だ。それも、ベランダはない、ただの窓。洗濯物を干すには、窓枠に膝で乗り上げて、空中に身を乗り出さなければならない。最初にそれに気付かされた時は、思わず疑ってしまったけれど。
「落ちない?」
「今んとこ、生きてるね」
「…あなたもだけど、洗濯物が。せっかく洗ったのに」
その時の永久の奇妙な顔つきが、やっぱり片眉をくいっと上げるやり方で。大抵はしれっとした表情の彼だが、ポーカーフェイスとはちょっと違うと気づき始めていた。
「俺が干すよ」
永久を制して、立ち上がる。
「落とすなよ」
そう、気に入った(気に入らなかった)言葉を、しつこく使い続ける癖もある。
「ウィ」
碧は大人しく頷いて、絡み合った洗濯物の中からTシャツを引っ張り出した。それをハンガーに通してから、窓枠に片膝で乗る。手すりにあまり体重をかけ過ぎないように伸び上がって、ロープに引っ掛ける。真夏のむっとした湿気はあるが、風が通っているのでそれほど不快ではない。一番空に近づく行為かもしれない、洗濯物を干すのは、結構好きだ。
「妙に、危ないんだよ」
突然、太腿を引き寄せられる。
「わ、何」
腰を捩って見下ろすと、苦笑がちの永久と目が合った。隣りのスペースに腰掛けて、碧の太腿に腕をまわしたのだ。何故?
「ハラハラするもんだな、落ちやしないかって。あ、洗濯物じゃなくて、碧が」
「…風に吹かれたくらいじゃ飛ばない。大丈夫だから、放してくれない?」
呆れて自称落下防止ロープを軽く叩くと、彼は頬を歪ませて笑い、長い腕を解いた。碧は二枚目のTシャツの皺を伸ばして、ロープに掛けた。碧が借りている、永久のTシャツだ。彼の洋服のほとんどは、旅行鞄に押し込まれて海を渡って来た代物で、地元のレアなデザイナーズ・ブランドだったりする。身長こそ永久の方が高いが、どちらか一方が太り過ぎているとか痩せ過ぎているとかいうこともないので、レンタル可能というわけ。
「それ、きみの方が似合うな」
小さく振り子のように揺れたTシャツを顎先で示して、永久が言う。
「そうかな」
「碧ってさ、似合わない服、ないだろ」
「わからないよ、そんなこと」
「そっか」
答えさせておきながら、冷めた相槌ひとつ。そして彼は、さっき揉み消したばかりだというのにまた、新しい煙草に火を点けた。ふー、吐き出した煙は風に乗って加速し、ジェットのように流れて行く。
多機能な窓だ。
景色を切り取れば一流の額縁にもなるし、洗濯物も干せるし、ベンチにだってなる。それも、喫煙席。
「飽きねぇの?」
「飽きねー…」
心ここにあらず、な返事だったと思う。
碧に向かってフルスピードで落っこちてくるようでいて、決して接触しない、窮極のストップモーション。実際には床に置いたパネルをほぼ真上から見下ろしているので、落っこちてくる、という感覚になるのは不思議な体験だ。けれどベクトルを真逆にして、迫ってくると表現できるような重力に逆らう力強さは感じない。
二次元の写真の中に三次元の空とビル、そこに重力と奥行きを足せば、それは四次元の世界だった。
「ミ、ド、リ」
「うん…」
「碧」
二度目で、単なる音の羅列だと思ったものが自分の名前だと気付く。
「何」
仕方なく応えると、チャリ、ルーズリーフピアスが想像しなかった近さで鳴った。思わず首を縮める碧に覆い被さるような恰好で、背後から手を伸ばした永久がパネルを拾い上げてしまう。
「しまうぞ」
「俺…好きだな、それ」
裁ち切りにしたシーツのような布を被され、アトリエの棚にしまわれる写真。白い布に包まれたカンバスのような物体には気付いていたが、あちこちに自分の撮った写真を飾っている男だから、それが写真だとは思っていなかった。ただ、他とは区別された佇まいに興味を感じていることを告げると、永久は布を取って、パネルを見せてくれたのだ。
あまりにしげしげ観賞していたら、写真家が先に焦れたようだけど。
「気に入った?」
「うん。もっと大きかったら、もっと気持ち良いと思う」
「どうしてそう思う?」
「だってスケールが、十号のサイズに似合ってない」
ふふふっ、言葉尻にかかるように、鼻先で失笑される。笑われるほど下手な答えだったろうか。永久は顎先を摘んで俯き、すぐに顔を上げた。
「すげえな、碧は。実は展示用のやつは、ちょー、でかい」
「どのくらい?」
「この部屋よりはでかいな。俺が院生ん時に発表したやつでさ。置き場もないから、今も大学に保管してある」
「発表ってことは、タイトルが?」
「your hearts」
ブロークンな英語で告げられた、たった二つのフレーズ。碧は解けないクイズの正解を知らされた気分で、祈るように両手を組んだ。
「…勝手な共感だけど」
「うん?」
「すごく、四次元的だと思って。それってたぶん、心臓のイメージなんだ」
一瞬目を丸くした永久は、次に、弾けるように破顔した。
「やっぱり。きみに会ったのは運命だ」
うそぶくようなトーンで、こうも続ける。
「ついでに晩飯がカレーってことも、運命だから。異論は?」
傷みの激しいホーロー製のスツールは、永久に拾われたアイテムのひとつだそう。
キッチン脇に置かれたスツールが碧のポジションで、赤い塗りの剥げたそれに腰を下ろして、膝の上で人参をすりおろしている。
玉葱、セロリ、ピーマン、生姜、にんにく、トマト、華やかな色彩を迷いのない手つきでカットしているのは永久で、おそらく碧が人参をすりおろす間に、それ以外の食材は全て切りそろえられているだろう。
「指までおろすなよ」
「…ストップかけて。永久は、ずっと料理してるの?」
「んー、レパートリーが増えたのは、ニューヨークに行ってからだな」
「ふうん」
「ハンバーガー、フライドポテト、ピザ、時々タコス。一週間で飽きる」
「あぁ」
「グザヴィエ…師匠の、まあ体のいい飯炊きだった、と」
「面白そうな人だね」
「写真家としては、神様みたいな人だね。でもこの世にカメラがなかったら、ただの我侭じじいだぜ」
「想像できないけど」
「想像を、絶するから」
喉の奥をふるわせて笑いながら、サク、ピーマンを半分に。
「俺は――」
意識せずに口をついた”I”に、どきりとしたのは自分だけだろう。
「――カレーにピーマンが入ってるなんて、思わなかった」
「必ずってわけじゃねえの。でもこの方が旨い」
機嫌の良いテノールを聞きながら、安堵と、罪悪感を感じる。
アンフェアーな関係。彼は気軽に何でも話してくれるが、それに比べて碧が彼に話せることはあまりにゼロに近すぎるのだと、気付かずにはいられなかった。