4.
手に負えないくらいがらんとして見えた部屋が、一台のベッドによって、縮尺を取り戻したような感覚。所在なげに点在していたダンボールがなくなり、組み立て中か分解中かわからなかった物体が、キャビネットとなって壁に寄り添っている。部屋の中心に堂々と置かれていたスタンドミラーも移動を余儀なくされたよう。衣装選びで不合格となったのだろうか、一本のジーンズが、ミラーの半分を覆い隠すように引っ掛けられていた。
「家になったんだなって感じ、するね」
碧が呟くと、すぐ隣から身じろぎの気配が、かすかな金属音と一緒に届く。
「実は、最初から家だったんだけど?」
鈍感な質問でも下手なジョークでもないのは、腕組みをした永久の、議論をけしかけるような目を見ればわかる。つられて腕組みをし、それから右手で顎先を摘み、たっぷり息を吸う間思案する。
「…ホームドラマなんて、あんまり言わないけど。四人家族に犬がいて、窓辺に花が飾ってあるような家だけが、家じゃないでしょ?」
「少なくともここは、その理想からは外れてるな」
「うん。でも、人が暮らしてるっていうか…寝起きしていることの象徴って、ベッドだと思う。実際ソファーでじゅうぶんだとしても、やっぱり」
イメージを言葉に変換した瞬間に本質が遠のいた気がして、思わずリテイクを願い出たくなる。それでも、イメージの言語変換において碧の何倍も長けた人は有能で、探るような言い方にも納得した顔で頷いてくれた。
「ああ、なるほど、象徴」
「形式だけど。今までここにはなかったから」
「衣食住のイメージが確かになったってことか」
「そうかな…うん、あなたが暮らしてるイメージって意味なら」
無感動な表情の時はどこか神経質に整っている永久の顔は、少しでも笑うとすぐ、ファニーに崩れる。碧の答えに満足したのか、または不満足ゆえに笑ったのか。口の端を綻ばせ、下唇に埋めた押しピンみたいなピアスを撫でる仕草から、碧は目を逸らした。
「それに、ベッドってすごく私的だし」
「…ひとんち感、と俺は捉えたけど」
「そうとも言えるけど、今はその反対」
「うん?」
「あなたの”私的”の中に、俺も含まれる感じがする…」
永久の目のが細まると、その下に、ゆっくりと笑い皺が浮かぶ。
「ベッドが象徴するイメージで、俺達が敢えて、挙げなかったものがあるよな」
水を向けられて、驚くような焦るような、納得するような気分。タイミングを計っていたのは自分も同じだし、結局のところどちらも同じくらい上手く切り出せなていないのが、妙に可笑しかった。
「きみは形式って言ったけど」
「うん」
「正式、とも言えるよな」
ベッドに誘う、という簡単な慣用句。それを実行しているだけの、簡単な現実だ。
沈みすぎず、硬いくらいのマットレス。シーツの肌触りはさらりとしていて、頬を押し付けると冷たさが気持ちいい。
「寝るなよー、頼むから」
戻って来た永久が、ベッドに両手両脚を投げ出している碧を見て、本気ともつかない口調で言う。日頃の居眠り癖のせいで、あまり信用されていないのだ。
―― 一度部屋を出た時に彼の腕の中にいた黒猫が、今はいない。ほんの二、三分の永久の不在は、それだけで説明がつく。
差し出された手を握ると、見かけを裏切る腕力で引っ張り上げられる。Tシャツ一枚より、パーカーとタンクトップの重ね着のほうが、単純計算で脱ぐ物が一枚多い。惜しげもない脱ぎ方で素肌をさらけ出した永久に、タンクトップを胸までたくし上げたところで捕らえられ、キスをされた。
ごくり、と大きく喉が鳴る。気づいていなくても構わないけど、今日、最初のキスだから。バニラの香りほど甘くない、煙草の味。繰り返し吸ったり放したりしながら、苦心して両腕を抜く。同時進行を強要されたわけでもないのに、ただ、早く脱いでしまいたい一心だった。首輪になった布を引き抜いてくれたのは永久で、その時少し、鼻の頭が擦れた。
「お、ごめん」
謝罪と失笑と、治癒を促進するキス。自由になった両腕で細い首に抱きつくと、再び唇が重なった。啄ばんだり、舐めたり、ニュアンスを変化させて、そのうちに唇どうしの愛撫では済まなくなる。首筋を舐め、耳を噛み、胸を弄る。腰から下にまとわりつく衣服が、厭わしくてたまらなくなる。全裸になって、先にベッドに横たわったのは碧だ。ベルトを外す分だけ、彼のほうが遅れたというわけ。
下ろしたジッパーから覗く下着の色、そして露になった永久の形に感じながらも、マットレスに受け止められた両脚に疲労感が宿っているのに気づく。
「脚が痛い…」
ジーンズを脱ぎ去る寸前の動作を停止させ、永久が呆れたように片眉を上げた。
「軟弱者め。もう少し歩け」
「…ですね」
せいぜい家から駅までとか、駅から駅までしか歩かない日常だ。写真家にとって散歩程度の距離を歩いただけで、労わりを期待するほど弱っているのだから、苦言を素直に受け入れるしかないだろう。
「碧、うつぶせ」
突然の明るい命令に続いて、反転を促すジェスチャー。
「なに?」
「初回サービス。マッサージつき」
「はは、ほんとに?」
「いいよ。やってやる」
どこまで冗談だろうかと笑いながらも、寝返りを打ってうつぶせると、冷たいシーツが腰のあたりに掛けられた。本気なのかと却って疑いが浮上したのだが、撫でるより力強い圧力が太腿を移動し始めたことで、それも消えた。最初、何かを探すようにさまよっていたが、やがて狂いがなくなる。じゅうぶんに太腿をほぐした後、ふくらはぎをゆっくりと圧されて、ため息がこぼれた。
「――あ。上手いね」
「今の声…そそるな」
否定したかったけれど、またゆっくりと圧されて、また、噛み殺しきれない息が漏れてしまった。忍び笑いが伝わってくる。
「触るとよくわかるよ。普段歩かない脚してる」
まるで専門家のように、真面目腐って言わないでほしい。
「すごく不思議なんだけど」
「うん」
「どこで習ったの?」
「ん?隣人に」
「隣人…」
専門家どころか、偉大な誰かの言葉みたいな返答。
「ほんとの話。学生ん時、隣に整体の専門学校に通ってるやつが住んでたんだ。仕事辞めて学校入りなおしたとかいう、結構おもしろい人でさ」
入りきらなくなった機材を置かせてもらったり、世話になったなあ、と述懐が続く。碧が小さく相槌を打てば、後は無言だった。
呼吸よりずっとゆるやかなリズムで施される手技に、誘う動きはないのに。シーツの下で、惹かれるように、重力を脱し始めている。わずかに脚を開き、肘を立て、臍の下に隙間を作るように浮かせると、シーツがほんの数センチずり上がる。その誤差のような数センチが、決定的に必要だったのだ。足首に近い部分を揉んでいた永久の手が、離れる。彼の視点からは、そこが、見えるはずだから。
甘やかされていた脚に力を入れ、膝を立てる。
「みどり…」
背中を滑るハスキーヴォイスに、呼びかけられたのか、問いかけられたのか。
猫のポーズが何を意味するのかと、そんなことを訊かれたらきっと耐えられなかったと思う。沈黙を守ったままの永久は、碧の望みを叶える存在だった。
まずは、片方の尻にキスを。唇の湿った部分を押し付け、放すときにちゅっと鳴らすようなやつだ。
「ん」
それから、割れ目に沿って指を入れ、開く。この時しか、しかも彼にしか見えないほくろを、たぶん見ている。
「ねえ」
「そんな声、出さないで」
切なく懇願するのは、どちらが、どちらにだろう。くぐもった鼻息を感じ、舌先が挿し込まれる。
「…ぁ」
濡れた感触に、目蓋が痙攣する。何度か入り口をくすぐられ、染み込まなかった唾液が一筋、内股を伝うのを感じる。それを指で塗り込める彼の指が、碧の中で小さく音を立てた。麻酔でも打たれたみたいに痺れていたせいで、自分で思っていたよりずっと臨界点が近かったことに、漏れて初めて気づく。先端から涙のように溢れて落ちた、一滴。下腹が震えた。
「ね、とわ」
「…うん」
押し進んだ瞬間の、自分の身に訪れる快感と、相手の身に訪れる苦痛の、両方を知っているから。強い衝動とわずかな抑制がせめぎ合う息継ぎが、でも、じれったい。残り少しの冷静さを放棄させるために、自分の恋人がこんなふうに腰を揺らしているのだとわかっているなら、0.1秒でも早く従うべきだろう?
秒速の駆け引き。続けてもう一度名前を呼ぶ前に、腰を掴まれて、ぬるりと硬い永久に喘がされた。
「あっ――ふ、ぅん…」
入り口をえぐって、内側を滑走し、辿り着くまでの小宇宙の距離。
「碧、いくね」
「は、ぁんっ…」
温かく、凶暴な硬さの永久のペニスが、来た時より激しく去る。
交尾の角度から打ち付けられるそれは、弾むようなバネを備えている。交尾の角度で揺らされる自分は、次第に、人間の言葉を忘れていった。
何度目かに、喉を締め付けて鼻で泣くような声が出た時。手繰り寄せたシーツをいつの間にか噛み締めていたことを知る。重く湿った布を口から外した途端、
「んゃっ…」
そこから音が漏れ出た。この声を塞ぐために、咥えていたのだろう。シーツを再び噛むより前に、永久のストロークがまた碧を泣かせた。
絶え間のない、浅くて速い息遣い。声もなく、彼はひたむきに追いかけてくる。