Novel >  KEITO >  いとし年越し1

1.

「………まじで?」
 というのが、乾の反応だった。
 心底驚いた表情とか、そういう時意外とリアクションが小さいとか、そもそもそのリアクションまでらしくないほど時間がかかったこととか、滅多にお目にかかれないものを複数同時に目撃したような気がする。
 彼のペースを乱すことに成功したのは、特別な計略でも何でもない、単なる事実の一つ。
 十二月三十一日がオフになった。
 正確に言うと、十二月三十一日の夜勤から外れた。
 ただそれだけのことだった。
 自分自身、少し驚いてはいる。
 たまには休め、なんて、社長の恩恵か気まぐれかによって空欄になったシフト表。今まで当たり前のように出勤していたので、なんというか、拍子抜けした、というのが近いだろうか。勤続五年………だっけ?十八の時からだから、ええと―――そういうことはどうでもよくて、とにかく勤続五年くらいにして、初めてのことである。初めて、大晦日から元旦にかけての仕事がないという状況に陥っている。もとい、置かれている。
 いつものように朝に帰宅し、いつものようにシャワーを浴びて、いつものように音楽を聴いたり本を読んだりしてそのうち眠って。でもいつものようには寝付けなくて、いつもよりずいぶん早く、目が覚める。
 十二月三十一日、午後三時。
 カーテンの隙間から漏れる光は弱く、ひどく冷え込んでいる。
 ヒーターのスイッチを入れて、再び布団に戻る。寒い。しばらくぼうっと煙草を吸いながら、何を着ようか考える。ニットの色は、カーキと青のどちらにしよう、とか。
 ニットの色を決めたら顔を洗って、向かうのは彼のマンションだ。

 

 駐輪スペースに原付バイクを止めて、灰色の空を見上げる。まだ雪はちらついていない。
 切実に、暖かい部屋が恋しい。いや、なにも恋しいのは部屋だけではないのだけど、などと恥ずかしい思考も空転気味に、慧斗は階段を駆け上がった。
 ドアホンを押すとすぐに、奥から返事がある。
「中村くん?」
 ドア越しにも朗々とよく響く声。同じように返事をするのは不可能なので、無言でドアノブを捻り、引く。
「おす。早かったな」
「あ。ごめん………」
「なんで謝んの。今日寒いなぁ」
 いつでもいいと言われていたので、却ってタイミングを計りかねた感はあった。早すぎたろうかという不安は、ひょっこりと現れた笑顔に払われる。
「もう起きてんなら、迎えに行こうかと思ってさ」
 片手に握った携帯電話の画面をこちらに向けて、乾はにっと口の端を上げた。
「電話しようと思ってたとこ。もうちょっと早くかけてやればよかったな」
「や、そんな」
「つーわけで」
「え、うん?」
「一緒に買い出し行こうぜ」
「あ、はい」
 乾は既にコートを着込んでおり、状況はどちらかと言えば、外出直前の彼にばったり出くわしたというのに近いらしい。玄関での待機時間わずか数十秒にして、再び外へ出なければならないというわけか。
「はい、回れ右」
 暖かい部屋は遠のいたが、無造作に両肩に乗せられた手のひらの重さで帳消しになる―――だなんて、思考はまだ空転中かも。腕の中でやや強引に方向転換させられ、そのまま押し出されると思いきや、抱き締められる。ぎゅっとして、しばらく、そのまま。じんわりとため息を吐いたら、ふふ、と笑われた。
「さて。行きますか」
「うん」
 急いで上って来た階段を、今度はゆっくり下りる。
 曇天の下でも鮮やかな、そこだけアクリル絵の具を塗ったような青い車が、キーセンサーに反応してランプを点滅させる。
「うわ、寒」
 先に乗り込んだ乾に、思ったことを言われてしまったので、慧斗は頷くだけだ。
「道混んでた?」
「や、そんなには」
「そっか。あ、エアコン調節してね」
 言いながら乾は、ゆるやかに車を発進させた。
 乾のマンションからだと、一旦通りに出てしまえば郊外の大型スーパーまでほぼ一本道だ。あさってを向いていた送風口を直していると、運転席からちらりと視線を投げられる。
「どうよ、大晦日の街並みは」
「………どうって言われても」
「はは、べつに?」
「うん、べつに」
「しかし、そう考えてみるとサービス業は大変だよな。なんだかんだ言っても、俺、休みはカレンダー通りだし」
「全然。大変なことなんかないけど」
「すぐ全否定するよ」
 声色が笑っているので、たぶん顔も笑っているんだろう。
 大変かどうかはともかく、サービス業というかコンビニ勤務に年末年始休業という言葉が関係ないのは事実で、珍しすぎる今日の休みが、彼の機嫌をずいぶん良くしているのもどうやら事実。自分はというと、やはり少し、慣れたはずのシートの座り心地が悪かったりする。
 速度は快調のまま、十分ほどでスーパーに到着し、出入り口から二ブロック離れた所にスペースを見つけて車を停める。ドアを閉める時、指先にピリっと静電気が走る。慧斗は手をさすりながら、グレーのコートの背中を追いかけた。
「今」
「うん?」
「ドア閉める時、静電気が起きた」
「お、だいじょぶだったか?」
「うん」
 買い物かごは一つ。それをカートに乗せて、乾が歩き出す。
 片手で押しながら、片手でポケットを探り、携帯電話を取り出す。大きくて薄くて、黒い機体。
「まずはー、大根」
 画面を指で撫でて開いたのは、メモ帳らしい。慧斗の周囲で、一番最初にスマートフォンに買い換えたのは彼だ。二人目は二見だが、二見の携帯の設定をしたのは乾だそうなので、使いこなしている人物という意味では乾一人だろう。心から尊敬できる、理系という人種。パソコンと同期できるから便利なんだって。あと、感覚で操作できるのがいいらしい。ボタンがないこととか、メール設定が複雑だったりアプリが必要だったりとか、知れば知るほど面倒というより忌避に近い感情を抱く自分は、決定的にアナクロな人間なんだと思う。
 ―――関係ないことを考えていたせいで、置いて行かれそうになっている。
「乾さん、俺持つよ」
 空いているほうのカートの取っ手を握ると、頭上で乾が笑った。
「なんか欲しいもんあったら、適当に入れて」
 そう言って、大股に歩き出す。近くのスピーカーから流れてくるのは、正月のテーマみたいな、あの曲。
「中村くん、夕飯なに食べたい?俺としては、先に何か食っといて、蕎麦は夜食にしたいんだが」
「なんでもいいけど………」
「だよな。ま、なんか食いたい物を各々入れていこう」
「うん」
 半分にカットされた大根が入る。次に、にんじん一本。長ねぎとほうれん草も入った。
「たまごー………の前に、かまぼこか?」
 迷いのない足取りで迷う乾に翻弄されつつ、カートを押してついていくうちに、かごの中身は順調に増えている。
「中村くん」
「あ、はい?」
「お菓子以外にも何か入れてよ」
「あ、はい」
 期間限定味のポテトチップしか入れていないことに、気付かれていた。カップラーメンを入れようかとも考えたのだが、どうやら本格的に蕎麦を茹でる気でいるらしいのに、いくらなんでもあんまりだろうと思い留まったのだ。そういえばここのところパン中心で、米を食べていないことに気付き、おにぎりに手を伸ばす。
「中村くん。頼むから、もう少し豪勢にいこう」
「え?」
「米の気分?」
「うん、まあ………」
「あ、じゃあ帰りがけに牛丼買ってこうぜ。ドライブスルーあったよな」

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